ローマ教皇フランシスコの長崎訪問:現在の悲観的核情勢に関して強いメッセージを

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念願だった日本訪問

ローマ教皇ベルゴリオ・フランシスコの訪日が近づいてきた。11月23日から26日まで、東京、長崎、広島、東京の順に訪れ、バチカン国元首として天皇、首相を公式訪問し、全国のカトリック信者、長崎・広島の原爆被爆者、学童、学生など幅広い国民に接する。ご高齢にもかかわらず精力的な行動である。

イエズス会神父として出身地のアルゼンチンで働いていた若い頃は、フランシスコ・ザビエルが布教した日本に憧れ、いつか宣教に携わることを念願としていたという。だが、その夢は健康問題で実現しなかった。初の南米出身者として初のローマ教皇になられたことで、いよいよ「日本への旅」が実現することとなった。

苛烈だった長崎信徒への弾圧

1540年にパリで設立されたイエズス会は、ローマ教皇の認可を受けて1549年にザビエルを日本へ派遣し、カトリックの日本布教が始った。これは15世紀初頭に大航海時代が始まって約150年後のことであり、ヨーロッパによる日本への初の文明的接触ともなった。キリスト教の布教と日欧貿易の開始、および鉄砲の伝来は、世界史的にも日本の歴史においても大きな転換点であった。

日本はまだ戦国時代のまっただ中にあり、虐げられた一般民衆のキリスト教による魂の救済に対する反応は大きく、驚くべき受洗者数の増え方を示したのである。布教は大名層もへも及び、日本で最初にキリシタン大名となったのは肥前大村(現・長崎県大村市)の領主、大村純忠であった。島原の有馬氏の出身である。大村領では急速にカトリック化が進み、江戸時代初頭には人口6万人のほとんどが信者となっていた。

大村・有馬・大伴の3大名は1582年、遣欧少年使節団に親書を託し、長崎港から送りだした。1585年、彼らはローマで教皇グレゴリウス13世に謁見する。これは日本人がヨーロッパに足跡をしるした最も早い事例となった。

しかし、その後の日本におけるカトリックとその信者の運命は暗転し、過酷なものとなった。豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ、長崎の西坂における26聖人の殉教が逆境の始まりとなった。徳川時代となった1613年、家康により禁教令が全国に出され、司祭、神父の活動は禁止され、信者への抑圧も熾烈なものとなり、棄教を強いられるようになった。その後17世紀中葉から18世紀には日本からキリスト教は消滅したかに見えた。

江戸期を通じて禁教令は続いたが、日本各地の信者の一部は、表面上は仏教徒を装いながら、密かに信仰を幕末に至るまで維持し続けていた。日本が再び諸外国に港を開いた明治維新前後には、長崎四番崩れが発覚し、多くの隠れキリシタンが捕縛され、西日本の各藩に流刑となり、多数の犠牲者を生んだ。西洋列強からの猛抗議で禁教令は1874年(明治7年)に完全に撤廃され、日本に信仰の自由が回復した。

フランシスコ教皇はこのたびの長崎訪問では、原爆落下中心地公園と、この西坂の丘の26聖人殉教地を特に希望して訪問されることになっている。

勇気を与えた38年前のヨハネ・パウロ2世来日

1868年の明治維新の後、日本は西洋列強に遅れながらも帝国主義の道を踏襲する。そして日清・日露戦争を戦い勝利し、世界の中でその地位を固めた。1931年の満州事変後、2度目の日中戦争とそれに続いて、41年には対英米オランダ戦争を開始した。しかし4年後、第2次世界大戦の末期には敗北寸前までになっていた。

この時期、米国は2つの原爆の製造に成功し、戦争の早期終結を目的に、トルーマン大統領は広島市と長崎市に投下を命じた。両市で合わせて21万人が犠牲となった。長崎市は、隠れキリシタンの子孫たちのカトリック信者が最も多く居住する浦上地区を中心に壊滅した。7万3000人が犠牲となり、カトリック信者の犠牲者は8000人を超えていた。

