台湾、そしてハワイへ―通信誌『かむろ』が伝える沖家室島の移民史 : 海を渡り暮らしを切り開いた海洋人

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わが国の移民の歴史が150年を迎えた。山口県の「沖家室島」には彼らの声を今に伝える資料、通信誌『かむろ』がある。海外から日本に働きに来る人々が増えている現代日本で、この資料から私たちは何を感じ取ればいいのか。共生社会の在り方を改めて考える。

移民の歴史を今に伝える通信誌『かむろ』

2018年の12月20日、明仁上皇陛下が天皇在位中に迎えた最後の誕生日に際してのお言葉の、こんな一節が深く印象に残った。

「今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました」

古来より自然災害が多く貧しかった日本列島を離れ、新天地を目指して海を渡った日本人は少なくない。上皇陛下の言葉どおり、特に1868年の明治維新以降、遠くハワイ・ブラジル・ペルーまで多くの人々が労働者として移民し、暮らしを切り開いた。また1985年の日清講和条約締結後には、台湾を領土とし、韓国併合、満州国建国と帝国日本の植民地政策の中で、民間からも多くの移民がアジア各地へと渡航していった。そうした人々の当時の声を伝える貴重な資料の残る場所がある。山口県は瀬戸内海に浮かぶ「沖家室島(おきかむろじま)」である。この島で生まれた通信誌『かむろ』は、1914(大正3)年の創刊から1940(昭和15)年まで158号が発行され、27年間にわたって島外に渡った人々と故郷とをつないだ。世界各地からの便りが毎号掲載され、当時の移民した人々の暮らしぶりや新天地にかける熱い思い、家族やふるさとへの思慕、慣れない土地での戸惑いを生き生きと今に伝えてくれる。

明治政府がハワイへの移民をあっせんする「官約移民」が始まった1885年当時、外務大臣を務めていた井上馨は山口県の出身だった。このため、山口県、特に周防大島からはハワイへとたくさんの島民が渡った。

沖家室島は、周防大島の属島にあたり、周囲約4キロメートル、面積1平方キロメートルにも満たない小さな島だ。人口約130人、高齢化率が日本最高水準ともいわれ「長寿郷」「大往生の島」の異名も取るが、かつては瀬戸内の海上交通の要衝として、また屈指の漁村として栄え、戦前には人口が3000人を超し人口密度日本一の時期もあった。

島伝統の「かむろ船」と「かむろばり」を使った一本釣り漁を得意とする沖家室人は、好漁場を求めて下関・伊万里・平戸・対馬や朝鮮半島、そして台湾やハワイへと漁業移民していった。島にある蛭子神社を訪れると、寄進された狛犬や石段・参道の石には「ホノルル」「ヒロ」「高雄」「基隆」などの地名が刻まれ、小さな島から海で繋がる広い世界へ果敢にこぎ出していった海洋人魂が伝わってくる。島出身者で構成される「かむろ会」は現在、東京・関西・広島・山口宇部の他、ハワイにもあり、会員は500人を超えるという。

沖家室島の蛭子神社の狛犬に台湾の「高雄」の地名が刻まれている(筆者撮影)
沖家室島の蛭子神社の狛犬に台湾の「高雄」の地名が刻まれている(筆者撮影)

海を舞台にグローバルに生きてきた人々

「海で生きる人々が住み継いできた島なのです」

沖家室島で唯一の寺である泊清寺の新山玄雄住職は、そう教えてくれた。郷土・周防大島が生んだ日本を代表する民俗学者・宮本常一(1907-1981)の薫陶を20歳半ばのころに受けた新山住職は、『かむろ』のスピリッツを受け継いだ小冊子『潮音(ちょうおん)』を1975年から発行、通信誌『かむろ』を書籍として復刻した。また宮本常一が立ち上げた「周防大島郷土大学」を引き継ぎ、定期的に講座を開催するなど郷土に根差した学びを生かす地域づくりに力を注ぎ、沖家室島史の生き字引ともいえる人物だ。

2001年に書籍として復刻した通信誌『かむろ』(筆者撮影)
2001年に書籍として復刻した通信誌『かむろ』(筆者撮影)

新山住職によれば、「家船」と呼ばれる最低限の装備で漁場をめぐった当時の一般的な流浪の漁師と異なり、沖家室の漁師たちは江戸時代から近代的な船団を組んで遠海へと帆を出していた。明治期以降は移民として海外各地に渡り、漁業に従事して足場を確かなものにした。頼りにできるのは「海洋民」として培ってきたスキル、そして島を媒介に日本内外に広げたネットワークである。「(台湾)嘉義のおばさん」「(中国)青島のおじさん」「(ハワイ)ヒロの親戚」らが登場する会話が日常的にそばにあったという島の人々の話からは、現代の国境や陸を中心とした世界地図とは違う、海を舞台として真にグローバルに生きて来たかつての日本人の姿が浮かび上がってくる。排他的・閉鎖的と指摘されることも多い現代の日本人像とは、いささか異なる国際感覚を備えていたように思える。

