沖縄に広がる「台湾に学べ」——台湾展・島嶼音楽祭に見る日台交流の新しい姿

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「台湾に学ばなくては」。沖縄で最近、よく耳にする言葉だ。沖縄は2022年、日本復帰50年を迎える。文化の「日本化」が進む中で、伝統文化を守ろうという機運が高まっている。参考になるのが、島の文化を大切にする隣人、台湾なのである。今秋、沖縄県立博物館・美術館で「台湾展 黒潮でつながる隣(とぅない)ジマ」が開かれ、台湾と沖縄の文化交流イベント「島嶼音楽季(音楽祭)」の開催も重なった。内なる文化の見直しで先を行く台湾に学ぼうとする沖縄の姿から、日台交流の未来が見えてくる。

台湾・沖縄・日本の関係史を明快に解説した「台湾展」

2019年末、心待ちにしていた郵便物が届いた。沖縄県立博物館・美術館で9月6日から11月4日まで開かれた「台湾展」の図録(非売品)。会期に間に合わなかったのは残念だが、それだけ手をかけたのだろう。台湾と沖縄・日本の歴史が時代を追って関連付けられ、最後に展示資料一覧の写真が付く。日本語・中国語の併記には、日台で読んでほしいという思いがにじむ。序章「台湾の沖縄関係資料について」で、館長の田名真之が『隋書』の「琉求伝」に触れて「『琉求』は沖縄か台湾か、古くから論争があり、台湾説が有力と思われるが決着は付いていない」と指摘する。論争の行方はともかく、台湾と沖縄が昔から近い存在だったことは間違いない。

図録をめくりながら、展示の記憶がよみがえってきた。会場に入ると、まず狙いを説明した文章が目に入る。「世界がますます狭くなり、多様な言語、多様な文化、多様な価値観が存在する現代社会。その中にあって、昔から交流の深い隣人の本当の姿をまずは知ることから始めてみませんか。台湾は、黒潮でつながっている『隣のシマ』なのですから」

入場者が見入っていたのは、横幅16メートルの「台湾・沖縄・日本関連略年表」だった。それを見ると、17世紀初頭に薩摩が琉球に侵攻したころ、台湾ではオランダの支配が始まっていたことが分かる。そして日本の明治維新後、台湾出兵のきっかけは、宮古島の船が遭難して台湾に漂着し、乗組員が殺された牡丹社事件がきっかけだった。その後、琉球王国は解体されて沖縄県として日本に編入され、台湾は日清戦争後に日本の植民地になり、沖縄から渡る人も増えていく。太平洋戦争では沖縄戦のあと日本が降伏し、沖縄は米軍統治下に入り、台湾には国民党軍がやってきた……。私は大学で日本の植民地史を学び、新聞記者として沖縄や台湾の取材を続けてきたが、台湾・沖縄・日本の関係史をここまで分かりやすく図解した年表を見たことがない。

最後のコーナー「沖縄の湾生」にも感心した。「湾生」というのは戦前、日本統治下の台湾に渡った官吏、会社員、商人、漁民らの子どもとして現地で生まれ育った日本人のことだ。その人々が台湾のことを語るビデオが流れていた。例えば1927年に台中で生まれた川平朝清は、日本が戦争に敗れる1945年まで台湾に住み、戦後は沖縄へ。沖縄放送協会初代会長、昭和女子大学教授などを務めた。タレントのジョン・カビラ、川平慈英の父親でもある。日本の植民地だった台湾では「支配者側」、それが沖縄に戻ったら「被支配者」。初めて差別の構造や台湾人の気持ちが分かり、「いい教訓だった」と振り返る。今度の台湾展については「沖縄の人も沖縄一点主義にならずに、やっと台湾に気が付いてくれたかという気持ちでいっぱいです」。

生存者のビデオ証言で締めくくることで、展示「物」が証言「者」にリレーされて現在につながったかのようだった。この展示を企画した学芸員の久部良和子は「歴史の記録の最後に、記憶を置こうと思った」と語る。「川平さんの証言を聴くと、台湾も沖縄も歴史に翻弄されてきたことが分かる。日本が一流で、沖縄は二流、台湾は三流といった差別感を払拭することが出発点でしょう。今はむしろ、台湾の方が進んでいます。台湾が元気なのはなぜかと考えると、言葉と文化。台湾語を守り、先住民族の文化も大事にしている。台湾人だという意識、自信がエネルギーになっている。台湾展には、もっと台湾から学ぶべきだというメッセージを込めたつもりです」

久部良は琉球大学3年のとき、教授に連れられて初めて台湾に行った。「琉球史をやっていた自分がこんなに近い台湾のことを知らなかったことに衝撃を受けた」という。その後、台湾大学に留学し、文化人類学を学ぶ。「原住民博物館」の立ち上げなどに関わったあと、沖縄に戻って県公文書館の専門員になった。国立劇場おきなわを経て県立博物館・美術館に移って3年目、2020年春に定年を迎える。その直前にライフワークの集大成と言える台湾展を無事に終えたことになる。

