二・二八事件と沖縄人―被害認定の厚い壁

社会 歴史

1947年2月28日、台湾を日本から接収した国民党政権が、反乱鎮圧を口実に、台湾全土で多数の民衆を殺害した「二・二八事件」。数万人とされる犠牲者の中で、台湾に残っていた沖縄県関係者が含まれていた可能性が高いことはこれまでも指摘されているが、その認定にはなお厚い壁がある。

数万人が犠牲になったとも言われる台湾の二・二八事件では、これまでに沖縄県関係者1人を含む日本人2人など外国人3人が犠牲者として認定を受け、台湾政府から賠償金の支払いも行われた。その一方で、認定を求めた申請を却下され、納得のいかない思いを拭い去ることができない「犠牲者」の遺族が沖縄にいる。2020年の2月28日で事件発生から73年。新証拠を見つけだすことが日に日に困難となる中、家族の死と事件の関連を証明する客観的な資料を探して遺族は苦しんでいる。

石底加彌(いしそこ・かね)さん(1908年生)の墓は、沖縄本島南部に位置する糸満市の高台にある。2019年5月、三女の具志堅美智恵さん(78)=沖縄県豊見城市=に案内してもらった。骨壺は、胸の前にちょうど収まるほどの大きさ。蓋を取ると、石がいくつか入っている。具志堅さんは「お骨がないから、台湾と与那国島で取ってきた石を入れてあるんです」と言った。

石底加彌さんの墓の前で骨壺を手にする三女の具志堅美智恵さん。石がのぞいている=2019年5月28日、沖縄県糸満市(筆者撮影)
石底加彌さんの墓の前で骨壺を手にする三女の具志堅美智恵さん。石がのぞいている=2019年5月28日、沖縄県糸満市(筆者撮影)

与那国島出身で行方不明になった人々

日本で最も台湾に近い与那国島で、石底さんは生まれた。与那国島は、台湾との距離は最短で111キロしかなく、石底さんは日本統治期に台湾で漁師として働いた。終戦によって日本統治が終わった後は国民党政権によって留用され、台湾にとどまった。その名簿によると、高雄港務局台北弁事処で土木技手を務めたとされ、住まいは台北市京町(現在の台北市中正区博愛路の北門付近)である。

石底さんの名前は、国史館台湾文獻館所蔵の資料にも見つけることができる。日本統治期の台湾で働いた経験のある沖縄の漁民たちが組織した琉球漁民団の責任者であった。1946年11月4日付の文書によると、琉球漁民団の事務所は南方澳(現宜蘭県)に置かれており、そこが石底さん宅となっていた。南方澳は台湾有数の港町であり、台湾の中で最も与那国島と近い地点でもある。

二・二八事件が発生した当時、台湾と沖縄を結ぶ海には国境が引かれていたが、台湾からの引き揚げやいわゆる「密貿易」、漁業、密航などで人々の往来はたやすく、海で働く人たちであれば、台湾に複数の立ち回り先を持っていても不思議ではない。

石底さんは1947年2月下旬のある夜、与那国島の自宅を出ると、島南部の比川地区から船で台湾へ向かった。近所に住んでいた仲嵩實(なかたけ・みのる)さん(1917年生)も一緒に出掛け、二人ともそのまま行方不明になった。沖縄と台湾の交流史に詳しい又吉盛清沖縄大学客員教授の調査によると、二・二八事件に巻き込まれ、基隆で亡くなったというのである。

石底さんの遠縁で、生家が近所にある崎原のりさん(92)=那覇市=によると、石底さんは台湾から引き揚げてきた後、崎原さん宅に身を寄せていた。そこへ仲嵩さんが「早く行こう」と誘いに訪れ、二人して出かけていった。天気が良くなかったため、船を出すのを急いでいたという。崎原さんはふたりの姿を目にしてはいないが、話し声や物音でそう分かった。その後、「台湾で事件があって亡くなった、だれだれがどうしたこうしたって、島で噂が出たんです」(崎原さん)。

