若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:司馬文武の語った「われわれは待てない」――1982年夏、「党外」との出会い

政治・外交

「オポジションから入る」

1980年春7年ぶりの訪台をきっかけに、それまで植民地時期台湾史の研究をしていた私は、動き始めた同時代の台湾政治の磁力に次第に引きつけられていった。そして、80年に次いで、82年夏の経験がまたも私の背中を推した。この年、夏休みになると早速訪台し(7月22日〜8月5日)、その他の活動の合間に初めて「党外雑誌」の論客に会い直接その主張を聞き、帰国直後東京で当時の「党外」の著名政治家康寧祥氏らと初めて会うことができた。

「党外」とは、現政権党の民主進歩党(民進党、1986年結成)の前身にあたるオポジション(反対勢力)の名称である。1950年代に確立した台湾の国民党一党支配体制下では、50年代初めから始まった地方公職選挙を通じて、戒厳令下ではあるが、非国民党ないしは反国民党のスタンスを採って、時に当選を果たす少数の人々が存在してきた。

国民党は、地方統治において各県に複数の「地方派系」(地方派閥)を培養して互いに競わせるとともに、これら派閥を通じた利益誘導の網に人々を絡めとるという統治戦略を成功させた。ただ、これらの選挙では、地方派閥の網から漏れる体制不満票が常に最低1割5分くらいは存在し、これらを吸収して政治的舞台を獲得する人物が「国民党の外の人」という意味で「党外人士」などと呼ばれてきたのである。

そして、70年代に入り、改選が全く行われなかった国会でも部分改選(「増加定員選挙」)が行われるようになると、これら「党外人士」間の連携が強まり、選挙ごとに一歩一歩政治的オポジションの形を整えようとし始めた。79年の「美麗島事件」の弾圧はある意味でこの歩みを阻止しようとするものだった。

だが、事件後対米関係からも選挙を廃止することができず、80年末の「増加定員選挙」や81年の「地方公職選挙」を経て「党外」が再復活した時、「党外」の語はもはや「国民党の外」という普通名詞であるよりは、台湾独特のオポジションという意味での政治集団の固有名詞となっていたと言える。英字紙/誌にも”Tangwai”あるいは“Dangwai”と書かれるようになっていた。

今から振り返れば、私はこういうタイミングで康寧祥氏らに初めて会ったのである。82年夏の経験からの成り行きのまま、私の台湾政治研究の助走は一定の手法に傾いていったといえるかもしれない。それは、「党外」から、つまり「オポジションから入る」という手法だった。ああ自分は結果的に見てこういうやり方をいているのだなと気付くのはまだ後のことである。

1982年夏「文化人派遣」で訪台

まずこの2年ぶりの訪台の話から。この時の訪台は、当時交流協会(現日本台湾交流協会)台北事務所総務部長をしていた下荒地修二氏のお世話によるものであった。下荒地氏は、私の大学の先輩にあたるチャイナ・スクールのキャリア外交官で、80年夏総務省主催の訪中団の「通訳」で訪中したときに北京で面識を得ていた。同氏はその後北京大使館から本省に一度戻り、さらにこの時は台北に赴任していて、交流協会の「文化人派遣」の予算枠で呼んでくれたのである。

当時、東京大学が発行した「海外渡航承認書」(筆者提供)
当時、東京大学が発行した「海外渡航承認書」(筆者提供)

周知のように、交流協会とは断交後の日台間の「非政府関係」を処理するために作られた「民間機関」で、その台北事務所長が事実上の「大使」に当たり、当時の私の理解ではその「総務部長」はキャリア外交官が出向するポストで、事実上の「大使館」のナンバー・ツーとして政治向きの事柄の対応にあたっていた。下荒地氏は、当時「党外」人士も含めて、積極的に台湾の政界と接触していた。

話はちょっと横道にそれるが、交流協会の事業の一環であったので、私自身の手元にも一件のファイルが残っているのを最近見付けた。その中に当時東大が出した「海外渡航承認書」というものがあった(写真)。助手といえども当時は「文部教官」、つまりは国家公務員であるから、国交の無い台湾に渡るには、こうした許可を取る必要があった。そして、この許可をもらうためには、「台湾とは国交の無いことを承知しており、この渡航は学術交流のためであり、政府関係者と接触することはありません」という一札を入れることを求められた。このような慣習は、90年代まで続いていたように記憶する。その後国立大学の法人化で全く必要がなくなった。

