台湾を変えた日本人シリーズ:花蓮に「野球」と「港」を残した江口良三郎

歴史

経験を買われ花蓮港庁の庁長に就任

1920年9月に「台湾州制」律令第三号により、行政区の廃庁置州が行われ、これまでの12庁から台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁の5州2庁に変更された。州の長は知事・庁の長は庁長と呼ばれた。花蓮港庁に新任の庁長が、赴任してきた。その人物の名前は江口良三郎。任期は、6年間であった。

花蓮港庁(筆者提供)
花蓮港庁(筆者提供)

江口は1869年11月24日佐賀県佐賀郡鍋島村に生まれた。95年に台湾が日本領になると、25歳の江口は台湾に渡って陸軍に入隊して治安維持のために反乱軍や「土匪討伐」の作戦に参加している。陸軍除隊後に台北県新竹弁務署の警部となり、1904年には宜蘭庁警務課長になった。韓国併合が行われた6年後の10年には、台北に帰り総督府の蕃務本署に転勤になった。総督府は文字を持たず狩猟中心の生活をする先住民族を、農耕中心の生活に転換させるため、蕃童学校をつくり日本語や農耕のやり方を教育する「理番政策」を行った。蕃務本署は、その政策を推進し指導管理を行う部署である。この転勤によって江口は初めて台湾の先住民族と関わりを持つようになる。

江口良三郎(筆者提供)
江口良三郎(筆者提供)

清朝統治時代に先住民族の生活地は「化外の地」、人々は「化外の民」と見下され、「生番」といわれていた。日本統治時代になっても、同化し平地に住む蕃人を「熟蕃」、同化せず独自の生活習慣を維持し主に高地で狩猟生活を送っている蕃人を「生蕃」といって区別されていた。後に「高砂族」と総称されるようになるが、それは昭和に入ってからのことである。

江口は先住民族に関わって10年が経過した21年、その能力が高く評価され、警務局理蕃課の蕃務警視に昇進し、12月には花蓮港庁での理蕃政策を期待され、庁長に抜てきされて赴任したのである。

「築港」と「野球」で活性化を図る

台湾は、中央山脈が南北に走り、3000メートルを超える山々が、開発の進んだ西部地区と未開の東部地区を分断していた。東部は山脈の麓に少しばかりの平地がある花蓮港庁とさらに南の台東庁に分かれていた。花蓮港庁には4万人近いアミ族が居住していた。アミ族が北部のタイヤル族や南部のパイワン族と違い、主に焼畑農業を行い、副業に狩猟や漁労を行う生活習慣を有する点も江口は熟知していた。さらに、花蓮港庁はアミ族以外に官営移民の日本人や中国大陸から移住してきた漢人が混住する特殊な土地でもあった。また、台湾西部に比べ交通手段もバスしかなく、港湾は皆無で開発が遅れていたため、経済活動も貧弱で、娯楽施設もほとんどない貧しい地域であった。

蘇澳と花蓮を結ぶバス(筆者提供)
蘇澳と花蓮を結ぶバス(筆者提供)

江口には庁長として赴任したときから2つの課題があることに気付いていた。一つはアミ族と日本人や漢人との融和を図り、理蕃政策を推進することであった。もう一つは交通手段を増やし経済の活性化を図るため、艀(はしけ)に頼らなくてもいい港の建設であった。江口は三民族融和と先住民族の理蕃政策を推進させる道具として野球を取り入れることにした。1917年には野球が台湾の東部にも伝わって来ていたが、江口の赴任時はまだ盛んとはいえない状態であった。22年に花蓮港体育協会が組織されると、江口が会長に就任し、副会長には花蓮港街長を兼任していた梅野清太を選任した。梅野は今でいう花蓮の町長といったところであろう。

吉野村(筆者提供)
吉野村(筆者提供)

江口と梅野はともに野球好きだった。「鉄団」をはじめ「庁団」「塩糖団」「商工団」などのチームが次々と作られた。各チームが花蓮で唯一の「花崗山グラウンド」で試合を行った。

