台湾ラグビーの星・柯子彰、日本代表キャプテンを務めた台湾人選手の軌跡

スポーツ 歴史

かつて日本のラグビー界に「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」と呼ばれ、23歳という史上最年少の若さで日本代表の主将になった台湾人がいた。彼もまた日本と台湾をつなぐ重要な人物だった。

亡き父が好きだったスポーツ:相撲、野球、そしてラグビー

ラグビーワールドカップ日本大会で強豪スコットランドを破った日本の劇的な勝利、そして決勝トーナメント進出。歓喜に包まれる赤と白の横しまのユニフォームを着て、勝利インタビューを受ける選手の言葉を聞きながら、私は、亡くなった父のことを思い出していた。

台湾人の父は、もっぱら読書が趣味だったが、テレビで必ず欠かさず見ていたスポーツがある。相撲と野球、そしてラグビーだ。

子供時代の私は、父のことを「日本人」としか考えていなかった。いや、台湾出身であったとしても、日本語をしゃべって、日本食を食べ、日本人の友人とばかり付き合っている父が、日本のスポーツを楽しんでいることに、疑問を感じる理由はなかった。

父の母校は早稲田大学。特にラグビーは早慶戦を楽しみにしていた。テレビの前にじっと座って、食事の箸を動かすことを忘れるほど、早稲田の応援に夢中になっていた。

「妙ちゃん、パパと一緒にお出かけしよう」

ある年、休日なのに、父は会社に行くときと同じ格好の、トレンチコートに革靴といういでたちで、私の手を引き、電車に乗り込んだ。

向かった先は、明治神宮外苑の秩父宮ラグビー場。ラグビーのルールはまるで分からなかったが、肌寒い空の下、大歓声に包まれるスタジアムの雰囲気に、ただただ驚いた。秩父宮ラグビー場は、私が通っていた学習院女子の跡地だったことなどを、その場で父は話してくれた。

多勢の男子が団子状になって「おしくらまんじゅう」をしているように見えた「ラグビー」にどんな魅力があるのか、当時はさっぱり分からなかったが、今回、日本中が熱狂した日本対スコットランド戦を見て、彼ら、そして、父の気持ちが、少しは理解できた気がした。

野球とほぼ同時期に日本から台湾に渡ったラグビー

「橄欖球世界盃/日本晉級8強 寫歷史新頁」(ラグビーワールドカップ/日本8強入り 歴史に新たな1ページを刻む)

日本チームが初の決勝トーナメントに進出した快挙は、翌日の台湾の新聞でも大きく報道され、台湾のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上で日本チームの戦いぶりから勇気をもらった、という書き込みが見られた。父を知る年配の台湾人たちからもお祝いの連絡が続々と届いた。

ラグビーは中国語で「橄欖球(ガンランチウ)」、台湾語で「橄仔球(kan-ná-kiû)」と書く。ラグビーボールがオリーブの実の形に似ていることから、オリーブの中国語「橄欖」の名を取って付けられた。直訳なら「オリーブボール」。なんだかおいしそうな感じがしないでもない。

日本統治時代の台湾には、インフラや農業の他に、日本から持ち込まれて定着したものが多くある。そのひとつが「スポーツ」だ。代表的なものとして「野球」があるが、「ラグビー」もほぼ同じ時期に、日本から台湾に渡っていた。

日本にラグビーが伝わったのは1899年のこと。慶應義塾大学で、英語教師として新任した英国人のE・B・クラーク(Edward Bramwell Clarke) と、英国のケンブリッジ大学に留学し、ラグビーを体験したクラークの知人、田中銀之助が塾生に指導したのが始まりだとされている。

若き日のE・B・クラーク(慶應義塾体育会蹴球部百年史より)
若き日のE・B・クラーク(慶應義塾体育会蹴球部百年史より)

1901年日本最初のラグビー試合(写真中央左 E・B・クラーク/右 田中銀之助)
1901年日本最初のラグビー試合(写真中央左 E・B・クラーク/右 田中銀之助)(慶応義塾体育会蹴球部百年史より)

そこで塾生としてラグビーを学んだ松岡正男が1913年ごろ、台湾にラグビーを伝授したとされる。青森県八戸市生まれの松岡正男は台湾総督府通信局に招聘(しょうへい)され、仕事の合間に台北第一中学(現・建国中学)で主に日本人生徒を相手にラグビーを教えた。松岡正男は後に戦前の新聞「時事新報社」の社長も務めた。

