日本生まれの台湾人が、台湾に伝える本物のラーメンの味

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台湾のラーメン界で旋風を巻き起こしている鷹峰涼一さんという人物がいる。「鷹流ラーメン」を掲げて、台湾での出店は8年間で8店、つまり年1店舗というハイペース。鷹峰さんは、台湾人の両親のもとに生まれ、日本で育った。日本ラーメンの味を、ふるさとの台湾に伝える仕事に取り組んでいる。

台湾人に本当の日本のラーメンを食べてもらいたい

「いらっしゃいませ〜!」

男女の店員全員が威勢よく、張りのある声で迎えてくれた。コの字形のカウンターを囲んだ10席という小さなラーメン屋だ。コンクリート打ち放し風の壁面や竹をあしらった内装、のれんなど、どこからどう見ても、日本のラーメン店だ。

「不好意思,請先買票…」

かわいらしい女性店員に中国語で話し掛けられ、ここが台湾だという現実に引き戻された。店の看板メニュー「濃湯白鶏麺(濃厚白鶏麺)」と「糖心蛋(味玉)」を注文した。一杯250台湾ドルと決して安くはない。運ばれてきたラーメンには、桜色の豚肉と鶏の胸肉、もも肉、水菜などが乗せられている。まずは、レンゲを持ち、ラーメンの味を決めるスープを口に運んだ。濃厚な味にガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。病みつきになる味だ。

「濃湯白鶏麺」(筆者撮影)
「濃湯白鶏麺」(筆者撮影)

自家製という麺は、細麺タイプで、やや柔らかい。やわ麺派の私には丁度いい。低温調理で丁寧に仕上げられた鶏肉の柔らかさにも驚いた。鷹峰さんのこだわりがぎっしりと詰まっているラーメンだ。

私が訪れたのは、鷹峰さんが今年開店した台北・雙城街にあるラーメン店・鶏そば本舗<梓山>だ。平日の夜8時半過ぎだというのに、店内は満席。店の外には行列ができていた。20分ほど並んで、ようやく店内に入れた。

筆者が訪れた鷹峰さんが台北・雙城街の夜市にあるラーメン店・鶏そば本舗<梓山>の看板。デザインは鷹峰さん本人によるもの(筆者撮影)
筆者が訪れた鷹峰さんが台北・雙城街の夜市にあるラーメン店・鶏そば本舗<梓山>の看板。デザインは鷹峰さん本人によるもの(筆者撮影)

先着の人たちは、一心不乱にラーメンを食べている。ひとり客が多いのだろうか。会話しながら食べている人はほとんどいない。慣れた感じで替え玉を注文する人がいた。常連客に見える。ほとんどの人がスープを飲み干し、席を立つ。

一心不乱にラーメンを食べている常連客と思われる人(筆者撮影)
一心不乱にラーメンを食べている常連客と思われる人(筆者撮影)

台湾で何回かラーメン店に入ったことがあるが、多くの店には、スープを薄めるための、お湯の入ったポットが備え付けられていた。「台湾人に日本のラーメンは塩辛すぎる」という理由で考案されたサービスだ。ほとんど味のないラーメンをおいしそうに食べる台湾人の姿を見て、カルチャーショックを受けたことを思い出した。この店のラーメンは日本同様に塩味が強い。

「台湾人に本物の日本のラーメンを食べてもらいたい」
鷹峰さんは自信たっぷりに語った。

味の「台湾化」に走らず成功

私は、鷹峰さんを20年以上前から知っている。大学生時代、私が台湾とのハーフであることを知った同級生のH君に誘われて、東京・神田の飲茶の店に食事に出かけた。H君の友人が鷹峰さんだった。

鷹峰涼一さんと筆者(筆者提供)
鷹峰涼一さんと筆者(筆者提供)

