SARSから17年を経て変わった台湾 : 防疫意識がウイルスを閉じ込める網に

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新型コロナウイルスによる感染症の封じ込めに成功していると世界から注目される台湾。しかし、人々の間には自粛疲れもあり、4月の大型連休には観光地に多くの人が出掛けたという。それでもなお、感染者が少なく抑えられているのはなぜなのか―台湾在住の筆者が読み解く。

台湾を襲ったSARS

当時のことはかなりぼやけてしまったけれど、テレビで見たあのシーンだけは鮮烈に残っている。窓の外に向かって盛んに訴える人々。口々に「我要回家(家に帰りたい)」と叫んでいる。また、ある人は虚ろな顔でじっと黙ったまま空を見つめている。

初めは何のことだか分からなかった。しかし解説を聞いているうちにどうやらSARS(重症性呼吸器症候群)の隔離政策だということが分かった。

2003年4月24日12時25分。

行政院は何の前触れもなく台北市立和平医院の封鎖を断行した。院内にいたものは医療スタッフも患者もその家族も関係なく、一瞬のうちにみんなその場で強制隔離となった。もう家へは帰れない。封鎖を突破しようと試みたり、窓から逃げ出そうとしたりするものもいたが、すべて捕まって病院に引き戻された。

こうしてドアは閉ざされた。

封じ込められたものはこのあと14日間、確実にウイルスのはびこる院内で感染の恐怖に耐えなければならない。SARSの可能性なんて限りなく低い外来の患者もいる。ウイルスを外に流出させないための政策の犠牲になったようなものだ。

「こいつはひどいや」。

さすがにぼくもそう思った。

その日からSARSのニュースに敏感になった。香港から来た男が電車でウイルスをまき散らした事件。タクシー感染。連日増え続ける感染者と死者。医療スタッフの殉死。

毎日、身の回りでいろんなことが起きたが、一体何がどうなっているのか、実のところはよく分からなかった。ただ、ニュースのすぐ向こう側、かなり近いところまで恐ろしい何かが迫ってきているような気がした。いつ自分のところに来るのだろうか。ただ不安だった。

人々の高い防疫意識

あれから17年。中国の武漢で再び恐ろしい伝染病が発生した。新型コロナウイルス感染症だ。

意外かもしれないが、SARSの時のような恐怖は感じなかった。むしろ感じたのは周囲の警戒心。人々の極度に高い防疫意識だった。

もっとも分かりやすいのがマスクだ。

ぼくは普段、家での仕事が多い。人と会うことはそれほど多くない。だから武漢発の肺炎が流行し始めたというニュースを聞いた時でも、自分との間に距離があるというか、いまいち実感はなく、マスクを着用するという発想が気薄だった。

そんなぼくがバスに乗ると、ほかの人との温度差を感じた。バスの中でマスクをしていないと、錯覚かもしれないが、周囲から無言の圧力を感じて罪悪感のようなものを覚える。その感覚は日増しに強くなり、いつしかマスクを忘れたらバスに乗れないという気持ちになっていた。ちなみに現在はバスに乗るときはマスクの着用が義務付けられている。

外国人の入境禁止が決まったのは3月17日のことだ。

その少し前に、ぼくは夫婦で食事に出かけた。その席で日本語を話していたら、となりの台湾人から露骨に舌打ちされた。ちょうど外国人に対する風当たりが強くなりつつあったころで、同じような経験をした友達も数人いた。

ただそうは言っても、実際にその場にいると怒りを覚える。なんでこんな扱いされなきゃいけないんだと思う。しかし帰り道で偶然出会った日本人の旅行者を見たとき、その思いもしぼんだ。若い女の子がふたり。大きなスーツケースを引きながら大声で話している。もちろんマスクなし。いま新型コロナウイルス肺炎が流行していることなどまったく知らないかのようだった。

台湾では普通に生活していて、人々の防疫意識がひしひしと伝わってくる。一人ひとりの意識が結びついて、大きな網が出来上がっている感じだ。この網でウイルスを閉じ込める。そのためには一カ所でも破綻したら、ほかの人たちが頑張っても無駄になってしまう。だれも口に出してはいわないが、確実にそんな雰囲気がある。

大型連休で心配された集団感染

台湾では4月2日から5日まで清明節(先祖の墓参りをする日)を挟んでの4連休があった。

中央流行疫情指揮センターは集団感染を心配して国内11カ所の観光スポットを挙げ、できることなら自粛、ただ強制はできないのでそれでも行くならほかの人と距離を保持するようにと事前に緊急発令で呼びかけた。

そうはいっても、長い間の自粛生活でかなりストレスの溜まっている人も多い。「はい、そうですか」ということを聞く人ばかりではない。しかも観光スポットはどれも屋外なので大丈夫だという思いもある。

