UFOと日本人(1):江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って

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米国防総省が「未確認飛行物体(UFO)」の映像を公開したことから、UFOの存在に再び関心が集まっている。日本では江戸時代、茨城県にUFOが漂着した? 不思議な乗り物が描かれた古文書を手掛かりに、当時の「うつろ舟」伝説の背景とUFOとの関連性を研究する田中嘉津夫さんに話を聞いた。

田中 嘉津夫 TANAKA Kazuo

岐阜大学名誉教授。1947年生まれ。専門は光情報工学。大学では専門科目の他に、教養科目で「懐疑思考 (Skeptical Thinking) 」を講義した。「うつろ舟」伝説研究の第一人者。2009年に加門正一のペンネームで『江戸「うつろ舟」ミステリー』(楽工社)、19年英語の研究書『The Mystery of Utsuro-bune』 刊行。海外にうつろ舟伝説の面白さを伝えることに意欲的な一方で、毎年岐阜大学の市民講座で研究成果について講演している。

享和3年(1803年)、常陸(ひたち)国(茨城県)の海岸に円盤のような乗り物が漂着し、その中から見慣れぬ服装の美女が箱を抱えて現れた。言葉は通じず、舟の中には謎の文字が書かれていた―江戸時代のさまざまな文書に記された「常陸国うつろ舟奇談」の背景には、実際に不思議な漂着事件があったのか。岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授は、長年「うつろ舟」研究に取り組んでいる。専門の光情報工学とはかけ離れた研究になぜ取り組むようになったのだろうか。

実態のあるミステリー

「もともとは1995年のオウム事件が発端です。教祖・麻原彰晃の予言や空中浮揚などで注目されたカルトの幹部メンバーは、理系のエリートたちでした。それで、大学で“超常現象”を科学的に考察させるための講義を始めることになり、教材としてアメリカのUFO情報や日本の伝承など、さまざまな資料を集め始めました。その過程で出会ったのが『うつろ舟』伝説です」と田中氏は言う。「米国でUFO伝説が生まれるはるか前、江戸時代の日本の文書に描かれた乗り物が、なぜか空飛ぶ円盤に似ている。これは面白いと思いました」

UFOが初めて注目されたのは、1947年6月24日、米国人実業家ケネス・アーノルドが「空飛ぶ円盤」を目撃したとメディアが報じた「アーノルド事件」だ。その後、世界各地で目撃情報が相次ぐ。中でも、47年7月、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にUFOが墜落したとされる「ロズウェル事件」が有名だ。「でも、結局回収されたといわれるUFOの残骸も、宇宙人の死体も見つかっていない。目撃者の曖昧な証言があるだけです。同様に、世界中のUFO情報は全て“実態のないミステリー”です。ところが、『うつろ舟』伝説は、いくつもの古文書を手掛かりに調査できるという意味で、研究者にとって“実態のあるミステリー”なんです」

甲賀忍者が記した具体的な漂着地

田中嘉津夫さんが英語で刊行した研究本。表紙は『兎園小説』(1825年)から
田中嘉津夫さんが英語で刊行した研究本。表紙は『兎園小説』(1825年)から

江戸時代には、全国各地に似たような「うつろ舟」(「うつぼ舟」とも呼ばれる)伝承があった。田中氏が研究対象としているのは、1803年 (日付は資料によって異なる)、常陸国の浜辺で起きたと記し、美女と奇妙な乗り物の絵図が描かれたいくつもの古文書だ。中でも『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴が文人サークル「兎園(とえん)会」で集めた風変りなうわさ話を記録した『兎園小説』(1825年)や長橋亦次郎(またじろう)による『梅の塵(ちり)』(1844年)が早くから知られていた。その他『鶯宿(おうしゅく)雑記』『弘賢(ひろかた)随筆』、日本に漂着した異国船や国外へ漂流した日本人の記事などを記録した『漂流記集』などがある。

最初はロシアの捕鯨船の海難事故が脚色されて伝わったのではないかと仮説を立てていたが、該当しそうな海難事故を記録した公文書は見つからない一方で、次から次に新しい資料が見つかり、さまざまな背景を探ることにのめり込んでいった。これまでに常陸国うつろ舟伝説の関連文書は11種類見つかっているが、その中に特に興味深い仮説に結び付く二つの文書がある。ともに事件が起きた1803年の記録だとされている。

松平定信の家臣だった駒井乗邨(のりむら)の『鶯宿雑記』(1815年ごろ)から(国会図書館蔵)
松平定信の家臣だった駒井乗邨(のりむら)の『鶯宿雑記』(1815年ごろ)から(国会図書館蔵)

幕臣で能書家でもあった屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の『弘賢随筆』(1825年)から。弘賢は兎園会のメンバー(国立公文書館蔵)
幕臣で能書家でもあった屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の『弘賢随筆』(1825年)から。弘賢は兎園会のメンバー(国立公文書館蔵)

「水戸文書」から(個人蔵)
「水戸文書」から(個人蔵)