鷹峰さんの本名は「高峰涼一」。台湾人の両親のもと、1966年、高円寺で3人兄弟の長男として生まれた。DNAは100%台湾人ということになるが、鷹峰さんが中学に入り、一家で日本国籍を取得したため、日本名となった。父親の姓は「魏」、母親の姓は「呉」だが、「最高峰という意味で『高峰』という姓になったんです」という。

訪れた飲茶店の経営者は鷹峰さんの弟で、彼は店を手伝っていた。大柄でちょっと近寄りがたい迫力のある外見とは裏腹に、気さくに台湾語で話しかけてくれて、いろいろサービスをしてくれたことを思い出す。

何年か後、H君から、鷹峰さんが東京の高田馬場でラーメン店を開いたと聞いた。そして、2012年、鷹峰さんは台北・東区で鷹流「台湾本店」をオープン。看板メニューは超極濃拉麺(台湾一極濃の塩ラーメン)で「湯頭全台最濃(台湾一濃いスープ)」を掲げた。

味の台湾化を考えず、台湾のラーメン市場に切り込んだ「鷹流ラーメン」(筆者撮影)
味の台湾化を考えず、台湾のラーメン市場に切り込んだ「鷹流ラーメン」(筆者撮影)

台湾に進出する日本の飲食店は、現地の人々の口に合うよう、多少なりとも味の改良を行い「台湾化」させることが多い。例えば味噌汁。台湾人は日本人よりも塩辛いものに対する閾値(いきち)が低いので、台湾の和食店で出される味噌汁は、日本の味噌汁に比べると味がかなり薄口になっている。

ところが、鷹峰さんは最初から味の台湾化を考えず、台湾のラーメン市場に切り込んだのだ。

「最初は怒られましたよ。こんな塩辛いもの飲めるかって」

日本の味を守り通した結果、徐々に台湾人の味覚も馴れてきた。「飛行機に乗らなくても日本の味が食べられるラーメン屋」ということで人気が広がり、行列の絶えない店になった。

「台湾人に本物の日本のラーメンを食べてもらいたい」

以降“鷹流ラーメン”という系列で、海老そば、つけ麺、味噌、醤油豚骨など、毎年一軒ずつ、味やスタイルの違った新店舗を展開し続けてきた。

48歳、けんか以外で初めて泣く

鷹峰さんが台湾でラーメン屋を始めたきっかけは東日本大震災だ。高田馬場の店は震災の影響を受け、繁盛していた客の入りが嘘のようにピタリと止まってしまった。誰もこない店で過ごす日々。心もからだも疲れ果てた。

「毎日刑務所にいるようだった」

思い切って、両親の故郷である台湾を訪れた。頭は仕事から離れない。台北から台中まで、ラーメンを食べ続けた。70店舗を食べ尽くしただろう。「納得できた味は3店舗しかなかった」と振り返る。

思い立ったら即行動に移すタイプだ。すぐに家族には「俺、台湾行く」と伝え、旅立った。台湾に来てからの8年間は、平坦な道ばかりではない。台湾人の息子として何度も親戚に会うなどの理由で来ていた台湾も、実際に働くことで多くのことが見えてきた。

「どんなものにも、『日本人価格』があるのです」

例えば、家賃。日本人だとわかると、家賃が5万台湾ドルも釣り上げられた。

居抜きで買ったはずの設備を回収され、お金を渡した相手に電話をかけても、応答する者がおらず、逃げられた、という経験もした。

「48歳になって、けんか以外のことで初めて泣きました」

鷹流ラーメン7店舗の名刺(筆者撮影)
鷹流ラーメン7店舗の名刺(筆者撮影)

両親が台湾人で、自分も台湾人なのに、なぜひどい目に遭わなければならないのか。そんな思いがぐるぐると脳裏を駆け巡った。胃からの出血や、血便に見舞われるほど、神経をすり減らした。3年目からようやく台湾人的な考え方に自分の頭を切り替えて、トラブルも乗り切れるようになった。