38年前の1981年、ヨハネ・パウロ二世が教皇として初めて来日し、被爆地の広島・長崎を訪問した。教皇は広島から「戦争は人間のしわざです。戦争は死です」のメッセージを世界に向けて発した。これは日本のみならず世界に大きな影響を及ぼし、平和と核廃絶の機運を著しく高めるきっかけとなった。

特に長崎では、カトリック信者は8000人もの犠牲を乗り越えて復興を遂げ、信者数も回復しつつあったその時期、平和と核廃絶の活動にまだ消極的な信者が多かった。教皇から示されたこのメッセージは、この長崎の信者に大きな勇気を与えて、信者らは運動を活発に行うようになった。

長崎市を訪問、「教皇歓迎集会」に出席し、オープンカーで歓迎にこたえるヨハネ・パウロ2世=1981年2月26日、長崎市の松山陸上競技場(時事)
長崎市を訪問、「教皇歓迎集会」に出席し、オープンカーで歓迎にこたえるヨハネ・パウロ2世=1981年2月26日、長崎市の松山陸上競技場(時事)

逆転し始めた核軍縮の流れ

フランシスコ教皇は、日本へのあこがれと日本の信者の殉教の歴史への敬虔な思いの中で訪日される。特に長崎の原爆によって被爆した子どもたちに心を痛めておられる。

「焼き場に立つ少年」という、原爆投下直後の長崎で米軍兵士が撮影した1枚の写真がある。死体の焼き場で、亡くなった弟を背負った兄が直立し、弟を焼く直前に歯を食いしばる表情が写されている。教皇はその写真に深い思いを抱き、就任後には自らの署名を入れて世界に配布し、悪である核兵器廃絶の必要性を何度も繰り返し訴えてこられた。

その教皇がいよいよ11月24日長崎に来られる。爆心地公園において約1000名のカトリック信者、原爆被爆者、小中高の生徒・学生、一般市民を前に、いかなる核廃絶のメッセージを世界に発信されるのか、皆、固唾(かたず)をのんで教皇をお待ちしている。

世界の核情勢はまさに今、これまで進んできた核軍縮が、米ロの対立が激化し、中距離核ミサイル全廃条約(INF)が今年8月廃棄され、逆転し始めているのである。両国は新たな核態勢を発表し、小型核を増産することを表明している。

2016年、原爆を投下した米国の現職の大統領として初めて、オバマ氏が広島を訪問し、平和公園の慰霊碑の前で演説した。世界で初めて米国がその巨大科学と産業によって核兵器の製造に成功し、かつ戦争に使用したことを述べたあと、米大統領として人類がまだこの核兵器を廃絶できないでいる現状を憂え、人類は科学の知恵で核兵器を手にしたが、それを手放す決断を可能にする倫理的叡智をまだ獲得するに至っていないと述べた。

フランシスコ教皇も、このオバマ前大統領の広島演説は聴かれたか、読まれているものと思われる。人類の精神世界の最高のリーダーであるローマ・カトリック教皇の発するメッセージは、現在の悲観的核情勢に関してのものとなるであろう。したがって、特に核保有国の9カ国に対して、いかなる訴えを行うかが注目される。

核兵器の脅威を等しく被る世界中の市民のことを、われわれ長崎の平和団体は地球市民と呼んでいる。もし大規模核戦争が勃発すれば、地球環境を破壊し、農業を破綻させ、飢餓を招き、ついには人類の滅亡にもつながる。核兵器国と非核兵器国の区別なく、この地球市民のすべてが危機に瀕することを理解しなければならない。

フランシスコ教皇のメッセージは21世紀の今、紛争に明け暮れる世界の諸地域と、核兵器保有をあくまでも維持し続け、核兵器などの武力により平和を維持しようとする国々が、教皇メッセージに敬虔に耳を傾け、この地球市民に対してあまねく安全を保障すべき重い責任を負っていることを教え諭すものとなろう。

バナー写真:74回目の長崎原爆の日の朝を迎え、浦上天主堂で行われたミサで犠牲者のために祈りをささげる人たち=2019年8月9日、長崎市(時事)

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