台湾で根を下ろした日本人シリーズ:異国の音楽業界で活躍するギターの求道者——ギタリスト・大竹研

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大竹 研 ŌTAKE Ken

千葉県四街道市出身。高校時代から独学でギターを始める。学習院大学在学中にプロのギタリストを志し、布川俊樹、津村秀明に師事。沖縄音楽の平安隆をサポートしていた2003年、台湾の「流浪音楽祭」で客家のシンガーソングライター林生祥と出会う。その後も林との共演を重ね、10年にはベーシストの早川徹と共に林の率いる生祥楽隊に正式加入。また萬芳、張恵妹ら台湾のトップアーティストとも数多く共演するなど、現在の台湾音楽シーンでは屈指のギタリスト。
大竹研ファンページ:https://www.facebook.com/DaZhuYanKenOhtake/

音楽にのめり込むきっかけは長渕剛

大竹研は中学生までは野球少年だった。小学生の頃にピアノを習ったことはあったものの、音楽に慣れ親しんだとまでは言えなかった。そんな大竹が音楽に引かれるようになったのは、中学2年生の時に聴いたシンガーソングライターの長渕剛がきっかけだった。その後、ロックバンド、Boøwyの布袋寅泰の演奏に衝撃を受けてからは、完全にギターの虜(とりこ)となった。

「高校の入学祝いに買ってもらったヤマハのアコースティックギターを同級生の持っていたフェルナンデスのエレキギターと交換してもらい、そのままガンズ・アンド・ローゼズ、ヴァン・ヘイレンなどのハードロックにのめり込んでいきました」

しかし、大学の軽音楽部に所属してからは、ジャズやヒップホップも含め、あらゆるジャンルの音楽と親しむようになる。大学3年の年に、プロギタリストになる決心をすると、ジャズギタリストの布川俊樹の門を叩き、ギターを学びながら布川の付き人となった。大学を卒業してからも、電話オペレーターのアルバイトで食いつなぎ、ギタリストの夢は手放さなかった。そして、1999年に布川の新譜発売ツアーで、プロのギタリストとして初めて舞台に立った。

大竹がもう一人師事したギタリストの津村秀明からは、クラシックやアコースティックギター、音楽理論の手ほどきを受けた。プロとして、原点からギターという楽器を学び直す必要を強く感じたからだ。すでに実践を積んできた大竹は自ら「真綿が水を吸うように」と形容するように、津村の教えを吸収した。

ちょうどこの頃、米国ボストンのバークリー音楽大学で教べんを執るブルースギタリストのトモ藤田の存在を知り、バークリー留学を志すようになる。津村の励ましもあり、生活費を切り詰め、アルバイトで資金をつくり、ついに2002年5月から奨学金生としてバークリーへの入学が決まった。その前年の01年秋には事前調査も兼ね、2カ月間ボストンに語学留学もした。全てが順風満帆に見えた。しかし、結局大竹はバークリーには行かなかった。一人の男との出会いが理由だった。

大竹研(山下民謡提供)
大竹研(山下民謡提供)

人生を変えた沖縄出身のミュージシャンとの出会い

2001年12月末に帰国した大竹は、トモ藤田や大竹自身も愛用している「Kanji」ブランドのギタービルダー、川畑完之の工房に足を運んだ。そこで米国のブルースギタリストのボブ・ブロズマンとも親交のあった沖縄出身のミュージシャン、平安隆から、バークリー入学を翌年2月に控えていた大竹に、一緒にやらないかとのオファーがあったのだ。

「アメリカに行っても言葉が上手くなるだけだとも言われました。実は自分自身も前年の語学留学から帰って来て、このまま進学しても自分がギタリストとして成長できるのか、疑問を感じていたこともありました」

大竹はその場で了承した。この瞬間、大竹の留学話も消えた。それからは、東京近郊の沖縄居酒屋を中心に、年間200本のライブで演奏する怒涛(どとう)の日々が始まった。平安からはリズムの大切さを叩き込まれた。プロとして稼ぐことの厳しさや観客とのコミュニケーションを取ることの大切さも現場の実践の中から学んでいった。

大竹研(山下民謡提供)
大竹研(山下民謡提供)

03年10月のことだった。平安が台湾の「流浪音楽祭」に招待された。これまでは、国際的なステージでは、ボブ・ブロズマンと常にコンビを組んで来た平安が、この時は大竹を連れて行くことにした。大竹の演奏は他の出演者や台湾の聴衆からも好評だった。

この音楽祭でセッションを組み、平安、大竹と同じステージに立ったのが林生祥だった。林生祥は自分の出身地である高雄県美濃鎮(現・高雄市美濃区)を拠点に、母語の客家語の叙情的な歌詞に乗せ、故郷の土地への慈しみをつづるシンガーソングライターである。同行していたギタービルダーの川畑も、林生祥と大竹の音楽は親和性が高いと直感した。

