私の台湾研究人生:1980年春、民生西路「波麗路(ボレロ)」——美麗島事件直後の台湾

政治・外交

7年ぶりに台湾へ

1980年春2回目の台湾旅行をした。1973年初めての訪台から7年後である。その2年前に私は東京大学教養学部の助手に採用され、ようやくアルバイトをしなくてすむ経済状態になっていたので、そろそろもう一度行ってみようかと思い立ったのである。

今回は当時台湾大学歴史学科大学院に留学していた近藤正巳さんと羅成純さんのご夫妻のお世話になった。近藤さんは、当時信州大学で教鞭を執っていた田中宏先生(後に一橋大学)の教え子で、田中先生が紹介・連絡してくださったのである。近藤さんは台北駅前のYMCAに旅装を解いたばかりの時に訪ねて来られ、会うなり自分のマンションが一部屋空いているから泊まればよいと言ってくれた。そこで早速、チェックインしたばかりの部屋をチェックアウトすることになった。

ちなみに、近藤さんは後に『総力戦と台湾 日本植民地崩壊の研究』(1996年)という、今も関連研究で引用され続けている台湾近代史研究の記念碑的作品を書くことになる。

近藤夫妻の御宅は、信義路に近い新生南路の一角にあった。この場所が後で偶然間接的に意味を持つようになるのだが、もちろんその時には知る由もない。近藤さんに連れられ、早速台湾大学に行って、当時歴史学科の助手をしていた呉密察さんに紹介された。呉さんに当時の研究図書館で曹永和先生(1920-2014年。後に中央研究院院士)に引き合わせてもらったりして、私の2回目の台湾の旅が始まった。

王詩琅さん宅訪問

その後もう一度台湾大学の助手室に呉密察さんを訪ねると、彼はやおらデスクの受話器を取り上げ、どこかに電話して「若林正丈が来た」と中国語で言った。電話はまだあの黒いダイヤル式のヤツだった。その後は台湾語になってしまったので何のことか分からなかったが、通話を終えると、王詩琅さん(1908-84年)にアポをとった、これから私を連れて市内の萬華は汕頭街の王さん宅を訪ねる、という。

王詩琅さん、1973年台中市、台湾省文献委員会にて(筆者撮影)
王詩琅さん、1973年台中市、台湾省文献委員会にて(筆者撮影)

王さんには1973年の初めての訪台の時、台中の台湾省文献委員会の一室でお目にかかっていた。これも葉榮鐘さん宅訪問と同じく河原功さんが引き合わせてくれたのだった。王さんについては、私は台湾総督府警察編纂の記録に「台湾黒色青年連盟員」として名前が出てくることで知っていた。戦前はアナキズムにも染まったことのある台北の文学青年だったのである。戦後は省文献委員会に勤務するとともに、『台北文物』や『台湾風物』といった雑誌の編集や健筆を振るっていた。当時、河原さんや東大中国文学科大学院に進んで台湾文学研究を始めた松永正義さん(後に一橋大学)に紹介されて、王さんの日本統治期台湾文学運動史に関する論文も読んでいた。

王さん宅に着くと、呉文星さんがいた。呉さんは当時台湾師範大学歴史学博士課程の院生だった。彼は当時日本植民地統治期の師範教育の研究をしていて、後にそこからさらに視角を拡げて植民地統治下台湾の社会エリートの変遷に目を付け、清朝期の伝統的紳士・富豪から学歴エリートへと同じ階層でバトンが渡されていったことを論証した、これも記念碑的作品となる(※1)

他に、常連客らしい王さんの同年輩の友人も来ていて、その内の一人は戦時期に中国に渡って抗日戦争に参加したことがある人だという。私はその人に興味を感じて当時のことを尋ねようとしたが、台湾語には日本語と同じ発音になる言葉がいくつもあるんだよ、という話をされてはぐらかされてしまったのを覚えている。そんなこんなで王さんとどんな話をしたのか、残念ながらほとんど覚えていない。

なお、大分後になって知ったことであるが、汕頭街の王さんの家と70年代「党外」のスター政治家だった康寧祥氏の家とが細い路地を隔てただけのお隣さんだった。康氏の回憶録(陳政農編撰・康寧祥論述『台湾、打拼—康寧祥回憶録』台北:允晨出版、2013年)によれば、青年康寧祥はよく窓越しに王さんと台湾語で話をし、彼から日本統治期の台湾史の人物に関するあれこれを耳学問したという。「台湾史の生き字引」と言われた王さんの知識は、呉密察さん、呉文星さんなど当時の学者の卵を通じても、また康氏のようなオポジション(対抗勢力)政治家を通じても、後世に伝わったと言えるかもしれない。