鷹峰さんの分析によれば、日本人は村社会のため、2番手に甘んじようとする人が多く、自分で店を開こうとする人は少ない。一方、台湾人は誰もが「老闆(オーナー)」になりたいと強く願い、お金儲けを第一と考える者が多い。さらに、台湾人は上に立ち、管理するものがいればきちんとその指示に従うが、管理者がいなくなると、ルールを守らなくなる傾向がある。

台湾の味が「鷹流ラーメン」の原点

家族の共通言語は台湾語だった。父親は常日頃から鷹峰さんらに「お前たちは台湾人だから台湾語を忘れるな」と諭していた。だから鷹峰さんの台湾語はネイティブ並みで、一方、北京語はほとんど話せない。中学に上がる際、横浜の中華学校に通うこともできたが、外国人訛りのある日本語は、日本で仕事がしにくいだろう、という父親の配慮から、日本人と同じ地元の中学校に入学し、高校へと進学した。

ダンサー時代の鷹峰涼一さん
ダンサー時代の鷹峰涼一さん

高校以降は波乱の人生を歩んだ。ブレイクダンスに憧れ、本場米国に渡りその腕を磨いた。ダンサーとしての体力に限界を感じたころ、愛田武社長と出会い、ホストとしてスカウトを受けた。愛田武と言えば、日本で有名な老舗のホストクラブ「愛」の創設者として知るひとぞ知るという名前。バブル最盛期に店ではナンバーワンに上り詰めた。1カ月の給料は、立つほどの1万円札の札束をもらっていた。ところが、30歳を迎えて突然ホストを辞め、10年ほど定職に就かず、母の経営するクラブや弟の経営する飲茶店を手伝って過ごしていた。

ホスト時代の鷹峰涼一さん(左)。ホストクラブでナンバーワンになった際の記念の1枚(右)(鷹峰涼一さん提供)
ホスト時代の鷹峰涼一さん(左)。ホストクラブでナンバーワンになった際の記念の1枚(右)(鷹峰涼一さん提供)

ラーメン店の開業でも、当初、有名店では修行せず、自己流で始めた。門外漢の挑戦は、同業者からの嘲笑の的となった。それでも、自分だけの味を求め、台湾の雞肉飯と白切雞からヒントを得た「白鶏麺」を完成させた。

「結局、僕のラーメンは台湾の味が原点なのです」

2000年代初頭の日本のラーメン店の主流は、濃厚魚介豚骨ラーメンが主流で人気だった。あっさり鶏ベースの塩ラーメンは少なく、来客に30分以上説教されたこともある。時代の先端を行きすぎた結果だ。それでも、諦めずに続け、人気店へと成長した。

この白鶏麺を「梓山」で台湾の地に再現したのである。

「台湾人の口に合わないはずがない」

忙しく接客しながらこう言い切る鷹峰さんからは、台湾人としての自信が溢れ出している。一方、台湾料理はおいしいけれども、その味が、50年以上あまり変化がないことを鷹峰さんは残念に思っている。

「伝統を守ることも大切だけれども、人間も料理も進化が必要だ」と鷹峰さんは言う。1年に1軒ずつ、全て違う味の店を台湾に出しながら、日本の本場のラーメンの味を台湾に定着させつつあると自負している。そして、来年は台湾でもっともポピュラーな「牛肉麺」の鷹流版に挑戦するという。それは、台湾料理をさらに進化させることを期待しているからだ。

鶏ラーメンの梓山をオープンしたばかりなのに、頭の中はすでに牛肉のことでいっぱいになっていた。鷹流牛肉麺を完成させた後は、東日本大震災で受けた台湾人への感謝の気持ちを形にするよう、車に乗り、台湾各地を巡りながら、屋台でラーメンを作り、日本の味を台湾各地の人々に届けたいという

鷹峰さんの進化と挑戦は一生続いていくに違いない。

バナー写真=「鷹流ラーメン」店主・鷹峰涼一さん(筆者撮影)

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