台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「エンタメは楽しんだ者勝ち」歌手・ダンサー 千田愛紗(せんだあいさ)

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3カ月限定の企画で台湾に飛んだ17歳の千田愛紗さんは、現地のバラエティー番組で活躍。一方、本当に好きなダンスをさらに高めようと渡米まで考えていたところ、ヒップホップユニットのボーカルダンサーに抜てきされ、それまでのイメージを大きく転換させ成功を収めた。台湾でのデビューから20年を迎え、台湾と現地のファンをより理解したいと思い、現在、台湾語の勉強も始めた。ユーチューバーとしての人気も急上昇中。

千田 愛紗 SENDA Aisa

1982年沖縄県生まれ。歌手・ダンサー。8歳で沖縄アクターズスクールに入学。18歳で台湾のバラエティ番組『超級星期天(スーパーサンデー)』に出演。これを契機に日本人4人の音楽ユニット「Sunday Girls」の一員として台湾の芸能界にデビュー。動物番組の司会者、俳優を経てヒップホップ・ユニット「大嘴巴(DA Mouth)」のボーカル・ダンサーに抜てきされ、2007年再デビュー。翌年「金曲奨」最優秀グループ賞を受賞し不動の人気に。現在は「創意油管(Ideas Tube)」のチャンネル「愛紗愛乱玩」「千田愛紗」でユーチューバーとしても活躍中。
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あのお姉ちゃんのように歌って踊れるようになりたい

千田愛紗は「内気な子だった」と幼少期を振り返る。しかし8歳の時、両親の勧めでレコード会社のオーデションに参加して、ジュニアクラスのグランプリを獲得。沖縄アクターズスクール見学の機会を得た。そこで自分より一つ年上の女の子が歌って踊る姿に目がくぎ付けとなった。

「私もあのお姉ちゃんのようになりたい」

こうして愛紗は沖縄アクターズスクールの一員となった。スクールの先輩の安室奈美恵が大ブレークしたのは、中学1年の時。スクールの名が全国に知れ渡り、生徒たちも注目されるようになった。愛紗も沖縄の地元テレビ局のほか、番組収録のために、毎週、東京に通った。15歳でスクールのインストラクターとなったことをきっかけに、エンターテイメントの世界で生きる決意を固めた。

17歳のとき、台湾行きを3日で決断

インストラクターは、言わば裏方だが、チャンスがあれば東京で表舞台に立ちたいとの思いは高じていった。17歳の時だった。東京のマネジメント会社から、台湾のテレビ番組に出演してみないかとの話が舞い込んだ。

「台湾と聞いて思い浮かんだのは、日本でも人気だったビビアン・スーさんぐらい。台湾がどこにあるのかも分からず、知っている中国語はニーハオとシエシエだけでした」

それでも、沖縄から一番近い外国であることを知ると一気に心が傾いた。海外で言葉や文化を学びながら、エンターテインメントの表舞台に立つことを思うと興奮した。両親も背中を押してくれた。3日後には心を決め、1週間後には台湾の桃園国際空港に降り立った。漢字だらけの案内板を目にして、不安に押しつぶされそうになったが、やってみるしかない。企画は3カ月間限定のものだった。なじめなければ、沖縄に帰ればいい。

愛紗が出演したのは、超人気バラエティ番組『超級星期天(スーパーサンデー)』の「超級動員令之日本美少女」のコーナーだった。この企画では、最終的に愛紗も含めて、ファン投票で選ばれた日本人4人のグループ「Sunday Girls」が結成され、台湾での芸能活動が始まった。翌年にはCD『好きだよ 喜歡你』をリリースし、アジア各国を宣伝ツアーで巡回した。シンガポールのサイン会では3000人ものファンが集まり、テレビ番組の影響力のすさまじさを肌で感じた。しかし、程なくメンバー2人が日本に帰国し、Sunday Girlsはそのまま解散となった。

台湾にとどまった愛紗に、バラエティ番組『綜藝少女組』の司会の仕事が来た。台湾華語(台湾で使われる中国語)はまだまだおぼつかなかったが、周りには日本語が話せる仲間ももういない。24時間華語の環境での生活が始まった。19歳になったばかりの愛紗は辛さに耐えられず、涙に暮れた。しかしその一方、台湾で生きていく腹は少しずつ固まっていった。

「バラエティの愛紗」から「ヒップホップシンガー」へ劇的なイメージチェンジ

その後も動物番組の司会者をはじめ、バラエティの仕事は切れ目なく続いた。今ではネイティブとほとんど区別がつかないほど流ちょうな台湾華語を操る愛紗だが、その頃は、言葉で苦労した。番組の制作サイドからは、「これ以上華語が上手くなったらダメだ、キャラクター的に面白くなくなる」と言われ続け、上達しようにもそれが許されない状況だった。その一方、人気テレビドラマ『流星雨』で俳優デビューも果たしたものの、撮影現場では華語のせりふがネックとなってNGを繰り返した。言葉の壁が立ちはだかっていた。

