社会人野球の頂点に立った台湾人・劉秋農──KANOの夢を引き継いだ男

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社会人野球で活躍

プロ野球のみならず、社会人野球、高校野球と、日本では野球は最も人気あるスポーツの一つだ。台湾からも多くの球児が来日し、日本の高校で学びながら「やまとの国」で球界入りを目指している。読売巨人軍の陽岱鋼選手、日本ハムファイターズの王柏融選手らプロ野球で活躍する台湾人選手も少なくない。

しかし1980年代頃までは、日本に野球留学するなど言うに及ばず、ましてやプロ入りできる選手はごくわずかだった。台湾の野球ファンにとってみれば、中日ドラゴンズで活躍した郭源治選手や西武ライオンズの郭泰源選手は、まぎれもないヒーローだった。

同じ時代、社会人野球のヤマハに台湾出身の投手がいたのをご存知だろうか。1987年の都市対抗野球ではエースピッチャーとして優勝に貢献。今に至るまで、アマチュア選手として最高の栄誉である「橋戸賞」を受賞した、唯一の外国人選手なのだ。

輝かしい記録から30年以上たち、筆者は往年のヒーローを訪ねるために静岡県浜松市に向かった。すでに63歳になっていたが、体は健康で、気力も充実している。日本に来た頃の話になると、細かいことまではっきりと覚えていた。

「縁があったのでしょうかねえ。こんなに日本が長くなるとは、当初は想像もしていませんでしたよ」

その人、劉秋農さんが来日を決めたのは偶然の巡り合わせだったという。「最初は、数年のつもりだった」が、結婚して家庭を持ち、30年以上にわたって浜松で生活している。日本は第二の故郷になった。

「天下の嘉農」のDNAを受け継ぐ

1931年、台湾の嘉義(かぎ)農林学校は、夏の甲子園大会に出場、決勝まで勝ち進んだ。日本が台湾を植民地支配していた時代で、野球部は日本人、漢民族系台湾人、先住民族の混成チームだった。決勝で敗れたものの、海を渡って甲子園にやってきたチームに観客は惜しみない声援を送った。ユニフォームの胸には「KANO」のロゴが入り、「天下の嘉農」として、一大ブームを巻き起こした。

劉さんの父・蒼麟さんは、嘉義農林の控え投手で、甲子園では出場機会に恵まれなかったものの、その後、野球部の監督として後進の育成に尽力した。劉さんは、6人兄弟の末っ子として生まれ、嘉農の教員宿舎で育った。

日本式の教育を受けた父親は厳格で、父親が声を発すると6人の子どもが全員、緊張して姿勢を正したという。ただ、末っ子の劉さんのことは溺愛していて、「小さい頃から毎日のように父親に自転車に乗せられて球場に通っていた」という。球拾いから始まり、知らず知らずのうちにボールを追いかけるようになっていった。ある種の英才教育だったのだろう。

劉さんは中学生の時には、日本の学校からも注目されるようになっていた。「奨学生として留学しないか」と誘われ、本決まりになりかけた頃、事態が急転する。1972年、日本が中華民国と国交を断絶したのだ。

「立法院(議会)に呼び付けられ、日本と断交したのに、それでも留学するのかと問いただされた」。劉さんは「愛国者」であることを示すため、留学を断念。台北の野球名門校・華興高級中学に進んだ。卒業後は推薦入学で輔仁大学体育学科に進み、兵役に就いた(訳注:台湾では2018年まで男子には兵役の義務があった)。

兵役期間中にヤマハと出会う

しかし、日本との縁が切れてしまったわけではなかった。空軍に服役中、ヤマハ(当時の社名は日本楽器製造)の社会人野球チームが台湾南部でキャンプを張っていて、空軍の野球チームとの交流試合が行われたのだ。その試合で、8回を投げて、ヒット1本に抑えた劉さんの投球にヤマハは舌を巻き、「将来、日本で野球をしないか?」とスカウトされたのだ。劉さんは、一旦は諦めた日本行きに、再び、心を動かされるようになった。

その時点では、兵役期間が残っていた上、父親も日本行きにもろ手を挙げて賛成というわけではなかった。しかし、ヤマハの関係者が、わざわざ嘉義までやってきて説得し、ようやく、父親も納得したという。

空軍での兵役を終えると、ヤマハの高雄工場に入り、その後「内部移動」で、静岡県浜松のヤマハ本社に配属された。1982年12月、満26歳の時だった。

当時の新幹線浜松駅前には、手つかずの空き地があちこちにあり、第一印象は「荒涼としている」だった。台湾は夜遅くまで賑やかだったが、浜松は夜の7時にもなれば、外には誰もいない。

劉さんは会社の寮に入り、チームに加わって練習を始めた。5時起床後、ランニングから1日がスタートする。練習は午後の3時か4時ごろまでずっと続く。練習漬けの日本式のやり方についていけないと感じたこともあった。

言葉も通じなければ、濃い味好みの台湾に対して、薄味好みの日本食にもなじめなかった。それでも、劉さんは、チームメートとの交流を自らに課し、寮の部屋を「はしご」して日本語を一つずつ覚えた。NHKの番組や幼児向けの絵本で文法の基礎を学んだ。

「バラエティー番組を見ても、最初の年は何が面白いかもわからなかった。2年目になって、ちょっと笑えるようになり、3年目には腹の底から大笑いしていました」と、思い出を語ってくれた。

