牡丹社事件は生きている——今も続く和解の試み

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台湾出兵で戦死した兵士の遺族からの連絡

つい先日、見知らぬ方からフェイスブックの友達リクエストが舞い込んだ。こうしたことはよくあるのだが、今回、最初のあいさつ文を見た途端、私の心拍数は一気に上がった。そこには、「ご著書に登場する北川直征の子孫です」という言葉があったからだ。

『牡丹社事件 マブイの行方 日本と台湾それぞれの和解』
『牡丹社事件 マブイの行方 日本と台湾それぞれの和解』

2019年5月に私は『牡丹社事件 マブイの行方 日本と台湾それぞれの和解』(集広舎刊)というノンフィクションを上梓した。その中で紹介した北川直征は、1874(明治7)年の台湾出兵に加わった元薩摩藩士の1人だ。同年5月18日に、台湾島南部の恒春半島西部に設けた日本軍の駐屯地から山間の渓谷を下見に出かけた際、敵方の原住民(パイワン族)と遭遇して殺害された。おそらく、彼が最初の戦死者と思われる。145年前に、20代の若さで命を落とした兵士のやしゃご、つまり5代目に当たる人物が、「北川の子孫が生きていることを知らせたかった」とメッセージを送ってくれたのである。

昔の事件に一気に血が通い、いにしえからの鼓動が響いてくるような感慨にとらわれた。

長崎市西小島町にたつ北川直征の墓標(筆者撮影)
長崎市西小島町に立つ北川直征の墓標(筆者撮影)

忘れられた日台近代史

北川直征ら多くの若者が参戦した台湾出兵のきっかけとなったのが、その3年前に起こった「琉球民遭難殺害事件」である。琉球王府へ年貢を納めた帰りの宮古島の船が台風のため現在の屏東県八瑤湾に漂着し、上陸した66人のうち54人がパイワン族に殺害されるという惨劇だった。どちらも台湾恒春半島の「牡丹社」が舞台となったため、この2つを併せて「牡丹社事件」と呼び習わされている。「社」は原住民のコミュニティーを指す言葉だ。

当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国で、その帰属を巡って対立が生じつつあった。明治政府は「原住民に対する懲罰、自国民の保護、航行の安全」を大義名分として、事件から3年後に西郷従道率いる大軍が牡丹社を攻めた。パイワン族との戦闘は半月ほどで勝負がつき、日本軍の勝利に終わる。この結果、明治政府は琉球を自国の領土だと内外に宣言し、後の台湾領有を確実なものとした。

「牡丹社事件」は、近代国家として出発した日本にとっても、併合された琉球にとっても、日本の領土になった台湾にとっても、かつての宗主国だった清国にとっても、非常に重要な意味を持つ出来事なのだ。台湾では歴史の授業でこの事件を教えているが、日本ではほとんど取り上げていない。

100年越しの大和解プロジェクト

以前、コラムに書いたように、当時暮らしていた台北で、2005年2月に、琉球民遭難殺害事件に関係したパイワン族の末裔(まつえい)が、先祖の罪を謝罪するために沖縄に行き、被害者遺族と対面して和解するというテレビニュースを偶然見た。被害者と加害者という正反対の立場の人たちが、100年以上の歳月を超えて、先祖の身に起こったことを振り返り、過去を赦(ゆる)し、未来志向の友好関係を誓い合う。そんなことが可能なのか?なぜパイワン族の末裔が百数十年もたった今になって和解を目指すのだろうと、不思議に感じた。

それから4カ月後、双方の和解を試みる愛と平和の旅が実施され、沖縄県と台湾のメディアが大きく報道した。そのニュースを見ながら、歴史が今に生きていることを実感した。

それがきっかけとなり、私は牡丹社事件の執筆の準備を少しずつ始めた。学者や研究者のように、新事実を発掘したいというよりも、日台双方の関係者(加害者である台湾の原住民と被害者である沖縄県民)が、長年続けてきた和解の努力をもっと知りたいと思った。末裔たちに会い、牡丹社事件が彼らの中でどのように受け止められているのかを確かめたかった。

そこで、私は現場の屏東県をはじめ、末裔たちが住む沖縄県宮古島市や那覇市、大分県まで出掛けて行った。また、台湾出兵の拠点となり現在も記念碑が立つ長崎市にも何度か足を運んだ。おのおのの場所に立ち、あのとき起こったことを考えた。ひとつひとつの事実はどんなことに起因しているのか?他の出来事となんらかの関係性はないのか?事実と解釈をまぜこぜにしていないか?山のような資料を前に「なぜ?」の答えを見つけようとする作業は、途方に暮れることもしばしばあった。

幸運なことに、和解イベントの発案者のひとりであり、加害者のやしゃごにあたる故マバリウ・バジロク(中国語名は華阿財)さんを紹介され、屏東県へ行くたびに事件の経緯を詳しく教えてもらった。

漂着民が迷い込んだ村は当時どんな状態だったのか?当初は水や食料や寝場所を提供したのに、なぜ、大量殺害という結末に至ってしまったのか?なぜパイワン族は被害者の首を狩ったのか?