いつしか台湾に来てから6年がたっていた。ある日、友人のアーティストのクリスマス・ライブで、自ら頼み込んで舞台に上がりラップを歌った。ネット上にアップされたその映像が、たまたま音楽プロデューサーの畢國勇の目に止まった。畢國勇が阿弟仔と共にプロデュースした「大嘴巴(DA Mouth)」は後に、台湾を代表するヒップホップ・ユニットになるのだが、日本人の女性ラッパーを面白いと直感した畢が、大嘴巴のボーカルとして愛紗に白羽の矢を立てたのだ。

「ついに来た!と興奮しました。実はダンスを極めるため、日本に帰ろうかニューヨークに渡ろうかと考え始めていた時期だったのです。本業の歌とダンスでのオファーでしたから、二つ返事で引き受けました。ただ“バラエティの愛紗”のイメージの払しょくを求められて、大嘴巴のデビューまで、それから2年ほどかかりました」

デビューまでの準備の間、バラエティの仕事は全て断った。2007年11月に満を侍してアルバム『大嘴巴』をリリースすると、お洒落なヒップホップのシンガー愛紗の誕生に世間は仰天した。「天然」が売りだったバラエティの愛紗の姿はもはやなかった。元々実力派ぞろいの上、愛紗の劇的なイメージチェンジも功を奏して、大嘴巴は瞬く間にスターダムにのし上がた。翌年の台湾の「金曲奨」では最優秀歌唱グループ賞を受賞した。

受賞の瞬間、愛紗は手の震えが止まらなくなり、頭が真っ白になった。予想外の受賞で、スピーチ原稿さえ用意していなかった。それでも愛紗の口からとっさに出てきたのは、外国人である自分にチャンスを与えてくれたプロデューサー、華語がまったく話せなかった8年前から現在に至るまで台湾の芸能界でお世話になった人々への感謝の言葉だった。

2012年には、東京の国立代々木競技場第一体育館で開催された「a-nation Asia Progress F」に大嘴巴も出演することとなった。この時に初めて沖縄から両親と弟を招待した。台湾で積み重ねてきたことを家族にようやく胸を張って披露することができた。ステージ終了後には感極まって号泣した。そんな自分をそっとしておいてくれたメンバーの心遣いがただうれしかった。

大嘴巴での活動はデビューから9年後の2016年に終止符を打った。しかし、このユニットが自分を成長させてくれたと愛紗は振り返る。

「メンバーとは徹底的に議論し、自分の本来の武器である歌とダンスの表現の研さんを積む日々でした。華語の発音も表現力もネイティブに近づくことを求められ、体調管理の大切さも含めて、本当のエンターテイナーになれたと感じました」

多忙な日々だったが、好きなことは苦にはならなかった。体調を崩して高熱を発しても、移動の合間に点滴を打ちながらステージに立ち続けた。プロとしての決意と矜持(きょうじ)からだった。

エンターテイナーは楽しんだもの勝ち

一つの縁が次の縁を紡ぎ、愛紗にとって台湾は第二の故郷となった。今年は台湾の芸能界でデビューしてからちょうど20年の節目となる。今後は仕事と生活のバランスを取り、生活のクオリティを大切にしたいという愛紗は、昨年から「創意油管(Ideas Tube)」が運営するYouTubeの番組「愛紗愛乱玩」(華語)及び「千田愛紗」(日本語)をスタートさせた。生活、旅行、料理から台湾のローカル言語である「台湾語」の学習までそのコンテンツは幅広い。そこでは普段着の飾らない愛紗と出会えるのが魅力だ。しかしなぜ今、台湾語に挑戦するのだろう。

「台湾語は、北京語をベースとした台湾華語と違って独特の世界観を持っている言語です。もし、台湾語が話せるようになったら、台湾人の気持ちがもっと分かるだろうし、より深くこの土地に溶け込めると思ったのです」

そして、母方の祖母は台湾生まれで、花蓮と宜蘭で暮らしたことがあったと明かしてくれた。その「おばあ」は今でも台湾語で一から十までの数字を数えられるそうだ。YouTubeの番組では、生まれ故郷の沖縄の魅力を台湾に紹介する一方、将来的には料理人の弟と手を組んで、沖縄に第二の故郷台湾のグルメを紹介することも模索しているという。これからの愛紗は、台湾と沖縄、台湾と日本を繋ぐ役割がますます増えていきそうだ。最後に台湾の芸能界を目指す後輩たちへのメッセージを尋ねると、笑顔を浮かべてこう答えてくれた。

「楽しんだ者勝ちです。エンターテイナーはまずは自分が楽しみ、その楽しみを人に伝えていくことです。自分の好きなことを極めていけば、必ず全部自分に返ってきます。Enjoy!」

バナー写真=千田愛紗さん
バナー写真を含む全ての写真は千田愛紗さんの事務所より提供。

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