漢詩や篆刻が育んだ尾崎秀真と台湾人の友情

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台湾近代美術史に数々の業績を残した尾崎秀真

台湾で発行された近代美術史の本を見ると、尾崎秀真(ほつま)の名前がたびたび登場し、台湾に残した彼の業績の数々が発表されている。そもそも尾崎秀真と台湾との縁は、1901年4月、彼が、医師で政治家も務めた後藤新平の招きで台湾日日新報社の記者になったことに始まる。籾山衣洲(もみやま・いしょう)の後任として同紙の漢文版主筆となったのはそれから3年後のことだったが、総督府台湾史料編さん事業に携わった1922年以降、史跡名勝天然記念物調査会の調査委員や台湾博物館協会の理事を務めるなど、在台45年、ジャーナリストとしてだけではなく、歴史、考古学の分野でも多くの業績を残している。

これらは台湾の研究者の間では周知の事実となっているが、肝心の日本では秀真はゾルゲ事件(ソ連のスパイ事件、1941-42)に関与した尾崎秀実(ほつみ)の父として知られている程度で、研究者でも彼の台湾における業績、ましてや彼が詩書画にも精通し、篆刻(てんこく)の分野でもさまざまな活動をしていたという事実を知っている人は極めて少ない。

資料(※1)によると、秀真は18歳のとき、親の期待に応えるべく故郷の美濃(現在の岐阜県)から上京、東京の病院に薬局生として住み込み、私立の医学校、済生学舎に通っている。その後、『医界時報』という医者向けの新聞の編集に携わるようになって、当時内務省衛生局長だった後藤と交わるが、この出会いが後に彼の人生を大きく左右することになる。

日清戦争で『医界時報』が休刊になると、小学生の頃から漢詩漢文に親しみ、もともと文学に強い憧れを抱いていた秀真の詩作への思いが再燃した。親の期待を知りつつも医学の道を中途で捨て、1896年に創刊された雑誌『新少年』の編集部に入り、作家・鹿島桜巷(おうこう)らと共に選者の一人となった。この頃の秀真は、依田学海(がっかい)に漢詩を、渡辺重石丸(いかりまろ)に国学を、高崎正風(まさかぜ)に和歌をそれぞれ学び、ひたすら文学の世界にふけったと伝えられている。

1897年3月、秀真は『新少年』の編集主幹となり「白水」と号したが、篆刻の世界に足を踏み入れたのも、どうやらこの頃のようだ。篆刻印は、書画の完成に際してサインとして用いるが、漢詩人であった彼がその魅力に引かれていったのは、むしろ当然の成り行きだったのかもしれない。

(※1) ^ 尾崎秀真「秀実の生い立ち」『回想の尾崎秀実』尾崎秀樹編、1979年、勁草書房

篆刻にのめり込み、同好会を結成

経営難で『新少年』が廃刊になると、秀真は北隆館の『少国民』の編集者を経て、報知新聞の記者となった。彼が台湾に赴任するようになったのは、『医界時報』時代に知遇を得た後藤の強い要請による。後藤は台湾総督府民生長官として台湾に渡るに当たり、台湾日日新報創刊のため、福建省からの移民が多い台湾の実情を考慮し、漢文ができるものを採用したい、との強い意向を持っていた。

秀真は当初、単身で台湾に渡り、その後家族を呼び寄せ、台湾日日新報漢文部の先輩・籾山が仮住まいをしていた児玉源太郎の別邸「南菜園」に留守番係として移り住んだ。日曜日ごとに従卒一人を連れ、畑仕事に精を出す児玉の野菜作りの手伝いや詩会の世話など、何かと多忙な日々を送る秀真の下に、後藤が早朝から妻を伴い、その頃台湾に2、3台しかなかった自転車に乗り、稽古と称して「南菜園」を終点にし、たびたび立ち寄っていたという。

台湾日日新報社の漢文版主筆となった秀真は、1906年9月「南菜園」の近くに新居を構えると、自ら「古村」と号し、自宅を「讀古村荘」と命名、同紙の記者で、書画や印材に造詣が深かった村木虎之助(鬼空)らと篆刻を研究する同好会「水竹印社」を結成した。

