ハンセン病施設跡を世界遺産に――台湾とマカオの療養所跡を訪ねて

国際 歴史

台湾の保存運動に心が震えた

2019年3月、マカオのコロアン地区に残るハンセン病療養所跡を訪れた。一般公開されているわけでもなく、突然の訪問でもあったのに、警備員は快く門の鍵を開けてくれた。

その様子をお知らせする前に、一見普段の生活に関わりの無いハンセン病療養所になぜ興味を持ったかを簡単に記しておこう。

きっかけは台湾だった。新北市で持ち上がったMRT(地下鉄)の操車場建設計画により、日本統治下の1930(昭和5)年に開設したハンセン病療養所「楽生院」が取り壊される!そのことを知った学生や市民が反対運動を繰り広げていると新聞が伝えていた。2007年頃だったと思う。文化財としての楽生院を守ろうと建築を学ぶ若者たちが立ち上がったのかと思ったら、(それもあるのだが)彼らの主張は、人生の最後を迎えつつある年配の回復者(元患者)たちからついのすみかを奪うな、という極めてヒューマンな訴えだった。

戦前の日本政府はハンセン病に対して徹底した隔離策を取ったため、発病した者は子供でも大人でも有無を言わさず施設に収容され、家族やふるさとから引き離された。そうした過去を持つ入所者たちの長年の悲しみや安住の地を追われる痛みを共有し、彼らに寄り添って若者たちは抗議をしている・・・・私はひどく心を揺さぶられた。

以来、活動の成り行きが気になっていたが、10年に新北市が市の文化遺産に登録。建物は操車場建設工事でかなり壊されてしまったものの、文化部文化資産局の世界遺産候補地にも指定され、入所者たちの安住の地はかろうじて保たれた。

15年、私は社団法人「台湾世界遺産登録応援会」の理事数名と共に現地を訪れ、保存運動の参加者から話しを聞き、建築家に案内され施設の状況などを視察してきた。残念なことに本館はすでに取り壊され、残っている建物にも大きなクラックが入って、今後修復が課題であることは一目瞭然だった。しかし、日本統治時代に建てられた住居棟はそのまま残り、小ぎれいな庭や花の咲いた植木鉢や洗濯物からささやかな幸せが見て取れた。

改修工事が進むマカオの療養所跡

その後、にわか勉強をしながら日本の療養所も見学した私は、16世紀に造られた歴史あるマカオの施設を、機会があれば見学したいと思っていた。ポルトガル人はどのようにハンセン病施設を運営していたのかも知りたかった。

先月の初め、内外の観光客がごったがえすマカオ半島のモンテのとりでや聖ポール天主堂跡から、北東へ数分歩き、石造りの建物に緑色の窓がアクセントになった「聖ラザロ教会」(中国名は望徳堂)へ到着した。いつの間にか観光地の喧噪(けんそう)が遠のき、ひなびたポルトガルの街角に来たようである。

この教会は1568年に初代のマカオ司教がハンセン病施設の付属礼拝堂として建て、聖母マリアを祭った。同じ頃、ハンセン病の療養所が旧城壁の外に造られ、カトリック教会が運営してきた。入所者の世話をする宣教師や尼僧は、人道的な対応を取り隔離をすることもなかった。また、多民族が共生するマカオらしく、どんな国籍の病人でも受け入れた。16~17世紀のマカオは、貿易とキリスト教を介して東洋と西洋を結びつける大役を担っていたことは、世界史の授業でも習ったとおりだが、17世紀には徳川幕府に迫害された大勢の日本人キリシタンがマカオに逃れてきた。入所者の中には日本人だっていたかもしれない。

聖ラザロ教会の近くにあった療養所は、時代につれてあちこちに移転し1947年にコロアン地区へ移って現在に至っている。

その療養所跡は、東部の九澳山の山腹にある。コロアンは近年埋め立てが進んで島の形がすっかり変わってしまったが、山道を登ると風が潮の香りを運ぶ緑豊かな一帯が残っている。しばらくドライブすると、「九澳康復医院」の敷地内に療養所跡が見えた。警備員によれば、療養所の役割は1966年に終わり、所内で暮らしていた患者や回復者は全て老人ホームへと移り、87年に完全に閉鎖された。その後、麻薬患者の更生施設や老人ホームに建て替える計画もあったそうだが、長い間放置されていたという。

廃屋になっている未改修の建物(筆者撮影)
廃屋になっている未改修の建物(筆者撮影)

中国への返還後の2009年、文化局によってマカオの世界遺産候補としての調査が行われ、14年からは改修作業が始まった。南欧風のパールイエローの目にも鮮やかな建物が並ぶ様子は、その昔ポルトガル人官吏が住んでいた家々を博物館にしている「タイパ・ハウス・ミュージアム」みたいだ。修復された入所者の住居棟と好対照をなすのはツタがからまってすっかり廃屋になった1930年代の建物だ。洗面台付きの回廊は、治療棟へ向かっていたのだろうか。

改修が行われたマカオ「九澳康復医院」の敷地内にあるハンセン病療養所の患者住居棟(筆者撮影)
改修が行われたマカオ「九澳康復医院」の敷地内にあるハンセン病療養所の患者住居棟(筆者撮影)

奥へ進むと、あちこちからマリア像の慈愛あふれる視線を感じる。そして突き当たりには、「痛苦之母天主堂」(REJA NOSSA SENHORA DAS DAM)と名付けられた簡素な教会がひっそりと建っていて、ここは礼拝にまだ使われているらしい。日本や台湾で見かける納骨堂は敷地内には見当たらなかった。歴史の証人として療養所跡は、そのうち一般開放するのだろうか。

入所者を見守ってきたマリア像があちこちに立っている(筆者撮影)
入所者を見守ってきたマリア像があちこちに立っている(筆者撮影)

未来のために連携したい

人々を長い間苦しめてきたハンセン病は、患者にとってはいわれのない差別との戦いでもあった。いまや薬も治療法も進化して、ハンセン病は不治の病ではなくなったのに、まだ世界のどこかでは無知から来る偏見、差別、迫害によって苦しんでいる人々がいる。患者に対する根強い偏見は、私たちの日常に潜むあらゆる偏見と同根で、決して無関係とは言えない。

現在ユネスコが登録している世界遺産には、戦争と奴隷売買に関するテーマのいわゆる「負の世界遺産」もあるが、ハンセン病をそこに加える運動が世界的に盛り上がることを願っている。患者と回復者と一般の市民が共に手を取り合うことが大切だ。人権史からも医療史からもハンセン病療養所は人間の心の弱さとそれを克服しようとする強さを教えてくれる。

私は、台湾の楽生院の保存運動を始めた学生たちの、他者への思いやりと関心こそが、温かなヒューマニズムあふれる未来につながると考えている。

バナー写真=台湾「楽生院」の患者住居棟(筆者撮影)

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