野球が早くから取り入れられてきた西部地域においては、勝負にこだわり見物者からは入場料も取ることが当たり前に行われていた。一方、花蓮港庁の野球は一つの娯楽として発展してきたため、選手も見物人も一緒になって野球そのものを楽しんでいた。花崗山グラウンドでは、入場料を取らず、三民族が共有する空間を作り上げることに成功していた。

こうして江口にとって課題であった理蕃政策が軌道に乗りつつあったが、もう一つの課題、艀を使わなくても良い港の建設は遅々として進まなかった。台湾はユーラシアプレートの東端にある島で、花蓮港庁の真下にはフィリピンプレートが潜り込んでいるため陸地が急に落ち込み1000メートル近い水深があった。従って、海中に防波堤を築く方式は不可能であった。

艀(はしけ)を利用した様子が見られる港が整備される前の花蓮港(筆者提供)
艀(はしけ)を利用した様子が見られる港が整備される前の花蓮港(筆者提供)

そこで江口は従来の築港方式でなく、陸地を掘削して海水を引き込む方法を考え実行に移した。まず、海岸に強固な堤防を築き、その内側の大地を掘削し大量の土砂を取り除き、海水を入れて築港するのである。22年、簡易な防波堤が完成した。住民は、不可能と言われた築港に取り組んだ江口に喝采を送り、防波堤は「江口突堤」と呼ばれた。

「江口突堤」築堤の様子(筆者提供)
「江口突堤」築堤の様子(筆者提供)

一方、野球による理蕃政策の推進も、期待以上の成果を上げていた。その裏には、漢民族の林桂興なる人物の存在があった。林桂興は1899年生まれで、花蓮商工学校在学中に野球をしていた。卒業後は会社に勤めるが、野球に対する知識と技術は身に付けていた。やがて林桂興はアミ族の青少年が野球に必要な身体能力を身に付けていることを見抜き、台湾野球史上初の「先住民族野球チーム」を結成し、自ら監督になりこのチームの指導もしていた。

花蓮港庁には1921年4月に、アミ族教育のための4年制の「花蓮港街立簡易農業学校」が設立された。狩猟中心の生活から農耕中心の生活に変更させるための教育施設である。アミ族の少年による「先住民族野球チーム」は、花蓮野球大会で良い成績を上げていた。その姿を見た江口は、副会長の梅野清太と協議し「先住民族野球チーム」を農業学校に全員入学させ「能高団」野球チームを創設したのである。「能高団」という名称は、江口が命名した。この名前は市街の近くにそびえる標高3262メートルの能高山からとったものである。

江口は「庁団」の主将であった門馬経祐の手腕を見込んで、「能高団」監督に就任させた。門馬監督は期待に応えるべく週に3日指導し、花崗山グラウンドで猛練習を行った。

江口は先住民族に対する差別や偏見といった感情を、もともと持ち合わせておらず、素直に彼らの能力を認め評価した。そのことが選手のやる気に火を付けることになった。

全国にその名を知らしめたアミ族野球チーム「能高団」

花蓮体協の成立後、会長の江口は毎年春秋2回の野球争覇戦を行うなど、積極的に野球を奨励した。その結果、日本人と漢民族が積極的に試合に参加し、先住民族の野球観戦も進んだ。野球場が日本人、漢民族、先住民族の共通空間として役割を果たし始めたのである。

1922年2月、台湾体育協会の招聘(しょうへい)で大毎野球団が初めて台湾に遠征した。24年4月からは台北、花蓮港、高雄、台南、台中などの各地を転戦し、30日には花蓮港軍との対戦が行われた。大毎野球団は「能高団」との対戦を予定していなかったが、「滯在中、ぜひ一度指導的に試合をしてほしい」との申し込みを快諾し、花崗山グラウンドで親善試合を行った。

花蓮港総出という大盛況の試合には、アミ族の盛装した男女百数十人が応援に駆け付けた。試合途中に大毎選手らは「能高団」を指導しながら対戦し、結果は大毎が22対4で圧勝したが、試合中の大毎に対する先住民族の歓声は遠来の大毎軍を感激させた。