こうした疑問は、日本の公文書館や外務省の外交史料館に足を運んでも分からない。どういう状況で彼らが村に迷い込み、逃走の果てに修羅場を迎え、12人だけが漢人によって救助されたかという点は、生存者たちの生々しい証言として残っているけれど、パイワン族側に立っての説明は当然のことながら記録にない。

バジロクさんは、長年かけて集落の古老から集めた証言やパイワン族の歴史として語り継がれている口伝を日本や中国の史料と突き合わせ、先住民族の視点からこの事件を分析した。そうして、若者たちに自分たちの歴史を教え、私たち日本人には日本語で牡丹社事件を語ってくれた(残念なことにバジロクさんは2018年11月末に旅立たれた)。

語り部として活躍した、在りし日のマバリウ・バジロクさん(包聖嬌氏提供)
語り部として活躍した、在りし日のマバリウ・バジロクさん(包聖嬌氏提供)

和解のゴールは未来の共生のため

2005年の和解イベントを記念して、沖縄県宮古島市の下地中学校の校庭には、台湾側から寄贈された「愛と和平」像が立っている。しかし、その由来などは生徒や市民に伝わっておらず残念な状況にある。この件ひとつとっても、まだまだ和解のゴールまでには時間がかかるだろうと思われる。

宮古島市立下地中学校に立つ「愛と和平」像は和解の象徴だ(筆者撮影)
宮古島市立下地中学校に立つ「愛と和平」像は和解の象徴だ(筆者撮影)

過去へのわだかまりは人それぞれであるし、歴史の見方も差異がある。私がお目にかかった琉球民遭難殺害事件の遺族たちの間でも、和解に関する統一見解は出ていない。台湾出兵にしても、いろいろな族群の人々が関係しているので、和解を注意深く進めないともつれた細い糸の状態になってしまう。

「私が背負った運命を前向きに捉え、沖縄の皆さんと交流を続けたい。互いの伝統や文化を知り、尊敬し合うことで不信感やわだかまりも解けていくのです」

故マバリウ・バジロクさんは、何度も私にこう話していた。

「何よりも互いに話し合って理解し合うことが大切です。既成のストーリーから抜け出して、自分たちの歴史を中心に考えてみることも必要です」

長年牡丹社事件を研究し、日台双方の和解の努力に尽力してきた沖縄大学客員教授の又𠮷盛清さんも同様の意見だ。

台湾の原住民文化と日本統治時代にも詳しい文化人類学者の黄智慧さんも、次のように言う。

「和解のゴールを未来の共生のためと明確にして、当事者だけでなく第三者も交えてルールを作ることが大切です」

あのとき何が起こったのか?当事者たちの努力はどのように続いているのか?

それらは拙著に詳しく書いたのでぜひお読みいただきたいが、真の和解を達成するにはお互いに和解の意思を示し、痛みを分かち合う気持ちが大前提で、何度でも話し合いを持つ必要がある。過去の出来事から自分自身を解放できなくては、心の平安を得ることは難しい。

世界各地で起きている民族や宗教の対立、紛争、戦争の賠償問題を巡るいがみあい。それらを見れば分かるように、互いの歴史や文化を理解しようとせずに、自分たちの歴史観や立場ばかりを主張する。そこから誤解が生まれ、不信感や憎悪という負の連鎖が起こり、暴力や武力に頼るようになってしまう。

史実を現代に引き寄せ、今を生きる私たちがそこから何を学ぶかを引き出す。それが作家に与えられた使命であるなら、牡丹社事件の和解を地道に続けようとする人々の心情に、その長年の悲しみに寄り添いながら、ゴールまでの行程を共に歩みたい。

筆者注 : 台湾では、古くから台湾に暮らしてきた16部族を政府が「原住民」として認定している。日本の新聞等では「先住民」と表記されることが多いが、台湾での呼称を尊重して「原住民」「原住民族」と表記している。

バナー写真=2005年6月に宮古島を訪れたパイワン族の末裔(まつえい)ら(宮古毎日新聞社撮影)

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