新国立の「弾む高速トラック」、作ったのはイタリアの職人魂―東京五輪を待つ

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オリンピックは世界最高峰のアスリートたちの競演の場だが、その舞台裏を支えるのは最新テクノロジーである。東京五輪の陸上競技の主舞台、新国立競技場が心臓部の走路に採用したのは、イタリア・モンド社の「高速トラック」。新型コロナウイルス禍に揺れる五輪は延期の可能性も強まってきたが、選手の活躍を待ち続けることに変わりはない。最先端トラックを生み出した企業文化を探りに、フランスとスイスに接するピエモンテ州の町、アルバを訪ねた。

地元愛が育む地方の優良企業

2月14日、州都トリノから普通列車で1時間30分、世界遺産「ピエモンテのブドウ畑の景観」の玄関口・アルバ駅に降り立つと、五輪プロジェクトのマネジャーを務めるアンドレア・ヴァッラウリさんが車で迎えに来ていた。

中世の面影が残る市街地を抜けて5分ほど走ると、ブドウ畑が広がった。アルバ市のあるランゲ地方は、最高級ワイン「バローロ」の産地で知られる。「次回はぜひワイン祭りが開催される4月下旬~5月上旬にお越しください。ここは白トリュフの産地としても有名で、秋には世界中のグルメが押し寄せます」。説明に耳を傾けているうちに、モンド社の本社工場に到着した。

ブドウ畑に囲まれた本社工場
ブドウ畑に囲まれた本社工場

本社ショールームに3代目社長のマウリツィオ・ストロッピアーナさんが姿を現した。「遠路お越しいただき、ありがとうございます。エスプレッソはいかがですか? アルバ名菓のトッローネ(ヌガー)でも食べながら話しましょう」。和気あいあいとインタビューは始まった。

苦労話を聞く前に、まず尋ねたいことがあった。イタリアでは多くの世界的企業、オンリーワン的な優良企業が地方に分散している。同社もそうだ。なぜ商業の中心地ミラノや工業都市トリノといった大都市でなく、人口3万1000人の小都市に居を構えているのか。

「イタリアの家族経営の大きな企業は、大体小さな町に生まれます。そして地元から離れないのが特徴です。地元愛が強く、故郷を自慢に思い、ずっと住み続けたい。この辺りは景色がとてもきれいで、大きな会社の本社がいくつかあります。(多国籍企業のチョコレートメーカー)フェレロ社もそうです」とマウリツィオさんは笑顔で答えた。

北イタリアの人間は、大半の日本人が思い抱く以上によく働く。同社の研究所スタッフも朝8時過ぎには仕事を始め、忙しい時は残業や週末の出勤もいとわない。だが、休む時は徹底して休む。家族や幼友達と大自然の中でワインを飲み、郷土料理に舌鼓を打つ。こうしたメリハリのある生活の中から、斬新な発見や発明が生まれるのかもしれない。

町工場が世界に挑戦

モンドという社名は、マウリツィオさんの祖父である創業者エドモンドに由来する。第2次世界大戦中、警察署で働いていたエドモンドは1948年、長男フェッルッチョ(のちの2代目)と次男エリオ(マウリツィオの父)と自動車のタイヤの修理業を始める。やがて巷で「パッラプンニョ」と呼ばれるペタンクに似た遊びが流行すると、そのゴムボールを作り始めた。

日曜日に近所のパン工房の窯を借りて手作りしたボールを、兄弟たちは自転車に積んで売りに出かけた。50年代に入ると転機が訪れる。フェレロ社がチョコのおまけにゴムボールを付け、その製造をエドモンドに依頼。工作機械を導入し、本格的にゴムの製造に乗り出した。

「1960年代、父と伯父は世界一周の旅に出ました。二人とも発明家で野心家、市場調査が目的でした。米国で3M社が陸上用の全天候トラックを作り始めたことを知り、自分たちも独自のトラックを作ることを思いついたのです」。巨大メーカーに町工場が挑戦状を突き付けたも同然だった。

73年、モンド社は初の海外工場をカナダ・ケベック州のモントリオールに建設。同州の公用語はフランス語であり、フランス文化の影響も受けるアルバ発祥の同社にとっては溶け込みやすかった。76年モントリオール五輪で陸上競技場のトラックのオフィシャルサプライヤーに選出されて以降、今回の東京五輪まで12大会連続で採用されている。