江口は「規律ある運動、整然として勇気ある動作、それを立派に蕃人がやりこなすということを、天下に周知せしめたい」と考え、1923年9月に修学旅行を兼ねた「能高団」の西部遠征を実現した。「能高団」は主に花蓮港農業補習学校の生徒によって編成され、大部分がアミ族であった。選手以外の生徒約60名も応援団として同行した。「能高団」と同行した「オール花蓮港団」は長春丸に乗船し、翌日基隆港に着岸した。「能高団」選手らは霜降の学生服にカーキ色の巻ゲートル、地下足袋といった服装で基隆駅から汽車に乗り込み、雑嚢を肩にして校旗を掲げ、午後台北駅に着いた。

こうした格好に対し新聞は「蕃人とは誰しも思えないくらいである」「文明人に劣らぬ筋骨逞しい少年団」と報道した。「能高団」の西部遠征では台北、台中、台南、高雄、屏東、新竹、基隆などの各地で日本人チームと対戦することになっていた。まず21日に、台北商業と対戦した。この年、全国中等学校野球優勝大会全島予選大会が初めて台湾で実施されていた。台北商業がこの大会で優勝し、台湾代表として甲子園に出場したばかりだった。

試合会場は円山グラウンドである。この対戦は、「珍客能高団を迎えて」と新聞報道され、野球ファン約7000人で球場はふくれあがった。初回表に「能高団」の主将コモドが中右間のフェンスを越えるホームランで2点をリードするが、結局「能高団」は9対5で台北商業に敗れた。

にもかかわらず、場内では大きな声援を受けた。江口は「勝敗は眼中になし」としていたが、遠征は5勝5敗で思ったより成績が良く、さらに対戦するたびに成績が向上した。

台湾総督府は台湾の理蕃事業の成果を、いかにして日本内地に宣伝するかという課題を持っていたが、蕃人といえば首狩りを連想する日本内地に対し、理蕃事業の成果を広く宣伝する機会がなかった。こうした状況の中、江口によって編成された「能高団」に対し、台湾総督府から1925年7月3日、「能高団」の内地観光が正式に決定された。期間は3週間である。内地遠征の15名のメンバーが決められた。日本内地遠征の成績は、3勝4敗1引分であった。「能高団」の内地観光の成果を、江口はこう述べている。

「野球技においてのみならず、講演に音楽に、内地の人々をしてこれでも真の蕃人かと疑はしめる程、最も有効に蕃人自身を以て、台湾蕃族を宣伝し、併せて野球技を思う存分に練磨して来た。アミ族蕃人、否、台湾全蕃族のため気を吐き、その宣伝に、その征戦に一大成功を収めたるアミ族能高団は天下に名を馳せた。選手らは至る所において徹頭徹尾謙遜であった。そして常に勇敢であった。」

「能高団」から「嘉義農林」に引き継がれたバトン

江口によるアミ族野球チーム「能高団」の活躍は、その後の台湾野球に大きな影響を及ぼすことになる。その頃、嘉義農林野球部を指導していた近藤兵太郎は、嘉義公園グラウンドで行われた平安中との交流試合で、日本人に混じって活躍するアミ族の選手を見てつぶやいたと言われる。

「見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。我々には大きな可能性がある」

江口が育てた「能高団」の精神は、やがて嘉義農林野球部の中で花開くことになるのである。

「能高団」の生みの親であり、育ての親でもあった江口良三郎は、花蓮港の完成を見ることなく帰国した翌年、1926年12月25日に急逝した。

1931年、江口の没後5周年忌に八田技師が烏山頭ダムで使用した大型土木機械が花蓮港に持ち込まれ、大規模な工事が開始された。39年には大型船が横付けできる待望の港が竣工した。花蓮の人々は、江口の花蓮に対する貢献を忘れないために記念碑を建て、「江口庁長頌徳」と刻んだ。現在は「江口良三郎記念公園」を創設し、港が見えるようにと記念碑を移設した。

江口は、まさに花蓮を愛した日本人であり、「花蓮築港の父」と呼ばれるに相応しい日本人であった。

江口良三郎の記念碑(筆者撮影)
江口良三郎の記念碑(筆者撮影)

バナー写真=TAKUCHIH / PIXTA

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