台湾での初めて学術研究報告

この時に訪台活動は、全体としては依然として歴史研究者モードであった。「文化人派遣」という枠であったし、興味を抱いて勉強し始めていたとはいえ、当時の私にまだ人前で台湾政治を云々(うんぬん)する力は無く、まして台湾はいまだ1949年からの戒厳令の施行中であった(1987年7月解除)。

ではどういうことをしたかと言うと、これも下荒地氏が台湾大学法学院の許介麟教授(東大法学博士)に依頼して、台北の台湾史研究者を集めて小さな研究会をセットしていただき、許教授の司会で私が研究報告した。「公立台中中学校設立問題(1912-1914年):総督政治與台湾土着地主資産階級」という当時論文にまとめつつあったテーマで、中国語でレジュメ案を作り出発前に東京で知り合いにネイティヴチェックをしてもらい起案用紙に清書してコピーして配布した。日本語の引用史料はゼロックスコピーを貼り付けたりして用意した。パソコンはもちろんのことワープロもまだ普及していない時期である。

場所は確か台湾大学図書館の一室で、今残っている写真を見ると、出席は、司会の許教授の他に、曽永和(台湾大学研究図書室主任、後に中央研究院院士。敬称略、以下同)、王啓宗(台湾師範大学歴史学科教授)、黄富三(台湾大学歴史系教授)の教授クラス、呉密察(台湾大学歴史系助教)の他、呉文星(台湾師範大学)、李筱峰(淡江大学)、翁佳音(台湾大学)、張正昌(台湾師範大学)などの院生も参加した。当時の教授だった人の中にはすでに鬼籍に入られた方もおられる。助教、院生だった人はその後の台湾史研究の隆盛の中でそれぞれの分野の重鎮となり、近年皆退職の年齢を迎えている。張正昌氏は後に出版社を営んでいたと聞く。

台南で林瑞明君と知る

交流協会台北事務所へのあいさつや上記研究報告の合間に、3泊4日で南部に行った。台南では、成功大学歴史学科の梁華璜先生に宿舎を紹介していただき、またお宅も訪問した。実は1973年初めての訪台の時戴國煇さんの紹介状をもって台北の梁先生のお宅にお邪魔したことがある。当時は台北郊外の中国文化大学で教鞭(きょうべん)を執っておられた。

この旅ではなんと言っても林瑞明君という友人を得たのが大収穫だった。彼の愛車(スクーター)のお尻に乗ってその昔鄭成功が上陸したという海辺の鹿耳門まで連れて行ってもらって台湾海峡の夕日を眺めた。翌日は高雄からバスに乗って客家の町美濃に住む作家の鍾鐵民さんの家を訪ねて一泊し、さらに高雄では作家の葉石濤さんと再会し、先生の周辺の南部の文学者、詩人の鄭炯明さん、文学評論家の彭瑞金さんといった方たちにも紹介していただいた。

その後、南部に行くときには必ずといってよいほど台南によって林瑞明君とおしゃべりした。彼が中南部の文人仲間を訪ねるのについて行ったこともある。北に呉密察、南に林瑞明。外国の研究を始めてそれほどたたないうちに、その地にいつでもおしゃべりできる友人を得たのはたいへん幸いであった。そうした人がそこにいるということは、とても心強いし楽しいのである。

還暦を過ぎた頃だったろうか、林瑞明君は腎臓を病んで隔日透析を受ける身体となったが、ずっと元気は元気で一緒に台湾最南端の鵝鑾鼻灯台や四重渓温泉などに小旅行をしたこともあった。しかし、昨年11月林君は突然逝ってしまった。林君との思い出はすでに一度ブログに書いた(※1)が、機会があればもう一度しっかり思い出してみたい。

(※1) ^ 若林正丈ブログ「台湾研究自由帳」2018年12月29日「林瑞明君と初めて出会った夏」

「我々は待てない」——助走の最後の一押し

そんな活動の合間、下荒地さんが台北の駅前のヒルトンホテル(現シーザーパークホテル)のレストランに来いという。行くと紹介されたのが「党外雑誌」『八十年代』の論客として知られていた江春男さん(司馬文武の筆名で知られるが、英文メディアにはAntonio Chiangと名乗っていた)で、もう一人若い編集者の謝明達さんを同道していた。この当時下荒地さんは、「党外」勢力にも接触範囲を広げ積極的に活動しており、そのような活動の一つに便乗させていただいたわけである。下荒地さんが後に筆者に語ってくれた話によると、こうしたオポジションとの接触を台湾当局は当然把握していたが、特に邪魔立てすることはなかったという。

