台湾で根を下ろした日本人シリーズ:ドラマー・作曲家・音楽プロデューサー 戸田泰宏

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ある時は演奏家として、ある時はプロデューサーとして台湾の音楽シーンに足跡を残してきたドラマーの戸田泰宏さん。決して、順風満帆だったわけではないが、「情熱貯金」をモットーに七転び八起きで人生を切り拓き、日台双方向の文化交流に奔走する。

戸田 泰宏 TODA Yasuhiro

1980年埼玉県宮代町生まれ。24歳の時、旅行中の高雄で音楽プロデューサー・呉坤龍に見出され台湾に移住。2007年に楊培安が歌いヒットした台湾ビールのCMソング「盡情看我」の楽曲を提供し、レコーディングにも参加。陳零九(ナイン・チェン)、梁心頤(ララ・リャン)、王若琳(ジョアンナ・ワン)等、数々の台湾・香港のアーティストをサポートする傍ら、台湾プロ野球のラミゴ・モンキーズの音楽イベントプロデューサー、故郷の宮代町有識者委員も務め、日台の文化交流にも奔走中。

戸田泰宏は子どもの頃から足が速かった。小学校では運動会の花形だった。中学では、陸上部とサッカー部を掛け持ちし、50メートルを5.79秒で駆け抜ける俊足で地区大会では負け知らず、誰もがスポーツ選手としての成功を期待した。しかし、中学2年でかかとの靭帯(じんたい)を切断し入院。人生最初の挫折を味わう。

それでも、天は二物を与えてくれていた。両親の音楽好きは戸田少年にも受け継がれていた。元々Boøwyに憧れていた彼は、入院の退屈しのぎにギターを買ってもらい、退院後にはバンドを結成してそのまま音楽に没頭した。高校に入るとすぐに、軽音楽部の先輩からドラマーに抜てきされ、音楽コンテスト「バンド甲子園」の埼玉地区予選に参戦。いきなりベスト・ドラマー賞を受賞する。

「これで勘違いしたのでしょうね。高校を中退し、通信制の高校に入り直し、プロを目指して当時南浦和にあった『ポテトハウス』というライブハウスにアシスタントとして転がり込みました。現場でさまざまなバンドの音楽を聴くことで耳も肥えましたし、多い時には十数ものバンドを掛け持ちし、音楽漬けの毎日でした」。

当時流行していたビジュアル系、ガールズ・バンドからブルース、ロックに至るまで多様なジャンルのバンドをサポートした。その頃の戸田は、英国の伝説のロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーで、自分の生年に没したジョン・ボーナムの生まれ変わりだと信じて疑わなかった。「会話しながら音楽が進行する」ツェッペリンのCDは今でも毎日聴くほど惚れこんでいる。

地元でドラムを教えたり、音響操作のバイトをしたりして食いつなぎ、バンド活動に明け暮れていた23歳の時に、自らが率いていたバンドにメジャー・デビューのチャンスが訪れた。しかし、メンバーが不祥事を起こして脱退、そのまま解散に追い込まれてしまった。人生2度目の挫折だった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

挫折を味わうが良縁にも恵まれる

自暴自棄となりかけた戸田は、中学の時に家族旅行で訪れた台湾へと一人旅に出た。南部の風土が合って、しばらく高雄に滞在した。高雄文化センターの屋外では、週一回、夜9時からギターサークルの練習があった。戸田も彼らの演奏に合わせ、ドラムスティックでパットをたたき、リズムを取っていた。

「それを見ていたんでしょうね。ウィスキーの水割りを水筒に入れてチビチビと飲んでいた怪しい風情のおじさんから、明日、会社に来るようにと言われたのです」。

灰姑娘音楽製作有限公司(シンデレラ・ミュージック・スタジオ)社長の呉坤龍だった。2004年、戸田が24歳の時のことだった。台湾での音楽家としての生活は、こうして突然に始まった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

台湾では運も味方した。相川七瀬、X JapanギタリストのPATA等、日本のアーティストの台湾公演のコーディネートを任され、ドラマーとして演奏に加わることもあった。2006年に楊培安の歌った台湾ビールのCMソング「我相信」が大ヒットすると、その翌年の同社CMソングの作曲を戸田が担うこととなり、レコーディングにも参加した。戸田の作品「盡情看我」は楊培安の声に乗り、巷にあふれた。にも関わらず、戸田は失意の底にいた。音楽マネージメントビジネスを一緒にやらないかと持ちかけてきた知人に、上記作品の制作報酬のすべてを持ち逃げされてしまったのだ。人生3度目の挫折だった。

