台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎

歴史 経済・ビジネス

国際的港湾・高雄の発展に寄与した日本人がいた。「浅野セメント」で知られる浅野財閥の創業者、浅野総一郎だ。難工事を成し遂げ、高雄港の礎を築いた浅野総一郎の功績は、その巨大さの割に今日の日本や台湾において十分に知られていない。

浅野セメントを創業

平成20(2008)年7月20日、富山県氷見市薮田の児童公園にて、銅像の除幕式が行われた。台座には「九転十起(きゅうてんじゅうき)の像」と命名されていた。氷見の海を見下ろしている立像は、一代で「浅野財閥」を作り上げた浅野総一郎である。この浅野総一郎こそ、台湾を代表する高雄港の築港を成し遂げた人物であった。

浅野総一郎は嘉永元(1848)年4月13日、富山県氷見郡薮田村にて医者を営む浅野家の長男として出生。幼名を泰次郎といった。若い頃から商売に精を出すも失敗続きで時流に乗れず、逃げるように上京し本郷の下宿屋に身を置く。千葉や横浜まで出掛けて竹皮、薪炭、石炭を商い、生活のめどが立ったのは24歳の時である。

明治8(1875)年転機が訪れる。横浜瓦斯局が製造過程で発生するコークスの処理に困っているのに目を付け、安値で買い付け、官営の深川セメント製作所に売却、さらにコールタールも引き取り、コレラ予防の消毒剤の原料である石炭酸を製造販売して巨万の富を得た。この過程で、抄紙会社(後の王子製紙)への出入りが始まり、同社の設立に関わった渋沢栄一の知遇を得る。

明治13(1880)年に官業の払下げが始まると、浅野はセメント製造に着目し、渋沢の口利きで、明治17(1884)年には深川セメント製作所の払下げが認められ、経営に乗り出した。浅野の狙いは的中し、インフラ整備によるセメントの需要が急増したためセメント会社が潤った。明治26(1893)年には「門司セメント」を新設し、名も総一郎と改めた。それから2年後の明治28(1895)年の日清戦争の結果、日本は台湾本島と澎湖島を版図に入れた。外国航路に進出して、海外から利益を得ようと渋沢のほか安田財閥の安田善次郎による財政的な支援などを得て明治29(1896)年「東洋汽船」を設立すると、欧米の視察に出掛けた。そこで浅野が目にしたのは、大型船が横付けできる港湾設備であった。

欧米視察で港湾の必要性を痛感

特に英国や米国の近代的な港湾施設に驚嘆し、日本における港湾施設の近代化の必要性を痛感して、翌年帰国した。欧米への出発前に「台湾の打狗山(大正9年から高雄)で良質の石灰石を発見」との情報を耳にしていた浅野は、帰国後直ちに打狗山の麓に土地を購入した。将来、台湾でセメント生産を行うための先行投資であった。

翌年の明治31(1898)年には、渋沢、安田の支援で「合資会社浅野セメント」を設立し急成長を遂げるようになる。

1860年頃の打狗湾(筆者提供)
1860年頃の打狗湾(筆者提供)

日本の港湾が艀(はしけ)の利用が不可欠で利便性に欠けるとの思いから、明治41(1908)年、神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出。この事業計画は浅野が5年間の実地調査に基づいて作り上げた画期的で壮大なものだった。埋め立て面積500万平方メートル、延長4.1kmの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども完備した一大工業用地を建設する埋め立て地造成計画である。この埋め立て事業は実に15年もの年月がかかり昭和3(1928)年に完成し、後の人はこの埋め立て地を「浅野埋立」と呼ぶようになる。

一方、台湾では、児玉源太郎総督が後藤新平民政長官を伴って台湾に赴任しており、浅野総一郎は後藤新平に対し、南部開発の必要性を説き、後藤新平も南部開発の中心が打狗港であることを認識する。

台湾の面積は九州の85%ほどだが、海岸線の長さは3分の1程度しかない。従って、港に利用できる湾や入り江が少なく、かつて栄えた台南や鹿港も砂の堆積で港の機能を失い、北部の基隆と南部の打狗ぐらいが港といえば港といえる程度であった。打狗港は打狗山と旗後山の間から入っていくが、隆起珊瑚の岩礁が多い上に、打狗川によって運ばれてくる砂が堆積して浅く、湿地帯が広がり、入港しても横付けできる岸壁はなかった。

埋め立てが必要だが、総督府に財源はなく、民間の投資に頼らざるを得ない状況で総督府は打狗港の開発を官民一体で行うことにした。基本計画を総督府土木局が作り、資金は民間の出資で行うことになり、浅野が埋め立てを行うことにして、縦貫鉄道が台南から打狗まで開通した明治33(1900)年、総督府に打狗港の埋め立て許可願いを提出した。この時以降、浅野は後藤新平と親交を持ち続け、後藤が台湾を去った後も関東を舞台に経済の面で交流を続けた。

