屏東の池上文庫―日台の絆を紡ぎ育む小さな日本語図書館

社会 文化 言語 歴史 国際交流

台湾南部の屏東県竹田鄉に「アジア最南端の日本語図書館」がある。池上一郎博士文庫という日本人の名を冠した小さな木造の図書館には、2万冊近い日本語書籍が所蔵され、実際に貸し出しも行なわれている。なぜ台湾の地に日本語書籍のみを扱う図書館が存在するのか?池上氏をめぐって日本と台湾を結ぶ交流秘話が語り継がれる一方、利用者減に直面する文庫の将来は大きな曲がり角を迎えている。

池上一郎博士文庫開館の経緯

台湾鉄道の竹田駅を下車すると、日本統治時代の1939(昭和14)年に竣工(しゅんこう)した木造駅舎が目に入る。その傍らに建つ池上一郎博士文庫は、当時の駅舎の貨物倉庫を改造し、2001年1月16日に図書館として開館した。入口には「亜細亜最南端の日文図書館」の看板が掲げられ、中に入ると日本語の古典や文学、歴史書、さらには「こちら葛飾区亀有公園前派出所」といった漫画に至るまでさまざまなジャンルの書籍が所蔵されている。

図書館の名前になっている池上一郎氏は、1911(明治44)年1月16日に東京で生まれ、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業し医師となったエリート中のエリートである。戦時中の1943(昭和18)年、軍医として竹田に赴任し、野戦病院院長を務めていた。

竹田に赴任していた際の池上氏のエピソードの数々は今も地元で伝えられている。自転車に乗ることができなかった池上氏は、当地で自転車の練習をした。乗ることができるようになると、自転車に軍刀を差して頻繁に村の中を巡回し、地元民と積極的に交流を深めた。子供達が池上氏に敬礼をすると、丁寧に返礼していたという。少佐の位にあっても驕らず、誰に対しても誠実であった池上氏は地元民から敬愛された。

若かりし頃の池上一郎博士(筆者撮影)
若かりし頃の池上一郎博士(筆者撮影)

また、当時、台湾では伝染病のマラリアが流行していた。マラリアの治療薬は高価で数も限られており庶民が手に入れることは難しかった。しかし、池上氏は感染した地元住民に治療薬を提供し、お金も一切受け取らなかったという。軍人にとどまらず、地元住民に対しても手厚く医療を施していた。

戦後、日本に引き揚げた後は日本へやって来る台湾人留学生の支援をするなど台湾との縁は生涯にわたって続いた。現在、池上一郎博士文庫の理事長を務める劉耀祖氏もまた、自身が早稲田大学に留学していた際、池上氏が主催する台湾人留学生を招いた食事会に参加したり、劉氏が東京で結婚式を挙げた際には池上氏が夫妻で駆けつけて祝福したりするなど、さまざまな形でお世話になった池上氏への恩を今も忘れていないという。

池上氏が竹田で過ごした時間はわずかだったが、「第二の故郷」への思いは深く、生前、自身の蔵書5000冊を竹田に寄贈した。そして前述の劉氏や地元の人々は池上氏に対する感謝の念を形にしようと企図し、2001年1月16日、池上氏の誕生日に合わせて文庫を開設した。高齢のため池上氏は開館セレモニーに出席することはかなわなかったが、劉氏によると当日の様子をビデオで見た池上氏はうれしそうにしていたという。池上氏は文庫開館の数カ月後、2001年に他界している。

池上一郎博士文庫(筆者撮影)
池上一郎博士文庫(筆者撮影)

台湾の戦後史から考える池上一郎博士文庫の意味合い

台湾には日本統治時代に日本語教育を受けた「日本語世代」の人々がいる。幼少期から家庭あるいは学校で日本語を学び、今も日本語を常用している。しかし、彼らは戦後の中華民国・国民党体制下の台湾においては、日本語の使用が禁止され、新たな言語として「國語」を学び、使用することを強いられた。長く日本語の使用が許されなかった台湾の戦後史を鑑みると、日本語世代の人々が制限なく日本語に触れられるようになった民主化後の台湾で、日本語書籍への需要が大きかったことは想像に難くない。

したがって池上一郎博士文庫は「日本語」を欲していた人々に長く待ち望まれていた場だったと言える。

池上一郎博士文庫の館内(筆者撮影)
池上一郎博士文庫の館内(筆者撮影)