仲嵩さんの長女、徳田ハツ子さん(82)=那覇市=は崎原さんとは10歳違いで、事件当時、9歳。近所の人から「あんたのお父さんは台湾で亡くなった」と聞かされたという。行方不明になったのだと信じていた徳田さんは「なんで私のお父さんが死ぬの?」と反発したが、「カネという人も亡くなったよ」と畳みかけられた。「カネ」とは石底さんのことだと考えられる。その後、集落の外れにある墓地に近いシキハマと呼ばれる海辺で弔いの儀式を行った。

大工に頼んで作らせた木の容器に小さなにぎり飯と塩、生きたヒヨコを乗せて海に流したのだ。参列していたお年寄りが「台湾に行けよー」とか、「ヒリヨー、ヒリヨー、ヒリヨー」と言っていたのを徳田さんは覚えている。「ヒリヨー」とは与那国の言葉で「行けよー」という意味だという。

沖縄独特の黒い線香や黄色い紙銭で供養を行う遺族ら=2018年3月1日、台湾基隆市(筆者撮影)
沖縄独特の黒い線香や黄色い紙銭で供養を行う遺族ら=2018年3月1日、台湾基隆市(筆者撮影)

認定された人々との違い

二・二八事件を巡っては、2016年2月に初めて外国人が犠牲者として認定されている。鹿児島県与論町出身の青山惠先さん(事件当時38)である。その年の11月、具志堅さんや徳田さんらは石底加彌さんと仲嵩實さんを犠牲者として認めるよう申請したが、2017年7月に却下された。不服申し立ても2018年3月に却下された。

却下の根拠とされたのは死亡届と死亡診断書である。そこには次のように書かれていた。

【石底加彌さん】
死亡日時:1949年3月28日午前4時
死亡場所:自宅(与那国町)
直接の死因:マラリア
死亡診断が行われた日:1961年10月31日
与那国町役場が受理した年月日:1961年11月13日

【仲嵩實さん】
死亡日時:1949年3月28日午前3時
死亡場所:自宅(与那国町)
直接の死因:マラリア
死亡診断が行われた日:記載なし
与那国町役場が受理した年月日:1958年7月18日

石底加彌さんの死亡診断書。上の欄にある死亡年月日と、左斜め下の診断年月日との間には12年間の開きがある(遺族提供、画像の加工は筆者による)
石底加彌さんの死亡診断書。上の欄にある死亡年月日と、左斜め下の診断年月日との間には12年間の開きがある(遺族提供、画像の加工は筆者による)

亡くなってから受理されるまで、石底さんの場合は12年、仲嵩さんの場合は9年がそれぞれ経過している。石底さんの死亡診断は死後12年を経ており、仲嵩さんに至ってはいつ診断が行われたのか不明である。どのような経緯でこのような死亡届が作成されたのか。前出の崎原のりさんは「(行方不明になってから)あまりにも長かったもんで、失踪届けは出さないといけないということでやったんじゃないですかね」と推測する。ここでいう「失踪届け」とは「死亡届」のことだ。

石底加彌さんと仲嵩實さんについて話す崎原のりさん=2019年5月28日、沖縄県那覇市(筆者撮影)
石底加彌さんと仲嵩實さんについて話す崎原のりさん=2019年5月28日、沖縄県那覇市(筆者撮影)

石底さんと仲嵩さんが犠牲者かどうかを判断する根拠となったのは、こうした事情を抱えた文書なのである。死因の「マラリア」はあくまで便宜的に記入された可能性が高い。そして、犠牲者として認定された青山さんの死亡届は出されていなかった。

巻き込まれた沖縄出身者

長くタブーとされてきた二・二八事件が、台湾の外で注目を浴びることになるのは1989年公開の台湾映画「悲情城市」(侯孝賢監督)による。その後、1995年2月に李登輝総統(当時)による公式謝罪があり、同年4月には事件の真相究明と犠牲者への賠償(補償)を定めた「二二八事件処理及賠償条例」が定められる。石底さんと仲嵩さんの遺族も同法に基づいて認定・賠償を求めてきた。

