学士院賞受賞『正規の世界・非正規の世界』=日本の雇用慣行を支えてきた「労使自治の原則」は変わるのか

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神林龍一橋大学教授(ニッポンドットコム編集企画委員)が4月、優れた業績を上げた研究者に贈られる日本学士院賞(第110回)を受けた。戦前から現在に至るまでの日本の労働市場の特徴をデータ分析から読み解き、斬新な考察を加えたことが評価された。神林氏は研究の狙いを次のように語った。

神林 龍 KAMBAYASHI Ryō

一橋大学経済研究所教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程修了、博士(経済学)。東京都立大学助教授、スタンフォード大学経済学部客員研究員などを歴任。主な著書に『正規の世界・非正規の世界――現代日本労働経済学の基本問題』(慶應義塾大学出版会、2017)、『模倣型経済の躍進と足ぶみ― 戦後の日本経済を振り返る―』共著(ナカニシヤ出版、2010)など。

今回の受賞は、『正規の世界・非正規の世界—現代日本労働経済学の基本問題』(慶応義塾大学出版会、2017年11月刊行)を評価していただいたことによる。本書では、日本の労働市場の成立に関わる歴史から説き起こして、正規と非正規の対比という大きなフレームワークの中で浮かび上がる近年の労働市場全体の描写を試みた。近年の労働市場は二極化しているといわれるが、統計を分析すると「二極化現象」は昔からあったもので、一般的に思われているほど近年に急速に進んだものではないことが分かる。労働市場は変わったといわれながら、その背後にあるメカニズムはそれほど変わっていないのである。

政府の介入の難しさ=「労使自治の原則」

いまコロナ危機が労働市場・働き方に大きな変化をもたらすと見る向きがあるが、筆者は、終息後数年すれば結局あまり変化していなかったということになるのではないかとみている。なぜそう予想するかといえば、社会の意思決定の仕組みが変わっていないからだ。

日本の労働現場には基本的に「労使自治の原則」が貫かれている。戦前から現在に至るまで、日本の労働市場は政府による直接的介入をあまり受けてこなかった。戦前期には、政府による数少ない介入手段だった公共職業紹介も、そのネットワークは当時すでに民間で発達していた職業紹介網を組織ごと吸収して発達したもので、中央政府が一から構築したものではない。現場のことは基本的に現場の利害関係者が決めるという原則が、日本の労働市場制度を形作り、いわゆる日本的雇用慣行を支えてきた。労使自治の原則と対局にあるルール形成方法が、政府や裁判所など「超越的」な第三者による介入だが、日本ではあまり機能してこなかった。コロナ禍との関連でいえば、緊急事態宣言に直面して企業が休業する際の賃金、休業手当をどう決定すべきかという問題に関して、政府は労使で話し合って決めるべきだという原則を維持している。労働経済がかつてない大きな危機に直面しているといわれるこの状況でも、政府は第三者として現場のルールづくりに関わることに消極的だ。政府や第三者の超越的介入がうまく機能しないという日本の労働市場の特徴を表しており、このルール形成方法が変わらない限り、日本の労働市場の在り方は大きくは変化しないだろう。

自営業の減少と非正規の増加

もう一つのポイントは自営業の衰退である。近年の労働市場の変化は規制緩和と対で議論され、「非正社員の増加」こそが最も重要な現象だと考えられてきた。しかし、実際にその裏で正社員が減少しているかといえば、そうではない。そのぶんシェアを減らしたのは正社員ではなく自営業者であることがデータから分かる。1980年代以降、日本の労働市場では正規・非正規を含めた「被用者」(労働契約に基づいて労働に従事し、雇用主から賃金を受け取る人)の増加と自営業者の減少が一貫して進んでいた。労使自治の原則に基づいて正社員に比重を置いた日本的雇用慣行が維持されてきた一方、非正社員に関しては、労使間のルールがうまく構築できていないようにみえる。非正社員に関するルール形成方法は宙に浮いてしまっているともいえる。

では、なぜ自営業者のシェアが減少したのか、実は理由はよく分かっていない。もともと、全就業者に占める自営業比率は日本では高く、高度成長を経て経済が成熟したといわれるようになった1980年代でも20%を超えていた。それが継続的に低下し、今では経済協力開発機構 (OECD) 加盟国平均の約10%にまで下がっている。下げ止まったかどうかは定かではないが、自営業者の比率がこれ以上減った場合、労働市場にどんな影響があるだろうか。今後の研究課題として自営業者が労働市場で果たしている役割とその増減のメカニズムの検証に取り組んでいきたい。

ルール形成における「仲介者」の役割

もう一つの研究課題は、労働市場のルール形成の在り方だ。現場の労使から少し距離のある「中間団体」の役割に注目している。労働市場における代表的な「仲介」である職業紹介を例に挙げよう。紹介業とは、求職者と求人の情報を集積することによって効率的なマッチングを成立させることを生業(なりわい)としている。現状では、仲介者は求職側か求人側のどちらかの代理人という性格が強いが、もし中立的立場を維持することができれば、例えば新しいマッチング時に何らかのトラブルが生じた場合、仲裁が可能になる。また、マッチングにはある程度の規模が必要なので、個別労使よりも広い範囲で一般的基準やルールを定めることもできるだろう。

紹介業だけに限らず、こうした「中間団体」が労働現場のルール形成に果たせる役割があるのではないかと考えている。既存の中間団体としての労働組合や商工会議所などが、中立的ルール形成機関としての役割をうまく果たしてこなかったことも含めて、今後の仲介者の役割と可能性を探りたいと考えている。(談)

バナー写真:新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言発令から一夜明け、マスクを着けて出勤する人たち=2020年4月8日JR東京駅前(時事)

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