2層構造が生む反発力

モンド社製トラックの断面
モンド社製トラックの断面

モンド社のトラックは何がすごいのか。ウレタン製のトラックが多い中、同社は一貫してゴムにこだわる。アンドレアさんは、その理由に「均一性」と「エコロジー」を挙げた。

ウレタン系舗装材の場合、原液を現場の競技場で配合して、コンクリートのように流し込むので、むらができやすい。これに対して、「われわれのゴムシートは工場内ですべて仕上げます。熟練スタッフが最新の機械を操作して、原料や薬品の配合、厚さや硬さなどの品質を厳しくチェック。カーペットのようにロール状に巻いて競技場に運び、アスファルトの上に敷きます。だから、厚さや硬さが均一なトラックを作ることができます」。環境にも優しく、「われわれのゴムは完全に再利用できます。万一燃えても害はありませんが、ウレタンの場合は有害な煙が発生します」という。

こうした素材を使った2層構造が「高速」の秘密だ。上層部には、弾力性に富む重合体のゴム微粒子を使用し、反発力はウレタン素材の2倍ある。ゴム製のトラックは表面が均一なため、走行中、歩幅をコントロールしやすく、姿勢を調整する必要がない。選手の疲労も軽減する。また、グリップを高めるため表面をモザイク模様にしており、靴裏にピンがない新世代スパイクを使用する選手たちの評判がいい。

下層部は、蜂の巣のように格子状の六角形の小穴が並んだハニカム構造。穴の中に空気が入っており、その空気が押されることで反発力が生まれる。六角形は走行方向に縦長で、着地時の衝撃を和らげるとともに、反発力を推進力に変える。もともと四角形だったが、ロンドン五輪から六角形を採用し、どの方向からの衝撃も吸収するよう進化した。

同社の高速トラックは短距離走やハードル走、跳躍種目、さらにやり投げにおいても効果を発揮する。リオ五輪後のデータでは、国際陸連公認の屋外・屋内世界記録の実に75%が同社のトラックでマークされたものだ。

全ての選手のために

それでも、東京五輪で採用が決まるまでの道のりは厳しかったという。「新国立競技場のトラックに当社の製品が選ばれて、大変光栄です。でも、これまでで一番苦労しました。われわれの性能がどれだけ向上したのか日本人を説得するのは難しく、時間と粘り強さが必要でした」とマウリツィオさん。

最大の課題は日本の夏の猛暑にいかに耐えうるかだった。ウレタンに比べゴムは紫外線にさらされるとひび割れができ、劣化しやすい。日本側が求める高品質を達成するため、同社はリオデジャネイロ五輪の終了直後からプロジェクトに着手。日本で代理販売するクリヤマ(大阪市)の技術者をアルバに招き、共同研究を重ねた。原料の新たな配合に取り組み、従来の2倍の耐候性を持つ最先端トラックの開発に成功した。

さらに新製品の性能を確かめるため、シューズメーカーのアシックスと共同でテストを行い、トップアスリートたちの生の声を集めた。販売・マーケティング部長のフランチェスコ・ボナンノ・ガエターニさんは言う。「研究所の机上の作業だけでトラックを進化させるのは無理。モットーは”We listen. You win”(われわれは耳を傾け、あなたは勝つ)です」

環境保護への取り組みも日本企業などライバルに打ち勝つ決め手となった。「1972年に最初のトラックを作った時には既に、われわれは他のメーカーとは違って水銀の使用を禁じていました。リサイクルやリユースについても、この地が世界遺産に登録されるずっと前から推進しています。こうした当社の姿勢が、明治神宮外苑周辺の自然との調和を目指した隈研吾さんの『杜のスタジアム』のコンセプトに合致したのだと思います」とマウリツィオさんは明かす。

今回の東京五輪でも、世界新記録の量産に期待が寄せられる。だが、モンド社が一番望むのはそこではない。「究極の目標は、出場全選手に自己ベストを出してもらうことです」とフランチェスコさんは言う。

昨今話題のナイキの「厚底シューズ」など特注品が物議を醸している。「市販されていないシューズを使うことは、スポーツ精神に反しています。特別な選手にしか恩恵がないからです。でもわれわれのトラックは違う。全選手に平等です。東京でも皆さんを失望はさせません」。フランチェスコさんの誇らしげな笑顔に「マエストロ」たちの意地と自負が感じ取れた。

新国立競技場のトラック
新国立競技場のトラック

バナー写真:モンド社のスタッフ一同、右端がマウリツィオ・ストロッピアーナ社長(筆者撮影)

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