日本語が全くできなかったのに最後には日本人に。劉秋農さんは日本社会人野球の伝説になった(本人提供)
日本語が全くできなかったのに最後には日本人に。劉秋農さんは日本社会人野球の伝説になった(本人提供)

ただ一人の外国人、プレッシャーに負けられない

南国から来た劉秋農さんは、厳しい日本の冬にもなかなか慣れることができなかった。しかし、日本で野球をする以上、避けて通ることはできない。劉さんは「寒さで指先が割れても、練習しなければなりませんでした。チームでただ一人の外国人だったので、なおさら頑張らねば、というプレッシャーがあった」という。特に、日本語でのやりとりができなかった最初の頃は、投球のサインをしっかり覚えて、球種や球筋のミスをしないよう必死だったという。

都市対抗野球は、社会人野球の最高峰の舞台だ。本選に出場するには、地区予選を勝ち上がらなければならない。「あの頃、20人以上の台湾人が日本の社会人野球で活躍していました。同じ、東海地区ではヤマハ発動機に林華偉と黄広琪、ホンダ鈴鹿に趙士強がいました」と劉さんは説明してくれた。

当時は、同じく浜松市が本社の河合楽器にも社会人野球チームがあった。「河合とヤマハは永遠のライバルだったので、とても気合が入った。河合とは7回対戦して一度も敗れたことはありません」と胸を張った。

1984年には、台湾代表の一員としてロサンゼルス五輪出場を果たすとともに、都市対抗野球でも絶好調で、「球筋が全部はっきりと見えた」という。しかし、それが、選手としては最盛期だったのかもしれない。その後は、投球過多で肘を壊し、85年と86年に手術したものの、徐々に自信を失っていつた。87年の都市対抗の予選が始まる時点で、担当医からは「普通の生活ならば問題はないが、野球ができるかどうかは、私からはなんとも言えない」と告げられたそうだ。

1987年、頂点に達する

劉さんは1987年を野球人生最後の1年と心に決め、「できる限り戦おう、最後まで戦おう」と決意した。地区予選に先発した最初の試合で負けてしまったが、その後の2試合で連勝、予選2位で全国大会に出場した。

東京後楽園球場(現在の東京ドーム)での全国大会初戦はNTT北陸との対戦。劉さんは2回までに3失点して降板したものの、チームはヒット攻勢で点を取り返し、逆転勝利。第2戦で松下電器を撃破し、第3戦の三菱重工神戸戦で、劉さんは再び先発し、1失点で勝利をつかみ取った。準決勝ではNTT東海を4対2で下した。

決勝の相手は強豪の東芝だった。劉さんは再び、先発のマウンドに上がった。この試合、劉さんは絶好調で9回まで完封ペースだった。2アウト走者1塁で、次の打者にはショートゴロで打ち取れたはずだった。

ショートの選手はフォースアウトを狙って2塁へ送球したのだが、2塁手は1塁に送球されるものと思い込んで、ベースカバーを怠りエラー。試合終了を目前に、ランナー1、2塁のピンチに追い込まれた。動揺した劉さんは、次の打者に3ランホームランを浴びて1点差に詰め寄られた。

リリーフ投手がフライアウトで辛うじて逃げ切り、ヤマハは優勝をつかみ取った。

劉さんは優勝チームから選出されるMVP(最優秀選手)に相当する「橋戸賞」を受賞した。

1987年、劉秋農投手率いるヤマハの野球チームは都市対抗野球大会で優勝した(筆者撮影)
1987年、劉秋農投手率いるヤマハの野球チームは都市対抗野球大会で優勝した(筆者撮影)

父のために優勝した

劉秋農さんは今でも、「最終戦は完投して勝ちたかった」という思いが強い。父の蒼麟さんは、KANOのメンバーとして甲子園でベンチ入りしたものの、登板の機会には恵まれなかった。劉さんは「橋戸賞は、父の代わりに受賞した。息子が父のために優勝したのです」と話した。

1988年には、肘の状態が悪化したため、選手人生にピリオドを打つ。私生活では台湾人女性と結婚した。

劉さんは野球引退後もヤマハに残り、調律師などピアノ関係の仕事を続けた。1989年に中華職棒(台湾プロ野球)が発足すると、多くの台湾人選手が故郷に戻って台湾プロ野球で活躍することになった。だが、劉さんは日本に残ることを決意。「台湾の野球環境はちょっと複雑なのです。派閥の問題もありますし。私は安定した仕事を続けるのも悪くないと思ったのです」という。劉さんはその後、日本国籍を取得し、日本の姓を「龍」とした。

ただ、心の中で、いつの日か台湾に戻って野球を教えたいと願っている。「台湾にはすばらしい野球選手がたくさんいます。体力・素質の面では日本人選手に負けません。ただ、制度やトレーニングなど改善すべき点がある」という。仕事を引退したら、台湾と日本を往復しながら、台湾の田舎で少年野球を指導したいそうだ。「台湾の野球教育をもっとよくしたい」からだ。

嘉義で生まれ、浜松で野球人生を送り、その後、日本人となった。しかし片時も、台湾野球への思いを忘れたことはない。日本に来てから、あっという間の35年だった。「橋戸賞」を獲得した唯一の台湾人として、劉さんは台湾の将来の野球環境に、今も自分の夢を重ねている。

バナー写真=1987年の都市対抗野球大会で橋戸賞を獲得した劉秋農投手(本人提供)

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