港湾整備と埋め立て事業で打狗を工業都市に変える

セメント、石炭、海運等で財をなしていた浅野は、建築中だった和式の豪邸、「紫雲閣」を明治42(1909)年に完成させて家族と共に東京三田に住み始めた。しかし、ぜいたくを嫌う明治天皇の逆鱗(げきりん)に触れたため、仕方なく外国人の迎賓館として利用することにしたという逸話が残っている。この紫雲閣も戦災で焼失し残っていない。浅野御殿と言われる豪華な屋敷に住んでいても、日の出とともに起き、服装は普段着で、従者も多くを従えず一人のことが多かったので面会者は驚いたという。子宝にも恵まれ妻佐久との間に6男7女をもうけている。

紫雲閣(筆者提供)
紫雲閣(筆者提供)

日露戦争が終わって2年後の明治39(1906)年には、総督府に出していた打狗湾埋め立て工事の許可が降りた。浅野58歳の時である。総一郎は打狗湾の埋め立てと並行して打狗山の良質な石灰石を使ってセメントを製造する工場を新設することを考えていた。資金難や物資難もあって工事は難航したが大正元(1911)年に埋め立て工事が完了し、打狗港第一期工事が完了した。この工事によって小規模ながらも船舶を横付けできる港が完成した。第二期の築港工事は、新埠頭の造営と設備の近代化が実施された。この時、新埠頭は5000トン級の船が着岸できるように水深も考慮された。第二期工事は昭和12(1937)年に完成となり、同年、第三期築港工事が着手されているが、戦争のため補強工事と保全に力が注がれたため日本統治時代に完成を見ることはなかった。たが、一連の港湾整備で、高雄の農産物や工業製品が直接船積み出来るようになり、埋め立て地には家々が建って人口が増え、打狗は工業都市として大きく発展した。

1931年、埋め立て後の高雄市(筆者提供)
1931年、埋め立て後の高雄市(筆者提供)

日月潭水力発電所の完成によって、電力の安定供給が実現すると、打狗は台湾を代表する産業都市として、さらに重要な地位を担うこととなっていった。大正3(1913)年打狗港に「打狗運河」が完成すると港内の利便性が向上した。さらに第一次世界大戦が始まると、物資の輸送や戦時特需で浅野の会社が巨大な利益を上げ「浅野財閥」を形成していった。

昭和初期の高雄運河と高雄港(筆者提供)
昭和初期の高雄運河と高雄港(筆者提供)

日本の臨海工業地帯開発の父と呼ばれる

ロシア革命が起きた大正6(1917)年になると、打狗山の良質な石灰岩を原料にする「浅野セメント打狗工場」を新設し、縦貫鉄道と打狗港を利用して、インフラ整備が加速されつつあった台湾全土にセメントを供給し続けた。その結果、やがて台湾におけるセメントの80%を賄うまでになり、台湾の近代化と打狗港の発展にも大きく貢献した。大正9(1920)年9月に「台湾州制」律令第三号により、行政区の廃庁置州が行われ、これまでの12庁から台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁の5州2庁に変更された。この時、地名も変更され打狗は高雄になった。以後、今日まで都市名は高雄のままである。

1939年、浅野セメント高雄工場(筆者提供)
1939年、浅野セメント高雄工場(筆者提供)

その後も浅野は驚くべき速さで次々と会社を立ち上げてゆく。浅野造船所、秩父セメント、旭コンクリート工業、浅野スレート販売、浅野ブロック製造、日本ヒューム管など、銀行以外の会社はすべて設立したと言われるほどであった。大正9年には浅野総合中学校も設立している。

昭和3年に鶴見川崎間に完成した「浅野埋立」には、浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の中核となり、浅野は「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」と言われるようになる。

日本の発展と自らの夢の実現に生きた浅野は、ドイツに出張中に斃れ、帰国後に食道がんと肺炎によって昭和5(1930)年11月9日、82歳の生涯を閉じた。セメント工業を足掛かりに事業家の道に進み、欧米の近代的な港湾設備に触発されて取り組んだ埋め立て事業を成功させ、日本内地では「京浜工業地帯」を生み、台湾では「高雄港の開発に尽力した日本人」として、大きな足跡を刻んだ。高雄港は総督府による第二期工事によって大型船を横付けできる近代的な港湾に進化し、今日まで台湾を代表する国際貿易港としての地位を不動のものにしている。その基礎を造った浅野のことを知る日本人や台湾人は残念ながら決して多くはない。

バナー写真=「九転十起(きゅうてんじゅうき)の像」、2013年1月23日、富山県氷見市(アフロ)

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