連休明けの統計では指揮センターの呼びかけがあったにもかかわらず、11カ所の観光スポットに延べ150万人が出掛けた。

これを聞いて、ぼくは「終わった」と思った。これまで防疫で頑張ってきた台湾だが、おそらく集団感染は免れないと思ったからだ。

しかしその後、感染者は増えて来ない。そして4月14日にはついに初めてゼロ感染を記録した。さらに一日挟んで16日、17日と2日連続のゼロ感染。日ごろから注意を促しているマスクと手洗いの効果なのか、それとも事前の呼びかけが多少なりとも影響したのか分からない。とにかく奇跡が起こったと思った。

この日は何とも清々しい気分になった。それまで友達を食事に誘っても「こういう時期だから止めておきましょう」といわれ続けて、しょんぼりしていたのが、一気に心が明るくなった。もしかしたら国内だけなら意外と早く終わるかもしれない。思わずそんなことまで想像してしまったほどだ。

ところが翌日、軍艦に乗っていた実習生と軍人あわせて3人の感染が発見される。その後感染者は軍隊の中で増え続け、4月23日には29人になった。

彼らは台湾に上陸後、あちこち動き回っていた。その間、彼らと接触した人1237人。509人が自宅隔離、728人が自主健康管理の対象となった。再び暗くなる。

それでも台湾の人たちを見ていると、みんな諦めていない。防疫の網を破られないように必死で追跡調査と健康管理を続けている。思わず「頑張れ台湾」と叫びたくなる気分だ。

台湾はWHOをどう見ている?

17年前、SARSが発生したとき、台湾はひたすらWHO(世界保健機構)を頼って、見事に見放された。ほかの国が正常に動いている中で、台湾は収束がもっとも遅れ、そのせいで観光業をはじめ産業は大きな打撃を受けた。当時はぼくもメディアや業者向けに「台湾はもう正常です。安心して下さい」という原稿や手紙を幾つも書いたが、それでも回復は思うように進まなかった。

それもあって、今回の防疫対策は初めからWHOの協力が得られないことも想定範囲内。「自立自生」が大前提だった。しかし、ぼく個人としては結果的にこれが幸いしたように思う。

先日WHOのテドロス事務局長が「差別や個人攻撃を受けた」と台湾を名指しで非難した。

これに対して蔡英文総統はフェイスブック(FB)ですぐに反論した。

「台湾はどんな差別に対してもずっと反対してきた。わたしたちはずっと国際組織から排除されてきたから、だれよりも差別と孤立について理解している。この機会にテドロス事務局長には台湾に来てもらいたい。そしてわたしたちが差別と孤立の中においても、どれほど国際社会に貢献するために努力しているか感じてもらいたい」

自由時報が行った街角インタビューではWHOのことを「中国衛生組織」と呼んだり、「テドロス事務局長は早く病気から治って」といった皮肉の効いた回答もあったが、そこに怒りは感じられない。むしろ「台湾にとってというより、世界的に見たら加入したほうがいい」、そんなWHOのことを気遣うコメントのほうが多く見られた。

こうした考え方の根底にあるのが、3月12日、台湾の防疫対策に興味を持ったイギリスBBCに対して行った会見の中で指揮センターの陳時中部長の言葉だと思う。「WHOに対してどう思いますか」という記者の質問に対して、陳時中部長は「ウイルス感染に国境はない。漏れる穴があってはいけない」と答えている。

蔡英文総統も反論の最後にこう言っている。

「台湾が加入することでWHOのパズルは完成する」

世界で称賛を集める台湾の防疫対策

今回、台湾で行われた一連の防疫対策が世界で称賛を集めている。何故台湾はできるのだろう。

その答えについて、ぼくは17年前の問題をひとつずつ地道に解決していった結果だと思う。

あの時は台湾には猛烈な伝染病に対する知識も経験もなかった。物資も欠如し、対策の指揮系統もない。陳水扁総統の中央政府と馬英九市長の台北市政府の協力もうまくかみ合わず、手探りの応急措置が無駄に繰り返されるだけだった。だれもがこぞってマスクを買い求め、医療スタッフのマスクが足りなくなる。さまざまな噂が飛び交い、通報が異常に増えて混乱を招いた。その結果、どん底に落ちた。

台湾は17年の月日をかけて、これらをひとつひとつ改善していった。

加えて今では独自のSOP(標準業務手順書)やAIを活用したシステムまで構築している。隔離のための陰圧室の数も大幅に増えた。当時封鎖に追い込まれた和平病院でも「次」を想定した訓練を毎年欠かさず行っていた。

そして何よりも大きな要素はその根底に国民の危機感とそこから生まれた強い防疫意識があったことだ。

これら全部が17年前とは違っていた。台湾はあの時とは変わった。

バナー写真 : アフロ

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