台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「多芸はインプット量の賜物」映像プロデューサー Nobu / 粟田経弘

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Nobuこと粟田経弘(のぶひろ)の引出しは実に多岐にわたっている。台湾の撮影現場では、流ちょうな華語(台湾中国語)を操りながら、プロデューサー、カメラマン、キャスティング、ラインプロデューサー、編集、美術、時には俳優とその役割を変幻させている。そればかりではない。企業コンサルティング、ソフトウェアの開発、コンサート、イベントや出版の企画と、その守備範囲はさらに広い。Nobuのこの多芸多才の源はいったいどこにあるのだろう。

粟田 経弘 AWATA Nobu

1982年東京都生まれ。映像プロデューサー。19歳で渡米し音響工学を修め、米国でレコーディング、イベント製作に従事。2006年に台湾に拠点を移し、台湾科技大学で情報工学を学ぶ傍ら、映像制作業務も開始。台湾映画「セデック・バレ」や「KANO」等の撮影にも関与し、2012年にPassages Co., Ltd.を設立。 2014年には北海道が舞台の日台合作の短編映画「My little guidebook」を(2016年にはその続編も)プロデュース。企業コンサルティングやソフトウェア開発、イベントや書籍出版も手掛けるマルチクリエーターでもある。

実は小学生時代からその片りんを示していた。Nobuはサッカー、ミニバスケット、アイスホッケーから乗馬まで、興味を持ったものには一通り手を出した。飽きっぽい半面、好きなものにはとことんのめり込んだ。中学1年から2年にかけては、両親を説得して福島に「牧場留学」もした。乗馬熱が高じた結果だった。馬の世話をしながら、片道10キロの道のりを自転車で通学する日々だった。

高校では器械体操部とファストフード店でのアルバイトを両立させていたが、腰のけがで激しい運動ができなくなってしまった。その後は、動物公園、ガソリンスタンド、イタリアンのデリバリー、家庭教師とさまざまなアルバイトに精を出した。これには家庭の事情もあった。高校1年の途中から一人暮らしを始め、生活の糧を稼がなければならなかったのだ。高校の授業には魅力を感じなかったが、学校を抜け出しては、近くの国立大学や時には都内の私立大学まで遠征して、大学の授業をこっそりと聴講するのが楽しみだった。かなり早熟な少年だった。

レコーディングエンジニア目指して渡米

高校を卒業すると大学には進学せずに、家庭教師先の父親が経営していた建築会社で設計図を引いたり、現場の施工を手伝ったりすることを選ぶ。

Nobuは高校時代からJ-POPや洋楽のコピーバンドを組んでいた。キーボードからギター、ベースまで何でもこなした。建築の現場には音楽が無いということが物足りなかった。どうせ技術を身に付けるなら、音楽と関われるレコーディングエンジニアになりたい。こうした思いが日に日に募っていった。そんな時たまたま出会った元SONYのレコーディングエンジニアの知人に相談すると、日本より米国の方が音楽の環境が良く、より良い技術が身に付くとの助言を受けた。いったん決めたら行動は早い。まずは下見のため10日間だけニューヨークに飛んだ。その日は、あの2001年9月11日だった。

「ニューヨークに着いて数時間後に、同時多発テロが発生しました。市内はパニックになっている人、冷静に行動している人が混じり合い、まるで映画のワンシーンに迷い込んでしまったような感覚でした」

不思議と恐怖感は無かった。それよりも、日本を離れ地球の裏側で新たな挑戦をしてみたいとの思いが勝った。時代が変動する空気を体感したいとの思いもあった。下見を終えていったん帰国したNobuは、その年のクリスマスイブに再びニューヨークに舞い戻った。語学学校には3カ月間通っただけで、音響工学の専門学校に飛び込んだ。教科書には知らない単語ばかり並んでいた。悪戦苦闘しながらも、数カ月後には授業についていけるようになった。

Nobu/粟田経弘氏提供
Nobu/粟田経弘氏提供

Studio b.p.m.でエンジニアを務める傍ら、施工現場でのかつての経験を生かし、設備屋や舞台の美術関係のアルバイトで食いつないだ。アーティストの村上隆さんのニューヨーク工房kaikai kikiのアシスタント、ジャズサックス奏者ジャッキー・マクレーン・バンドのピアニストのスタジオの改装、10万人野外コンサートの音響技師など、相変わらず興味を持ったことには何でも手を出した。

「面白そうだったらやってみる。自分に合わなかったり、学べるものがなかったりすれば続ける必要はない。こうして自分の経験値を上げていくことが大事だと思うのです。インプットの量が最終的にアウトプットの量に比例するのです」