明治37年松岡正男(中央)(慶應義塾体育会蹴球部百年史より)
明治37年松岡正男(中央)(慶應義塾体育会蹴球部百年史より)

初期の台湾ラグビーチームの選手は日本人ばかりだったが、やがて、ラグビーを日本で覚えた台湾人たちも増え、台湾でもラグビー文化が少しずつ広まった。そこに登場したのが、台湾ラグビーの先駆者、柯子彰(1910~2001)である。

早稲田大学時代の柯子彰(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)
早稲田大学時代の柯子彰(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)

2003年のことだった。台湾を訪れた後の日本ラグビー協会名誉会長で、ラガーマンでもあった森喜朗元首相は、真っ先に台北・淡水に向かった。そこに柯子彰の墓があるからだ。森元首相の父・森茂喜は柯子彰と同年に生まれ、早稲田大学ラグビー部の仲間であった。2人は特に仲が良く、柯子彰は森家によく遊びに来ていたという。青年時代の森喜朗に対し、いつも励ましの言葉を掛けてくれた柯子彰を森元首相はとても慕っていた(金美齢氏の公式ホームページなどより)。

「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」

日本ラグビーフットボール協会機関誌や台湾の民視、公共テレビなどの報道に基づいて、柯子彰の人生を再現してみたい。

1910年、柯子彰は敬虔(けいけん)なクリスチャンの両親のもと、台北で生まれた。父の仕事の関係で、中国の福州市に移り住み、1923年に京都の旧制同志社中学に進学した。

当時の学生としては身長が高く、体格にも恵まれているほうだった。柯子彰はラグビー部にスカウトされ、日々練習に励んだ。真面目な性格に加え、天性の素質があったのだろう。みるみるうちに上達し、同志社中学在学中、ラグビー部のメンバーとして3年連続日本一に貢献した。

旧制同志社中学時代の柯子彰(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)
旧制同志社中学時代の柯子彰(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)

大学生レベルの実力を持つ選手として評価された彼は、中学5年生のとき、同志社大学のラグビー部の一員として、関西地区の大学対抗戦に出場した経験もある。同志社中学を卒業し、東京の早稲田大学商学部に入学した柯子彰は、早稲田大学のラグビー部に入り、花形のポジションであるスリークォーターバックを任された。

大学2年生のとき、初めて結成されたラグビー日本代表のカナダ遠征選手にも選ばれている。カナダ戦は、勝つことは絶対に不可能だと戦いの前は思われたが、全7戦のうち6勝1分けの成績を挙げ、日本国内にラグビー人気が吹き荒れたと言われている。

1932年日本代表メンバーの柯子彰(後列中央)(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)
1932年日本代表メンバーの柯子彰(後列中央)(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)

大学4年では、早稲田大学ラグビー部の主将となり、後の早稲田ラグビー部のお家芸とされる「揺さぶり戦法」を確立した。「揺さぶり戦法」とは、ボールを素早く動かして相手の防御を乱し、その隙に攻撃する戦法だ。足が速く、破壊力もあり、頭脳明晰(めいせき)な柯子彰は、常に的確な指示を出し、ゲームをコントロールしていたという。

「カー、カー、カー」

現役時代、グラウンドに向かう柯子彰に、日本中のラグビーファンがそんな声援を送っていた。甘いマスクの柯子彰は、他のどの日本人選手よりも、常に多くの女性ファンに取り囲まれていたという伝説もある。

1934年に来日した豪州学生選抜とのテストマッチでは、23歳で日本代表のキャプテンを務めた。23歳という年齢は、いまだ歴代日本代表最年少主将という記録だ。

当時のラグビー界で、柯子彰をたたえたこんな言葉が残されている。

「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」

いかに彼が日本のラグビー界で重視されていたか、うかがい知れる。植民地となった台湾の若者が日本代表のキャプテンを務めたことは、台湾では大きな話題となった。

1934年早稲田大関東制覇、優勝カップを持つ柯子彰主将(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)
1934年早稲田大関東制覇、優勝カップを持つ柯子彰主将(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)

