日本人のバナナ好き、ルーツは台湾にあり——歴史伝える門司港の「バナちゃん節」

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日本の一世帯あたりバナナ消費量は年間18キロ、本数で約120本というから、日本人のバナナ好きも相当なもの。今では、日本が輸入するバナナの85%はフィリピン産だが、日本人がバナナ好きになったきっかけでもある「台湾バナナ」の歴史をひも解いていく。

門司に今も伝わる「バナちゃん節」

福岡県北九州市門司区。対岸には山口県下関市が見える。その間を隔てる海は、下関の「関」に門司の「門」をとって関門海峡と呼ばれ、関門大橋と関門トンネルによって本州とつながれている。門司港が最も栄えたのは関門海峡に橋もトンネルもなかったころで、往年の栄華を残す街並みが現在は「門司港レトロ」と名付けられ、人気の観光スポットとなっている。

筆者が「門司港」と聞いて思い浮かべるのは、九州鉄道の始発駅として1914(大正3)年に竣工した門司港駅と、もうひとつが「バナナの叩(たた)き売り」である。

門司港駅はオリーブグリーンの屋根にクリーム色の壁肌、左右対称のネオ・ルネサンス様式の美しい木造建築で、1988(昭和63)年、国鉄が民営化された翌年に駅舎として全国で初めて国の重要文化財に指定された。以来、幾度かの改修工事を経て、2012年より保存修復のための大規模工事に入り、ついに今年の3月に開業当時の姿でよみがえった。

一方でバナナの叩き売りは、地域の伝統文化として、民間の団体によって保存・継承されている。叩き売りの口上を『バナちゃん節』といい、地域によってバリエーションがあるが、門司港に伝わる『バナちゃん節』には、以下のようにしっかりと日本と台湾のつながりが織り込まれている。

春よ三月春雨に 弥生のお空に桜散る
奥州(おうしゅう)仙台伊達公が 何故にバナちゃんに惚れなんだ 
バナちゃんの因縁聞かそうか
生まれは台湾台中の 阿里山麓(ありさんふもと)の方田舎 
台湾娘に見染められ ポーット色気のさすうちに
国定忠治じゃないけれど 一房 二房ともぎとられ
唐丸駕篭(とうまるかご)にと つめられて阿里山麓を後にして
ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所が基隆港
基隆港を船出して 金波 銀波の波を越え
海原遠き船の旅 艱難辛苦(かんなんしんく)のあかつきに 
ようやく着いたが 門司ミナト 門司は九州の大都会

バナナの叩き売り発祥地の石碑(筆者撮影)
バナナの叩き売り発祥地の石碑(筆者撮影)

1896(明治29)年より大阪商船が運航した「内台航路」(台湾航路)のひとつに、神戸から瀬戸内海を走って門司を経由し、台湾北部の基隆(キールン)港を往復する路線があった。

内台航路の花形だったのが、名船の誉れ高き「高千穂丸」という大型フェリーだ。高名な造船技師の和辻春樹によって設計され、室内には全面に蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)が施される華やかさだった。NHK料理番組や雑誌で活躍した台湾・台南市出身の料理研究家・辛永清(しんえいせい)さんは名エッセイストでもあるが、当時の船旅について著作のなかでこう振り返る。

「その頃の日本航路を走っていた船は、高千穂丸であり高砂丸であって、きらびやかな大広間や甲板のプールが楽しい豪華船だった。父の乗る船が港に入るたびに、出港前の船に乗せてもらって船内を遊びまわっていた私には、日本への船旅は、いつか私もという憧れの旅なのだった」(『安閑園の食卓』辛永清/集英社 )

輸入の自由化で駆逐された台湾バナナ

基隆港を出発した船が、門司港で降ろしたのは人だけではない。

バナナの船積み(台農發股份有限公司)
バナナの船積み(台農發股份有限公司)

日本で高級フルーツとして憧れの存在だった台湾バナナもそのひとつだ。基隆港で青いまま船へと積み込まれ、門司港に到着すると青みを残したまま陸揚げされた。当時の青果問屋には地下にバナナを追熟させるための室(むろ)があり、下から火をたいて温度を上げてバナナを黄色くしてから、市場に流通させていた。まれに、船での輸送中に熟れて黒くなったり、傷んでしまったりしたバナナを無駄にせず、港で売り切ってしまおうと始まったのが「バナナの叩き売り」である。『バナちゃん節』で客寄せをしながら口上をはさみ、値段交渉で客に畳みかけていく独特の商いは門司港の名物となった。

バナナの積み出し(台農發股份有限公司)
バナナの積み出し(台農發股份有限公司)

1942(昭和17)年に関門鉄道トンネルが開通、戦後になって1958(昭和33)年には世界初の海底道路トンネルが関門海峡に誕生し、門司港を経由することなしに九州から本州へと渡れるようになった。それを契機に、門司港は港としての輝きを失った。また、物流や保存技術が発達したことで、バナナを港で叩き売る必要もなくなった。