あれこれ記憶の中を探してみても、江春男さんと謝明達さんの二人が、私自身が面と向かって話をした最初の台湾オポジションの活動家であったことに間違いないように思う。1973年初訪台に際して、アジア経済研究所の戴國煇さんから、戒厳令下なので、人に会った時の話のメモなどは取らないほうがよいと言われた。それをその後も墨守していたので、この時も含めて台湾の政治関係者に会っても長い間メモを取らなかった。そのため、年月とともにこの時二人とどういう話をしたのか、全体としては定かでないのだが、一つだけずっと鮮明に覚えていることがある。

それは、「増加定員選挙」のことが話題になり、私は台湾の国会は「万年国会」(※2)だが、「増加定員選挙」がありその枠が拡大していけば、年かさの「万年議員」は自然の摂理で減少していくのだから、待っていれば国会全面改選と同じ状況になるのではないかと、口を挟んだ時であった。

江春男さんは静かだが決然とした口調で「われわれは待てないのだ」と言った。謝明達さんも同様の表情であったと記憶する。

小ざかしいことを言ってしまったものだとすぐ後悔した。友人の台湾文学研究者の松永正義さんにかつて『今夜自由を』というノンフィクションを紹介されて読んだことがあった。内容はインド独立とパキスタンの分離の激動を描いたもので、台湾の事情とは関係は薄いが、本の題名だけはずっと記憶にあって、この時によみがえってきた。政治的自由、それを獲得したいという願望にスイッチが入ってしまえば、人は確かに「今夜自由」を手にしたいのである。歴史のある時空では強く願望した人々のほうが「現実的」であることもある。逆に、「現実から見てそんな願望の実現は無理だ」という現実主義者のほうが現実に裏切られることもある。

いつでもどこでもどんなことでもそうなるわけではないのはもちろんである。ただ、台湾の当時の時空では、江さんらに会った6年後の秋にはオポジションは民進党が結成に成功し、その翌年の夏にはさすがの長期戒厳令も解除され、10年後には国会全面改選が実現した。こうしてみれば、82年夏の『八十年代』誌の人々の願望のほうが「現実的」だったのである。

(※2) ^ まだ中華民国中央政府が南京にある1947−48年にかけて選出された議員が依然職権行使をしている国会。「増加定員選挙」は中華民国政府が実効統治している台湾においてのみ特別枠を設けて定期改選する選挙。

東京で康寧祥等と初めて会う

確か東京に戻った夜のことだった。戴國煇さんから電話があって、翌朝康寧祥、黄煌雄、張徳銘の3名の「党外」立法委員に会うから、同席したければ池袋のプリンスホテルのラウンジに来るようにとのことだった。もちろん、喜んで出掛けた。

康寧祥氏らは、立法院の夏休みを利用した訪米活動の帰途日本に寄ったのである。米国では、台湾のオポジションに同情的な国会議員に会ったり、シンクタンクを訪れたり、いくつかの都市にある在米台湾人団体との交流活動を行った。訪米の間は、上記3氏に加えて監察委員の尤清氏も加わっており、当時「党外四人行」と呼ばれた。いわば「党外」の外交活動であった。後知恵から見れば、米下院外交委員会アジア太平洋小委員会のスティーブン・ソーラツの訪台を引き出したのが、この「外交」の最大の成果だったようである。

康寧祥氏の回想録(『台灣,打拼—康寧祥回憶錄』2013年)を見ると、この時東京では、在日の台湾人団体と接触し、かつて戴國煇さんのいたアジア経済研究所やNIRA(総合開発機構)などのシンクタンクを訪問するなどの活動を行っている。戴國煇さんは1976年立教大学に移籍していた。

その朝のプリンスホテル、会話はもっぱら戴國煇さんとの間で進み、私は紹介された後は横で聴いているだけだった。どんな話だったかも記憶が残っていない。記憶に残るほど、またメモに残すほどに、話の内容に入っていけなかったではなかったかと思う。そうではあるが、生の人物に会うと会わないでは違う。台北での江春男さん、謝明達さんに続いて、台湾政治の渦中の「人に会う」の、まさに事始めであった。

バナー写真=「党外雑誌」『八十年代』の論客として知られていた江春男さん(司馬文武の筆名で知られる)と編集者の謝明達さんの名刺(筆者撮影)

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