それでも呉社長はよく戸田の面倒を見てくれた。事務所に行けば弁当を食べさせてもらえた。一文無しとなったが、バックバンドのオファーは安定していた。2009年の高雄ワールドゲームズのオープニングセレモニーの舞台にも戸田の姿はあった。この年から2013年までの間、戸田は拠点を一時台北に移した。台湾版スター誕生「星光大道」を通じて世に出た歌手をはじめ、市場の大きい台北での出演オファーが止まらなくなったためだ。梁心頤(ララ・リャン)、岑寧兒(ヨーヨー・シャム)、何韻詩(デニス・ホー)等、台湾のみならず香港のアーティストからも引く手あまただった。梁心頤には「自由霊魂」という作品も提供した。

戸田は再び上昇気流に乗った。私生活でも2010年に台湾先住民族ペナン族の女性と結婚し、翌年には長男も誕生した。2013年には生活の拠点を再び高雄に戻し、自宅兼スタジオを構えた。アイドル歌手の中国ツアーへの参加も決まった。しかし、またしても暗雲が立ち込めた。この年、日本と中国の間で尖閣諸島の領有権を巡る論争が再燃していた。ツアー出発の前日に、同行が突然キャンセルとなった。戸田が日本人だったからだ。生粋の台湾人ギタリストの日京江羽人も、芸名が日本的との理由で取り消された。チャイナリスクを体感した。人生4度目の挫折となった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

台湾の音楽シーンに足跡を残したい

2015年に戸田はこれまでとは違った方向で大きな決断をした。故郷の埼玉県宮代町に「カフェ・フォルモサ」をオープンさせ、夫人がこの店を切り盛りすることとなった。軌道に乗るまでの1年間は、戸田も大半を日本で費やしサポートに当たった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

「宮代町にカフェを開いたのは、長男を自然豊かな環境で育てたかったから。さらに、過去にサポートした台湾のアーティストたちから、検閲の入る中国より表現の自由のある日本で試してみたいとの声が寄せられていたからです。20人も入れば満員となる小さなスペースですが、ナイン(陳零九)やジョアンナ(王若琳)、江惠儀といったアーティストが、東京でのイベントのついでに立ち寄ってミニコンサートを開いてくれます。故郷で日台の文化交流を深化させたかったのです。海外で生活したからこそ、郷土愛が強くなったのでしょうね」。

戸田は宮代町で子どもたち向けにダンボールでカホーン(箱型の打楽器)を製作して演奏する「森のコンサート」をプロデュースしたり、宮代町PRビデオの主題歌を提供したりしている。また、町内の学校の統廃合問題を議論する宮代町有識者委員会のメンバーにも名を連ねる。

2017年からは台湾プロ野球チーム、ラミゴ・モンキーズの日本向けイベント「YOKOSO桃猿」の企画に参画し、元WANDSで『SLAM DUNK』の主題歌「世界が終わるまでは」を歌った上杉昇、テレビアニメ「ONE PIECE」主題歌「ウィー アー!」を歌ったきただにひろし、「聖闘士星矢」の主題歌「ペガサス幻想」を歌ったNoBを招聘(しょうへい)し、ライブではドラムもたたいた。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

家族のいる宮代町と台湾を頻繁に行き来し、日台双方向の文化交流に奔走する戸田に、当面の目標、尊敬する人物を聞いてみた。

「今年2019年11月に、ジョアンナとララの『台湾二大女性シンガーの夕べ』というイベントを予定しています。また、日本のメディアで『中華系エンタメ』を紹介していくことが自分の使命です。尊敬する人物はドラマーの大先輩、外山明さん。デビュー直前でバンド解散に追い込まれた時に、支えてくれた精神的師匠です。外山さんからは固定観念を取り払うこと、人間はいくつになっても成長できることを身をもって教わってきました」。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

今年の台湾最大の音楽賞「金曲奨」でも、戸田が楽曲参加したアーティストが数名ノミネートされていた。良い音楽を生でとことん聴き、徹底的に練習をすることで得られるという「情熱貯金」という言葉を彼から教えてもらった。七転び八起きしながらも、戸田が台湾の音楽シーンに足跡をしっかりと刻んでこられたのも、きっと情熱貯金の賜物なのだ。戸田の屈託のない笑顔の向こうにある熱い思いを感じた。そして、この言葉は次の世代の音楽家への戸田からのエールでもあるのだ。

バナー写真=戸田泰宏氏提供

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