筆者の子供時代、門司に暮らす祖父母の家に遊びに行くと必ずといっていいほど、バナナを出してくれた。房のままのこともあれば、皮をむいてアイスのように凍らせてあることもあった。小学校の夏休みのある日、祖父母の家の近くのデパートの福引で、ポータブル・オーディオ・プレーヤーが当たったことがある。裏に小さく「Made in Taiwan」と書かれていた。それを見た祖父が、かつて太平洋戦争のときに台湾経由でフィリピンまで船で行ったこと、台湾で積み込まれたバナナが驚くほどおいしくて、大好物になったことを話してくれた。私の人生で最初に「台湾」を意識した日だが、あのころ祖父母の家にあったバナナを私は祖父の話からてっきり台湾産と思い込んでいた。しかし、いま思えばあれは別の産地のバナナだったと思う。その頃、日本で流通する台湾バナナはすでに非常に少量で高価なものとなり、庶民がいつも買えるような商品ではなかったからだ。

それにしても、かつてはバナナといえば台湾産だったのに、ほとんど見かけなくなってしまったのはなぜなのだろうか。世界に通用する国家ブランドとしての台湾農産品を生産し、輸出強化をはかるため2016年に設立された「台農發股份有限公司」に勤め、台湾産バナナを日本へ広める営業活動を行っている内田尚毅さんに、現状と展望を伺った。

内田さんによれば、最大の理由は1963年に日本でバナナの輸入が自由化され、フィリピン産やエクアドル産のバナナに台湾産が駆逐されてしまったことにあるという。台湾産バナナには、農業規模が小さいために生産コストが高く、台風の影響で品質や生産量が不安定になるという難点があった。フィリピンでは米国の大手農業資本や日本の商社が参加して日本市場向けの農園開発が行われ、一気に日本市場を席巻してしまったのだ。

2018年に日本が輸入したバナナは金額ベースで約1000億円。このうちフィリピン産が約85%を占め、エクアドル産が10%、メキシコ産3%で、台湾産はわずか0.3%だった。

台湾バナナをもう一度、日本の食卓へ

現在、内田さんは台湾中南部の雲林県で作られる品種「烏龍種」のバナナを日本へ輸出することに取り組んでいる。台湾でバナナの産地として知られるのは南部の屏東や高雄で、雲林産は珍しいが、これには理由がある。雲林は一般的な台風の進行ルートから外れているため被害を受けにくいことに加え、濁水渓という大きな川が流れており、土地が肥沃なのだ。この烏龍種バナナを育てているのが、人生のほとんどをバナナ生産に捧げてきたという蘇明利さん。バナナが立ち枯れたり、黒ずんだりするパナマ病のリスクを減らすため、稲作で使われる土地をバナナ農園に転換するなどこだわりを持って生産している。

烏龍種バナナは、比較的寒さに強く、秋から春にかけて開花するためじっくり果実が成長し、糖度が高く、味が濃厚で光沢のあるのが特徴だ。現在は日本のスーパーにも少しずつ販路を広げ、かつて台湾バナナの代表格と言われた「北蕉」を思い出す、懐かしい味がするなど好評を得ているという。しかし、フィリピンの標高1000メートル以上の高地で栽培されるハイランドバナナなど、いわゆる最高級品と同価格帯のため、流通過程におけるコストダウンが今後の課題という。

烏龍種バナナの生産農家の蘇明利(右)と息子の蘇竣奕(左)(内田直毅氏撮影)
烏龍種バナナの生産農家の蘇明利(右)と息子の蘇竣奕(左)(内田直毅氏撮影)

総務省の家計調査によれば、2018年の日本人のバナナ消費量は一世帯あたり年間18キロ(約120本ぐらい)というから、日本人のバナナ好きも相当なものである。しかし日本人がバナナを食べるようになったのは、明治時代に台湾を領有して以降のことで、歴史的にいえばまだまだ浅い。つまり現在の日本人のバナナ好きは台湾バナナとの出会いがきっかけになった、と言っても過言ではないだろう。しかし、そうした日台の歴史的なつながりについて、日本で理解が深まっているとは言い難い。

毎年の門司港のお祭りで行われるバナナの叩き売りの実演で使われるバナナが、台湾産ではないことに着目した「台農發股份有限公司」の内田さんは、2017年には当時のバナナ貿易の写真パネルと台湾バナナを提供したそうだ。確かに、日台をつないでいた内台航路という文脈が忘れられがちな現在、「バナナの叩き売り=台湾産」とイメージすることは難しいのかもしれないが、寂しい話である。台湾が人気の旅行先として、日本でますます存在感を高めている昨今だからこそ、おいしい台湾バナナが、再び日本の食卓に上ることを願っている。

烏龍種バナナ(内田直毅氏撮影)
烏龍種バナナ(内田直毅氏撮影)

『バナちゃん節』資料提供:門司区役所

バナー写真=門司港駅(筆者撮影)

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