大竹はいったん台湾を離れたが、05年にドイツのルドルスタッド・フェスティバルに林生祥の参加が決まると、当時林生祥のマネージメントを手掛けていた大大樹音楽図像(Tree Music & Arts)の鍾適芳は平安と大竹をドイツに招いた。大竹はその後もたびたび鍾適芳に呼ばれ、林生祥とのステージを重ねていった。

一方、その翌年の06年2月に、大竹は4年間苦楽を共にした平安の下を離れる決意をする。そして、2カ月後に台湾の「客家桐花祭」で行われた林生祥のステージには再び大竹の姿があった。この年8月に発表された林生祥の新譜「種樹」のレコーディングにも大竹はギタリストとして全曲参加した。翌年、台湾のグラミー賞と称される「金曲奨」の最優秀客家語ボーカリスト賞と最優秀客家語アルバム賞を受賞しながら、音楽を言語や「族群」のカテゴリーに分けることに林生祥が異を唱え、授賞式の会場でトロフィーを返上して話題となった作品である。

こうして大竹は家族の住む日本と台湾の間を往復しながら、7年にわたり林生祥のライブやアルバム制作に参加し続けた。大学の音楽サークル仲間で盟友のベーシスト早川徹とともに、林生祥のバンド「生祥楽隊」の正式メンバーともなった。11年には大竹自身の初のソロアルバムとなる「似曾至此(I Must Have Been There)」が完成。続いて13年に生祥楽隊としては初のセルフプロデュースアルバムとなる「我庄」を発表した。その年の秋に大竹は日本から妻子を呼び寄せ、台湾に本格的に腰を落ち着けることとなった。

林生祥(中央)、大竹研(右1人目)とバンドメンバー(山下民謡提供)
林生祥(中央)、大竹研(右1人目)とバンドメンバー(山下民謡提供)

数々の受賞を経て活動の幅を広げる

「我庄」はこの年、台湾のもう一つのメジャーな音楽賞である「金音奨」の最優秀アルバム賞、音楽家賞(六弦月琴、林生祥)、審査員賞の三賞を獲得し、生祥楽隊を台湾のメジャーシーンへと一気に押し上げた。2017年には、台北映画祭のグランプリ受賞作品「大仏+(原題:大佛普拉斯)」の音楽を林生祥が担当し、大竹も編曲と演奏に加わったエンディング主題歌「有無」が映画賞「金馬奨」の最優秀オリジナル映画楽曲賞を受賞した。

大竹研が参加したアルバム(大竹研撮影)
大竹研が参加したアルバム(大竹研撮影)

生祥楽隊の活動と並行して、14年には、大竹は早川とドラマーの福島紀明とのジャズトリオ「東京中央線」の活動も始める。彼らの自由闊達(かったつ)な演奏は、台湾や香港の聴衆からも、新鮮な驚きをもって迎えられた。そして、ドラマーの福島も15年から生祥楽隊に加わった。

18年には、大竹自身の教え子でもあるアイリーン・チェン(陳彥伶)のミニアルバム「Born To」の制作に参加、またバンド活動や他のアーティストのサポートの傍ら、ギター1本でのソロライブも年間30本ほどこなし、台湾各地を巡った。これまで先人から受けた恩を今度は後進に「恩送り」する側に回るようになり、バンドの中では脇を固める役回りに徹していた大竹が、自ら主役を演じるようにもなった。

さらに、平安と10年以上の時を隔てて「台北ジャズフェスティバル」の舞台で共演も果たした。経験を重ねた今だからこそ奏でられる音がある。大竹は恩師との再会をギターの演奏で心ゆくまで楽しんだ。そして、台湾でレコーディングされた平安の新譜「雲遊び」が2019年3月末に台湾で発売、日本でもリリースされることになっている。大竹が平安のためにプロデュースした作品だ。平安と出会ってから16年、アルバムの制作という形で師への最高の恩返しを果たせることになった。

大竹のギターは「無色透明の水や甘い香りのシングルモルトウイスキーのようだ」と評される。どんなジャンルの音楽でも、どんな個性のミュージシャンとも、その形に合わせて変幻する。それが大竹のギターの最大の特徴であり、魅力でもある。だが、これからの大竹はどこに向かうのか。

「生涯ミュージシャンであり続けること、そして『看板』に自分の名前が載るようになることです。『自分とは何ぞや』と問い続けながら、常にギターを通して自分と向き合い、自分を磨くことです」

ギターとひたすら向き合う現在の大竹には求道者の風格すら漂っている。平安に導かれ、林生祥に受け継がれた縁で大竹は台湾に根を下ろしている。自身のソロアルバムのタイトル「似曾至此(I Must Have Been There)」の通り、彼はここにいるべくしているのだ。

大竹研(山下民謡提供)
大竹研(山下民謡提供)

バナー写真=大竹 研(山下民謡提供)

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