開館時から館長を務めている曾貴珍氏によると、開館当初は文庫近隣に住む地元の日本語世代にとどまらず、台湾南部に住む人々を中心にバイクや鉄道で来館する人々でにぎわっていた。そして来館者同士が日本語での会話を楽しむ憩いの場としての役割も担っていたそうだ。

池上一郎博士文庫で館長を務める曾貴珍氏(筆者撮影)
池上一郎博士文庫で館長を務める曾貴珍氏(筆者撮影)

図書館から日台交流の場へ

池上一郎博士文庫では、毎年、開館日の1月16日に合わせて式典が開催されている。開館19周年を祝う今年の式典は1月11日に執り行なわれた。 

池上一郎博士文庫で理事長を務める劉耀祖氏(筆者撮影)
池上一郎博士文庫で理事長を務める劉耀祖氏(筆者撮影)

式典では王陽宗理事ら文庫関係者から文庫の現状が報告されたほか、公益財団法人日本台湾交流協会高雄事務所所長の加藤英次氏や長年、文庫の取材を続ける台湾在住作家の片倉佳史氏らが挨拶し、開館19周年を祝った。また、地元に住む音楽講師の林和珍氏の指揮の下、『一月一日』や『台湾楽しや』など日本語歌謡を参加者全員で合唱した。林氏もまた日本語世代であり、以前は頻繁にバイクを運転し、文庫に足しげく通っていたという。 

当日は日本語世代の地元住民や台湾在住日本人、さらにはこの日のために日本から駆け付けた人々など100名を超す人々が集った。また地元の国立屏東大学日本語学科の学生など日本語を学ぶ高校生や大学生がボランティアスタッフとして運営にあたり、老若男女の日本人と台湾人の交流の場となっていた。式典後、前述の劉氏は「日本人と台湾人が家に帰って来たような表情をしており、日本時代に返ったようだ」と日本と台湾の時代を越えたつながりを感慨深い様子で語っていた。

池上一郎博士文庫の開館19周年を祝う式典(筆者撮影)
池上一郎博士文庫の開館19周年を祝う式典(筆者撮影)

池上文庫の今後を考える

池上一郎博士文庫は来年、開館20周年を迎える。言い換えれば、日本語世代の人々も20年分、年を取ったことになる。当然、この間に鬼籍に入った人々も多く、台湾の日本語世代は年々減少している。前述の曾館長によると、近年、日本人観光客など訪問者は増えているが、図書館利用者は年々、少なくなっており、実際に書籍を借りに来る人はほとんどいないという。今後の展望について曾館長は「どこかに委託したり、建物を返却したりすることなく、日本人と台湾人の有志で協力して残していきたい」と話すが、図書館としての機能を維持していくには難しい現実がある。

また文庫の日本側理事を務める住安克人氏も「文庫を今の場所に永続的に残していきたい」と語っている。図書館利用者の減少という課題に対し、文庫を存続していくための方策が日台双方の関係者によって思案されている。

池上氏がこの世を去ってまもなく20年の月日がたとうとしている。今や、池上氏がなぜ、台湾・竹田に対して特別な思いを抱き、日本語書籍を寄贈しようと考えたのか、当人から直接伺うことはできない。しかし、池上氏の名を冠した小さな図書館は開館以来、着実に日台交流の友好拠点として確立されてきた。

台湾の日本世代の減少、すなわち図書館利用者の減少という現実を前に、図書館から日台交流を紡ぎ育む現場へと変化してきた池上一郎博士文庫をいかにして残していくか、関係者の苦悩とたゆまぬ努力は続いている。池上氏の業績に想像を巡らせ、今後の在り方を考えていかなければならない。

日台双方のボランティアスタッフ(筆者撮影)
ボランティアスタッフとして式典の運営に当たった日本語を学ぶ台湾人学生(筆者撮影)

【池上一郎博士文庫】

  • <住所>屏東縣竹田鄉履豐村豐明路23號
  • <開館日>
    平日   8:30~11:30・14:00~16:30
    土日   8:30~11:30
    休館日 月曜日及び祝日
  • 公式FB https://www.facebook.com/ikegamibunko

バナー写真=池上一郎博士文庫開館19周年を祝う式典で関係者らが記念撮影を行う(筆者撮影)

台湾 湾生 日本統治時代 池上一郎 池上一郎博士文庫