泊清寺の新山玄雄住職(筆者撮影)
泊清寺の新山玄雄住職(筆者撮影)

当時の暮らしぶりが詳細に記された「基隆通信」や「打狗通信」

台湾で沖家室漁民が最初に定住したのは北部の基隆で、1915(大正4)年1月の『かむろ』によれば当時40人ほどの在住者がいたらしい。それから、当時は打狗(ダーゴウ)と呼ばれた台湾南部の高雄に進出し、17(大正6)年には64人ほどの沖家室人が打狗港の要所であった哨船頭(しょうせんどう)に固まって住んでいた。毎号の『かむろ』に掲載されていた「基隆通信」や「打狗通信」では、沖家室の人が多かった哨船頭町の正月はどの船頭の家でも酒や料理をふんだんに用意して沖家室にいるのと同じような気分を味わえたこと、ホウチョウウオ・タイ・メバル・カジキを主に釣っていたこと、はじめてカジキを釣った時はあまりの大きさに仰天したこと、漁でどのぐらいの収入が得られるか、台湾からフィリピンやインドネシアのセレベス島まで延縄(はえなわ)船で出かけていった話など、当時の漁民の暮らしぶりが細やかに記録されている。

『かむろ』に掲載された「基隆通信」や「ヒロ通信」(筆者撮影)
『かむろ』に掲載された「基隆通信」や「ヒロ通信」(筆者撮影)

ハワイの水産業を興した沖家室人

官約移民として1885年からの10年間で、周防大島からハワイへと約4000人が渡った。大部分がサトウキビ農園や畑の開墾などの重労働に従事した中で、沖家室の人々が携わったのはやはり漁業であった。宮本常一が監修した『東和町誌』によれば、1916年当時ヒロ(ハワイ島)に57人、ホノルル(オアフ島)には49人の沖家室人がいたという。持ち前のネットワークを生かしてハワイの漁業振興に尽力したが、1941年12月7日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦すると、「敵性外国人」としての苦難の日々が始まる。沖家室島出身で「大谷水産」を起こした大谷松次(治)郎氏は、真珠湾攻撃のその日のうちに米国連邦捜査局(FBI)に強制連行され、次男のアキラ・オオタニ氏ら日系2世は、米国への忠誠を示すために戦地へ向かった。

戦後、沖家室人の興した水産業はハワイ島の主力産業のひとつとなった。現在、ポキ丼など新鮮な海鮮で知られるハワイ島の「SUISAN」(Suisan Fish Market)も、沖家室島出身の松野亀蔵氏が1907年に「Hilo Suisan Company」として創業した会社が母体である。沖家室の「海洋人」の血は、ふるさとを遠く離れた地で地域の文化と交じり合い、脈々と受け継がれているのだ。近年は自分のルーツを知りたいと日系3世、4世らが絶えず周防大島や沖家室島を訪れ、過疎化の進む島に新たな交流をもたらし、地方創生の小さな息吹となっている。

移民らの住所が整理された通信誌『かむろ』(筆者撮影)
移民らの住所が整理された通信誌『かむろ』(筆者撮影)

共生社会の在り方を日本人移民から学ぶ

冒頭の上皇陛下のお言葉は、以下のように続く。

「日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」

出生数が2016年から3年連続で100万人を割り込み、人口減社会に突入した日本では、これから外国人労働者の受け入れが拡大していくことは間違いない。過酷な就労内容や子どもの教育・差別など、すでにさまざまな問題が噴出しているが、かつては日本人が逆の立場にあった歴史を知る人は少ないのではないだろうか。海を渡って日本にやってきて、共に社会を支える人たちの尊厳を守り、仲間として受け入れる共生社会の大切さを、かつて海を渡った日本人らの軌跡から学ぶことはできないだろうか。改めて足元の歴史を見つめ直すことで、海外から日本に働きに来た人々の境遇に、いま一度想像力を働かせてみたいと思う。

バナー写真=沖家室島、泊清寺の新山玄雄住職(筆者撮影)

参考資料

  • 宮内庁HP
  • 東和町誌/宮本常一, 岡本定 著/東和町
  • かむろ復刻版/泊清寺
  • 朝日新聞 2015年2月27日版、2015年3月17、18、19日版
  • 読売新聞 2017年12月5日版

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