結局、ニューヨークでは2004年末まで3年間暮らした。Nobuは一度日本に帰国し、資金を貯めてから再び米国の大学に進学するつもりでいたが、大学の学費が大幅に上がり、雲行きが怪しくなった。レコーディングの世界もアナログからデジタルに切り替わり、アーティストが自宅で録音するのが時代の趨勢となっていた。これに反比例するように、レコーディング技師の需要は減少の一途をたどっていた。時代が節目を迎えていた。

台湾で映像の世界に踏み出す

Nobuにはニューヨークで出会った台湾人の友人がいた。2005年末にその友人の招きで初めて台湾を訪れた。台北の都市機能やまったりとした空気が心地良く感じられた。経済的に米国に戻る選択が難しければ、台湾で次の挑戦をするのはどうだろうか。デジタル化の波が押し寄せ、アーティストがエンジニアの自分より優れた機材を揃えている昨今、レコーディングの世界では前途が開けないのではないか。従来のSDから大容量のデータ保存が可能なHDへと技術革新も起こり、これからは映像の時代が確実にやってくる。そんな思いから、台湾で新たに映像の世界に踏み出す決断をした。

「レコーディングの仕事は一カ所にこもることになりますが、映像の仕事は世界中のあちこちの現場に飛ぶことができます。常に新しい刺激を求めてきた自分にとっては、むしろそちらの方が向いているかもしれないと思ったのです」

Nobuは2006年1月に台北に拠点を移し、淡江大学で華語を学びながら、台湾の友人に紹介されたプロダクションで映像制作の仕事を始め、そのまま台湾に留まった。2007年からは台湾科技大学で情報工学を学び始めた。映像や音楽のソフトを自分でプラグインできたらという考えからだった。Nobuの引き出しがもう一つ増えた。

この年「Global Lives Project」に参加した。世界各地の10人に24時間密着取材することで、今の地球を表現しようという映像プロジェクトだ。Nobuはプロデューサー兼ディレクターとして4本の作品を撮影し、ニューヨーク映画祭や国連大学で上映された。また前年の2006年には、台湾の人気ロックグループ五月天(Mayday)のミュージックビデオの撮影に、プロダクション・スーパーバイザーとして参加した。ロケ地はヨルダンとチュニジアだった。英語、華語と二つの言語を学んだことで世界が一気に開けた。貧富の格差や人間の純粋さを目の当たりにし、非日常が日常になる面白さが映像の魅力なのだと感じた。

「Global Lives Project」のメンバーとニューヨーク映画祭に参加する(Nobu/粟田経弘氏提供)
「Global Lives Project」のメンバーとニューヨーク映画祭に参加する(Nobu/粟田経弘氏提供)

2008年のテレビバラエティ番組「青木由香の台湾一人観光局」、2009年の映画「セデック・バレ」、2012年の映画「KANO」を始め、2019年の「あすなろ白書」のリメイク版テレビドラマの「愛情白皮書」、「深夜食堂」東京シリーズ・セッション2、安室奈美恵引退ドキュメンタリーに至るまで、日台合作の映像制作の現場には忙しく動き回るNobuの姿があった。

これまで培ってきた語学、音響、美術、建築、情報工学等の様々な知識や技術を駆使し、映像の現場での実績を積み重ねていったNobuは、2014年には満を持して、北海道十勝地方を舞台とした日台合作の短編映画「My little guidebook」をプロデュースした。監督はかつてニューヨークで出会い、2005年に東京のCM撮影の現場で再会した逢坂芳郎だった。2016年には再び逢坂とのコンビで続編の「My little guidebook - ICE」も制作している。

日台合作の短編映画「My little guidebook」と続編の「My little guidebook - ICE」(Nobu/粟田経弘氏提供)
日台合作の短編映画「My little guidebook」と続編の「My little guidebook - ICE」(Nobu/粟田経弘氏提供)

「何をどう作るのか。予算に合わせて時間とコストをどうはめ込むか。コミュニケーションを密にして齟齬(そご)無くどう進めるか。それらをどう可視化するか。実はプロデューサーもコンサルタントもデザイナーも呼び方が変わるだけで、需要と供給のマッチングを見出す点では本質は同じだと思っています」

人と人とのつながりがもたらす化学反応やポジティブなループから優れた作品は生まれると語るNobu。近未来の目標は「国をまたいで世界に通用する映画を作ること」と言い切る。米国や日本を行き来しながら、既にその準備は着々と進められている。数年後にNobuはどんな作品を引っ提げて私たちの前に現れるのだろうか。今からその楽しみは尽きない。

バナー写真=Nobu/粟田経弘氏(本人提供)

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