(※1) ^ 呉文星『日據時期台湾社会領導階層之研究』(台北:正中書局、1992年。後「日據」を「日治」を変更して、2008年、台北:五南出版より再版。また、2010年、財団法人交流協会より所澤潤監訳『台湾の社会的リーダー階層と日本統治』と題して邦訳刊行)

民生西路の洋食屋「波麗路」

それから数日後に呉密察さんからまた連絡があって、台北市内の大稲埕という地区にある民生西路の「波麗路」(ボレロ)というレストランに連れて行かれた。若林というのが来たというので、王詩琅さんが台北の日本留学経験のある本省人知識人に招集をかけてくれたのだという。王さんはこの時もう十分な体調ではなかった。今から思えば誠にありがたいご厚意であった。

呉さんによれば、「波麗路」は1930年代からあり、台湾人(日本時代は「本島人」、戦後は「本省人」)インテリのたまり場になっている、知る人ぞ知るという店だった。インテリアもメニューもタイムスリップしたようなレトロな感じで、とても印象に残り、今日まで思い出したように数回足を運んでいるが、雰囲気は変わっていない。植民地時期の台北市内では、いわゆる「城内」が日本人地区であったのに対して、王さんの住む萬華と大稲埕は「本島人」地区だった。王さんも日本時代からの台湾人の伝統に従ってこのレストランを選んだのかもしれない。

昼食会に集まって下さった方は7、8人だったと思う。もちろんその時は王さんから皆さんの紹介をいただいたのだが、残念ながらまた失礼ながら、お二方しかお名前を記憶していない。その後も何かとご指導いただいた林明徳さん(師範大学歴史学科教授)と鄭欽仁さん(台湾大学歴史学科教授)である。林さんは日台関係のことを話されたとおぼろげに記憶するが、鄭さんのお話は衝撃とともに鮮明に覚えている。彼はいきなり「僕は署名を拒否したんだ」と強い口調で言った。日本語である。「署名」とは、「美麗島事件」で弾圧の対象となった「党外」人士を「暴力分子」として糾弾する大学教授連名の新聞広告への署名である。いうまでもなく国民党がお膳立てしたものであるが、鄭さんは圧力を伴ったであろうその勧誘を拒否した、というのである。

美麗島事件とは、1979年12月10日の世界人権デーに当時のオポジション「党外」勢力の美麗島雑誌社が高雄で主催したデモが取り締まりの官憲と衝突となり、事後に当時現場にいなかった人も含めて「党外」勢力の大逮捕に発展した台湾現代史上の一大政治事件である。後で知ったことだが、私が台湾に滞在した頃には、検挙された「党外」活動家を裁判にかけるための「予審」が始まるところであった。当時の台湾は、多数の人々が声を押し殺しているような、静かな緊張の中にあったのである。

それに比して、久しぶりの台北を味わいつつあった当時の私はあまりにアッケラカンとしていたのかもしれない。70年代末から私は香港の月刊時事評論誌『九十年代』の購読を始めていて、同誌の、国民党筋とは異なる台湾政治動向の報道には必ず目を通していた。日本のメディアはほとんど台湾の事情を報道せず、もちろんインターネットもなく、やっとファックスが普及し始めた時代であるが、台湾の政治情勢の大枠は自分なりに承知していたはずであった。

だが、当時の自分の感覚は台湾の状況からはいまだかけ離れたものであった。鄭さんが強い口調で述べた反抗の姿勢は、その時の「波麗路」の雰囲気も相まって、私に自分が美麗島事件直後の台湾に来ているのだということをまざまざと意識させたように記憶している。これはわたしの「アッケラカン」を切り裂く、一つのショックだった。

1980年2度目の訪台、私にとっての衝撃はまだ続く。それらが重なって、私にとっては、ショックによる現代台湾政治へのオリエンテーションとなったのであった。

『亜洲人』月刊1980年3月号表と裏(筆者撮影)
『亜洲人』月刊1980年3月号表と裏(筆者撮影)

バナー写真=筆者(野嶋剛撮影)

台湾 研究 若林正丈