では、沖縄ではこの事件はどのように認知されてきたのか。

発生からそう遠くない時期に発行されていた新聞をめくってみよう。石底さんや仲嵩さんの出身地、与那国島を含む八重山地方で発行の新聞「海南時報」は、発生から2週間後の1947年3月14日付で次のように伝えた。

「物資問題にからみ、台湾北方台北方面に端を発した国民軍と島民との争いは、去る7日、3000ないし4000の死傷者を出したが、長官に対する島民陳情が解答なされなかったため、4日のちの10日、さらに一万人の死傷者を塁出させた。それに対し、国民軍としては11日、台湾全島に戒厳令を敷き、鉄道、逓信、放送を停止せしめた」

見出しは「台湾に暴動」である。今でこそ二二八事件という呼び名が定着しているが、当時としては「暴動」と呼ぶほかなかったのであろう。

この記事が出た4日後、沖縄出身者が二・二八事件に巻き込まれかねない状況に陥っていたことを示す記事が載った(3月17日付)。「暴動は、今や少数残留沖縄民の引揚げを余儀なくさせ、彼等は漁具を棄てアタフタ逃げ帰った」というのである。南方澳から石垣に入港した漁船の乗組員は取材に対して「私たちの船主も、状況が悪いから逃げ帰るよう話しておりましたので、13日蘇澳を出て、石垣に向かったのです。私たちの船のほか、40隻くらいは引き揚げをいたしました」と語ったという。

ただ、沖縄出身者が事件に巻き込まれたとする報告がまとまるには2007年2月まで待つことになる。又吉氏が聞き取りなどを元にまとめた犠牲者のリストに仲嵩さんと石底さん、青山さんの名前が初めて登場した。事件発生から60年が過ぎていた。

二・二八事件という言葉が人口に膾炙し、犠牲者の認定制度が台湾の内外で知られている現在の感覚からすると、石底さんと仲嵩さんの遺族はなぜ死亡届を出したのかという疑問が沸く。しかし、二人の死亡届が受理された時期は、その真相の解明を求める声を上げることは困難な状況にあった。ただ、作成の経緯がどうであれ、公文書として客観性を持つ死亡届が遺族の前に立ちふさがっている。

二・二八事件の犠牲者認定制度を、韓国済州で起きた4・3事件や沖縄戦と比較しながら研究している済州大学の高誠晩教授は、台湾の犠牲者救済について「これまで本省人(中国国民党が台湾を統治する前から台湾にいた漢人)を犠牲者としてきたが、青山さんら(が犠牲者として認定されたこと)はこれを乗り越えた。過去の歴史を清算していくうえで素晴らしい成果」と分析し、犠牲者認定の範囲が国境や民族を越えて石底さんと仲嵩さんにも及ぶのか注視している。

具志堅さんは言う。「墓を開けて、中の壺に石しか入っていないよっていうのを台湾の人に見せたいなっていうのがあるんです」。仲嵩實さんの孫、當間ちえみ(63)=那覇市=も「(犠牲者の認定申請を)出した時から(墓に遺骨が入っていない状況を台湾から見に)『来てください』っていうことを言い続けている」と口をそろえる。

自宅で病死したとされているにもかかわらず、墓にはお骨がなく、代わりに石が入っているのを確認してほしいというこの願いが叶う日は来るのだろうか。

バナー写真=二・二八事件の記念式典で仲嵩實さんの遺影を手に献花する徳田ハツ子さん(左)。具志堅美智恵さん(右)は石底加彌さんの遺影とともに臨んだ=2017年2月28日、台湾台北市(筆者撮影)

参考文献

  • 河原功監修・編集「台湾引揚・留用記録」第8巻(1998年/ゆまに書房)
  • 国史館台湾文獻館所蔵「蘇澳鎮漁業生産合作社陳請琉球漁民團加入捕魚生産」(資料番号:00306520030007)
  • 「海南時報」(一部の表記を改めて引用した)
  • 高誠晩「〈犠牲者〉のポリティクス: 済州4・3/沖縄/台湾2・28 歴史清算をめぐる苦悩」(2017年/京都大学学術出版会)

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