久部良和子氏(筆者撮影)
久部良和子氏(筆者撮影)

台湾・沖縄で進む新しい文化交流の形

台湾展と会期が重なった「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」は、2018年に台湾で行われた5回目の模様をすでに報告した。Hは花蓮、Oは沖縄、Tは台東の頭文字で、台湾東部と沖縄の文化交流イベントとしてすっかり定着した。6回目は沖縄の番で、2019年9月19日から27日まで開かれた。台湾と沖縄で1年ごとに交互開催という試みもユニークだが、音楽を入口にして生活文化まるごと交流へと広げ、深めていく活動が軌道に乗った感がある。「隣人の本当の姿を知ろう」と呼び掛ける台湾展に通じる姿勢と言えるだろう。

2019年9月23日、沖縄県那覇市で開催された「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」のフィナーレ(筆者撮影)
2019年9月23日、沖縄県那覇市で開催された「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」の「島嶼音楽会」フィナーレ(筆者撮影)

台湾と沖縄から集った「音楽人ワークショップ」「島嶼音楽会」のあと、「地域訪問と文化体験」が開催された。沖縄県工芸振興センターを訪ねて紅型などの製作過程を見学したり、八重瀬町の具志頭歴史民俗資料館で旧石器時代の人骨化石「港川人」の発見までの経緯を説明してもらったり。「港川人はどこからやってきたの?」のコーナーでは、「2万年前、3万年前から、太平洋沿岸の地域で人々の行き来があったのかもしれない」という説明に、台湾と沖縄の近さを改めて感じた人が多かったようだ。7月には「3万年前の航海」再現を目指した丸木舟が、台湾東海岸から200キロを超える距離を航行して与那国島に漕ぎ付くことに成功したばかり。「隣人を知ろう」として、自らのルーツを考えることにつながるのが文化交流の面白さでもある。

島嶼音楽季の関連企画「島嶼工芸展」には、台東県の石山集落が伝統を復活させたアミ族の「月桃織」や、花蓮県のガヴァラン族の「バナナ織」などが展示されていた。島嶼音楽季を主催する「国立台東生活美学館」の李吉崇館長は、同じ建物内で開かれている台湾展を見学したあと、「年表を見て、台湾と沖縄がこんなに密接な関係があったのかと改めて驚くとともに、私たちがやってきた島嶼音楽季は間違いではなかったと確信した」とうれしそうだった。「交互に続ける基礎はできた。花蓮・台東は政府中心に民間を引っ張る形で官民一緒に議論、実行する組織ができているが、沖縄は民間中心。民間の力がしっかりしていれば、政府はサポートすればいいだけ。沖縄がそういう方向になって、交流が深まっていけば」と期待を込めた。

沖縄側のキュレーターで音楽プロデューサーの伊禮武志によれば、沖縄側行政の協力は、まだ台湾とバランスが取れていない。民間も力があるとは言いがたい。伊禮たちは沖縄で7月、民間でよりスムーズに継続した交流をし、アジア・島嶼地域の懸け橋となり、国際的なネットワークの構築を図るための「島嶼交流ネットワーク準備室」(仮称)の立ち上げに向けた説明会を開いた。「まずはネットワークをつくり、台湾に頼っている現状を変えていきたい」。そう語る伊禮は「一番近い外国だから」と台湾に通い始め、沖縄の文化を紹介するうちに現地に移住するまでになった。「台湾の特に東海岸は第二の故郷。人々がおおらかで昔の沖縄のような気がします」

伊禮武志氏(筆者撮影)
伊禮武志氏(筆者撮影)

島嶼音楽季に5回目から参加している沖縄のジャズサックス奏者、こはもと正たちは10月26日、南城市の野外ジャズ・フェスティバル「Jazz in Nanjo」と「宜野座村祭り」に台湾からブヌン族の母娘6人グループ「小芳家族」を招いた。1年前の島嶼音楽季で歌声を聴いて「ジャズっぽい。沖縄の人にも聴かせたい」と感動したからだ。宜野座の小学校や中学校の合唱コンクールにも参加した。12月14日には、台東市内で「Okinawa Night in 鐵花村」が開かれた。こはもとや、島嶼音楽季に2年連続で参加した沖縄民謡の仲村奈月らが参加。伊禮が仕掛けた「ミニ島嶼音楽季」で、パイワン族の集落訪問なども島嶼交流ネットワーク準備室の活動として実施された。

こはもと正氏(筆者撮影)
こはもと正氏(筆者撮影)

行ったり来たり。2020年の島嶼音楽季は台湾の番だが、双方で進む「島嶼プラットホーム」構築の動きを足掛かりに、沖縄でも何らかのイベントを催す方向だ。

明らかに新しい文化交流の形が、台湾・沖縄に着々とできあがりつつある。

バナー写真=「台湾展 黒潮でつながる隣(とぅない)ジマ」で横幅16メートルの「台湾・沖縄・日本関連略年表」に見入る入場者(沖縄県立博物館・美術館提供)

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