この頃、秀真は「白水」「古村」のペンネームで台湾日日新報に連載『田園日記』を発表するが、そこには「水竹印社」同人との交流の様子、当時の著名な篆刻家、足達疇村(ちゅうそん)の弟子にして漢文版の先輩である小泉盗泉(号・愁魔王)と篆刻について熱く語り合った話など、日々篆刻にのめり込む当時の秀真の姿がありありと描かれている。

秀真は事あるごとに篆刻家たちを「讀古村荘」に招いているが、そんな彼の下に11年春、篆刻家の西樵仙(さいしょうせん)、南画家の新井洞巖(どうげん)、総督府高等女学校教諭の須賀蓬城(ほうじょう)の3人の日本人が訪れた。西は、長崎で政治家・教育者として名を馳せた西道仙の子で、書、篆刻、茶をよくした人だったが、秀真を含む4人はここで七言絶句の漢詩一首を詠み、その記念として「古邨小集」という篆刻印を遺している。

その後の秀真は、須賀蓬城らと自作の印章を披露する「観印会」を催したり、日本から篆刻家を招いて篆書の揮毫(きごう)を求めたりと、篆刻の研究熱は高まる一方だった。芸術愛好家の仲間を募り、さらなる発表の場を求め彼が動き出すのはさして時間を要しなかった。

台湾だからこそ開花した芸術的資質

1929年秋、台湾日日新報社常任監査役にして、石章、古硯(こけん)、印譜のコレクターとして名高い石原幸作(号・西涯、三癖老人)と「趣味の会」を、さらには1935年夏には石原幸作、嶺謙也(号・竹軒、台北市新起町郵便局局長)らと「玉山印社」を、それぞれ組織している。

ちなみに「趣味の会」の発会式は北投の温泉旅館、桔梗屋で開かれたが、秀真をはじめ台北の書画家や篆刻家が三十数名集まり、温泉に浸かった後、大広間で素焼きの陶器に揮毫したり、土器に篆刻したりしたと伝えられている。

秀真は台湾日日新報に、篆刻家たちの作品を紹介する連載『古邨讀餘印存』や篆刻の心得や品評を述べた連載『讀古荘清談』を次々に発表しているが、あるとき、石についても記者の取材に次のように答えている。

石に対する道楽は支那でも非常に古くからあったもので(中略)、支那人は石の堅いこと及びそれと共に苔のついた石の柔らかさ、水に浸っている潤いなどを非常に愛したもので、これほど芸術味豊かなものはなく、実に東洋芸術の粋であります。東洋芸術でも草花より盆栽に進み、骨董のうち書画刀剣よりさらに進んで、最終的には石に到達し、石を愛するに至って、初めて東洋芸術の蘊蓄(うんちく)を究めることになります。(中略)私の主義たる自然石を拾ってきて集めるということからいえば、すなわちこれは乞食であり、乞食にならねば駄目である。お金をかけて趣味のコレクションをなしている間はまだまだ初歩であり芸術の中途にあるものです。(中略)石は死物ですけれども、こうして石を蒐集(しょうしゅう)し愛することを「石をかう」とか「石を養う」すなわち「養石」とかの言葉が用いられ、死物に対する無量の芸術味を鑑賞するのです。(台湾日日新報、1931年7月20日、3面)

秀真は、台湾美術展覧会の評議員や書道展の審査員を務めた時も、有識者による台湾の歴史文を語る座談会に出席した時も、一貫して詩書画一体(篆刻含む)によって成立する東洋芸術を重視するよう求め、台湾の文化を語るにはまず台湾の生い立ちを知らなければならないと説いている。

幼い頃より目覚めた文学への憧れはやがて篆刻の世界で実を結ぶことになるが、彼本来の芸術的資質は、当時まだ清朝時代の伝統文化が多く残った台湾であったが故に深められたといっても過言ではない。ともすれば明治の知識人・エリートは政府が推進した欧化主義により伝統文化と背馳(はいち)せざるを得なかったが、その一方で秀真のように東洋芸術の神髄を究めようとする日本人がいたことも忘れてはならないと思うのである。

参考文献:葉碧苓著『日治時期推動臺灣篆刻的領軍人物:尾崎秀眞(1874-1949)』臺灣美術學刊No.112 2018

バナー写真=台湾時代の尾崎秀真(前列左から2人め、後列左から3人めは尾崎秀実)と家族、1919年春(筆者提供)

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