戦後、台湾のラグビー普及に尽力

大学を卒業した柯子彰は、満州鉄道に勤務し、吉林や大連、瀋陽、満州など各地の鉄道局に合計8つのラグビーチームを立ち上げた。交流戦を行い、ラグビーの普及に注力した。この時期に、同じ職場の日本人の女性と結婚している。

終戦を迎え、1946年に台湾に戻った後は台湾鉄路局に入り、満州にいたときと同じ手法で、台湾各地の鉄路局の職員を集め、ラグビー部を作ることに精を出した。

当時、台湾のラグビー部は2つだけで、台北第一中学と淡江中学(1915年ラグビー部成立)だった。ここに鉄路局のラグビー部を加え、彼は中華民國橄欖球協會(中華民国ラグビーフットボール協会)を結成。日本、韓国、タイのラグビーチームとの交流戦を積極的に行い、台湾におけるラグビーの地位向上に務めた。

柯子彰が立ち上げたラグビーフットボール協会誌(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)
1955年に台湾で開催された第9回全省ラグビー大会の資料冊子(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)

「あなたのお父さんはね、ラグビーをやりたかったみたいだけど、体が小さいから諦めたんだよ。」

父がラグビーに興味を持っていたことを教えてくれたのは、父の台湾大学時代の友人・張昭雄さん。松岡正男が最初にラグビーを教えた建国中学でラグビーチームを創設した人物だ。以来、建国中学ラグビー部の後輩から「建中橄欖球運動的太祖(建中ラグビーの始祖)」と称され、ラグビー部OBの永久会長になっている。

2015年、建中橄欖球運動的太祖・張昭雄さんを訪ねて(筆者提供)
2015年、建中ラグビーの始祖・張昭雄さんを訪ねて(筆者提供)

残念ながら張さんは2年前に他界されたが、生前、私に対して、流ちょうな日本語で「ラグビーをやっていた僕は乱暴者でね、せっかちですわ。お父さんはのんびりしていたね」「日本の人たちとラグビーをするのが楽しみでした」などとうれしそうにラグビーの話をしてくださった。

柯子彰のラグビー精神のルーツは日本にあり

英国から日本、そして台湾に伝わったラグビー。柯子彰の尽力で、台湾でのラグビーは発展し、日本、韓国と並んで、アジア3強と言われた時代もあるが、残念ながら、今の台湾ラグビーはあまり元気がない。7人制ラグビーでアジア諸国を対象とした「アジアラグビーチャンピオンシップ」に出場できるよう、日々努力しているところだが、練習場やコーチの不足、就職して活躍できる環境が整っていないなど抱えている問題は多い。

晩年の柯子彰は台湾において政府と企業の理解とサポートが欠如していると嘆いたそうだ。ただ、2015年には、台湾大学内に台湾初の女子ラグビーチームが結成されるなど、悲観的な話ばかりでもない。

2001年、柯子彰は91歳の生涯を閉じた。病床において、亡くなる直前までノートに達筆な日本語でラグビーのことを記し続けた。最後のページには「…パスも快パス、長パス、…ゴロキック等数種あり」と記されていた。人生最後の瞬間まで思い続けたラグビーへの愛情には感動させられる。

柯子彰が病床で最後まで書き続けたノート(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)
柯子彰が病床で最後まで書き続けたノート(台湾の公共テレビ「永遠の13号柯子彰」より)

柯子彰の死後、台湾で「永遠的13號(永遠の13番)」というドキュメンタリー番組が制作されたり、特集記事が組まれたりと、彼をしのぶ声は後を絶たない。

台湾ラグビーの先駆者である柯子彰のラグビー精神のルーツは日本にある。台湾人のラグビーファンは日本チームの快進撃を目の当たりにしながら、かつて台湾にラグビーを根付かせた日本人や柯子彰のことを思い出し、喜んでいるのかもしれない。

日本と台湾をつなぐものは多様だ。ワールカップを見て、ラグビーもそのひとつだということに気付かされた。野球のように、日本チームで活躍する台湾人選手が現れることを期待しつつ、まずは父が好きだった早慶戦を楽しめるよう、ラグビーのルールを勉強してみよう。

バナー写真=1930年カナダ遠征時の記念写真(2列目左端:柯子彰)(日本ラグビーフットボール協会提供「日本ラグビー デジタルミュージアム」掲載資料)

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