一つは、茨城県水戸市在住の古文書収集家が所有する「水戸文書」だ。田中氏は絵図の女性の衣服が、茨城県神栖(かみす)市の養蚕信仰の寺、星福(しょうふく)寺の蚕霊(さんれい)尊の衣服に似ていることに気付いた。もともと茨城県には養蚕の誕生にまつわる「金色姫伝説」があり、星福寺の仏像も金色姫をモチーフにしている。天竺(てんじく=インド)から繭の形をした丸木舟に乗った姫が常陸国に漂着し、面倒を見てくれた地元の夫婦への恩返しに、養蚕の技術を授けて昇天したという言い伝えだ。これまでに見つかっている11種の文書に描かれた女性の衣服には違いがあり、金色姫との関連を強くうかがわせる描写は「水戸文書」のみだという。鹿島灘でうつろ舟のうわさが出た時に、当時の星福寺の人たちが寺のプロモーションに利用した可能性があると、田中氏は考えている。

もう一つさらに重要なのは、甲賀流忍術を受け継ぐ忍術研究家・武術家、川上仁一氏が保有する「伴家(ばんけ)文書」だ。他の文書では漂着現場を「小笠原越中守(えっちゅうのかみ)の知行所」として、「はらやどり」浜など、特定できない地名を記しているが、同文書では「常陸原舎り濱(ひたちはら・しゃりはま)」という実在の地名が記されていた。伊能忠敬が1801年に測量し作成した地図、「伊能図」に記載された地名で、現在の茨城県神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさき・しゃりはま)にあたる。「他の文書には矛盾があって、そもそも小笠原越中守の領地は鹿島灘周辺にはありません。ところが、『伴家文書』には小笠原の名前はない代わりに、実在の地名が載っている。川上先生に聞くと、伴家(甲賀忍者)が仕えた尾張藩主の参勤交代のために情報収集をしていたのではないか、という見立てでした。それならうそは書けませんから、文書の信ぴょう性は高いと言えます」

円盤型舟と謎の文字

かつて民俗学者の柳田国男は、うつろ舟伝説は全て根拠のない作り話だと断じた。「でも、常陸国のうつろ舟の話は、全国各地に伝わる話とは明らかに違います」と田中氏は言う。「まず、1803年に起きたと特定していること。そして、全ての文書で円盤に似た乗り物を具体的な絵図を描いて説明しているのが不思議です。何か実際の出来事に基づいている気がします。ただ、鎖国中ですから、もし外国船の難破や外国人の上陸があったとしたら大事件で、役人が調べて公文書に残すでしょう。実際、1824年、大津浜(北茨城市)にイギリス人が上陸する事件が起きて、翌年の異国船打払令の一因になりました。ですから、ひょっとしたらほんの短時間、鹿島灘の海岸で何かの目撃情報があったのかもしれない。それが以前からのうつろ舟伝説と結びついた可能性もあります」

文書によって女性の衣服が違うように、円盤型乗り物の形状や大きさも違う。例えば『漂流記集』によれば、乗り物は高さ1丈1尺(約3.3メートル)、幅3間(約5.4メートル)、本体は紫檀(しだん)と鉄製で、ガラスや水晶の窓がついている。「『漂流記集』が公文書なのかどうかは分かりません。全部で2巻残っていますが、うつろ舟以外は、ほとんど実際に起きた事件です。少なくとも書いた人はうつろ舟の漂着が本当に起きた事件だと判断していたと思われます」と田中氏は言う。

うつろ舟を巡る謎は尽きない。特に、舟の中の謎の文字は何を意味するのだろうか。「江戸時代の浮世絵に見られる『蘭字枠』(絵の周りに描かれた文字の飾り枠)に似ているという説もあるので、単なる装飾の可能性はあります。もちろん、宇宙人が使っていた文字だという証拠が見つかる可能性もゼロではない」と言って、田中氏は笑う。「今後も、それまで知られていなかったうつろ舟関連文書が見つかって、新発見があるでしょう。さまざまな仮説が立てられることが、この伝説の魅力です。UFO伝説が生まれる140年以上も前に、日本にこんなにも想像力を刺激する伝説があったとは。日本の歴史・文化の豊かさ、面白さを改めて感じます」

『漂流記集』(作者不詳)から。流れ着いたのは常陸国の原舎ヶ浜(はらしゃがはま)。乗っていたのは18~20歳ぐらいの若く身なりのよい美女で、顔色は青白く、眉毛や髪は赤い。言葉は通じず、どこの国の人かは不明。白木の箱を大切そうに抱え、人を寄せ付けようとしない。船の中には謎の文字があったと書かれている。バナー写真は同写真の一部(西尾市岩瀬文庫蔵)
『漂流記集』(作者不詳)から。流れ着いたのは常陸国の原舎ヶ浜(はらしゃがはま)。乗っていたのは18~20歳ぐらいの若く身なりのよい美女で、顔色は青白く、眉毛や髪は赤い。言葉は通じず、どこの国の人かは不明。白木の箱を大切そうに抱え、人を寄せ付けようとしない。船の中には謎の文字があったと書かれている。バナー写真は同写真の一部(西尾市岩瀬文庫蔵)

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