UFOと日本人(2):三島由紀夫も会員だった「空飛ぶ円盤研究会」―UFOに魅せられた人たち

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1947年6月24日、米国で最初に「未確認飛行物体(UFO)」が目撃され、世界でUFOブームが起きた。日本では55年、荒井欣一が日本初の民間UFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」を結成、三島由紀夫をはじめ多くの著名人が参加した。東西冷戦の時代に、荒井はUFOの存在が世界平和につながると信じていた。

UFOとの遭遇を熱望した三島

「これからいよいよ夏、空飛ぶ円盤のシーズンです。去年の夏は、熱海ホテルへ双眼鏡ももって行って、毎夜毎夜、いはゆるUFOが着陸しないものかと、心待ちにのぞいていましたが、ついに目撃の機会を得ませんでした」

三島由紀夫が1957年「日本空飛ぶ円盤研究会」(Japan Flying Saucer Research Association=JFSA)の機関誌『宇宙機』に寄せたエッセーの冒頭だ。空飛ぶ円盤を見たいと熱望していた三島は、日本のUFO研究の先駆者、荒井欣一が55年に同会を結成した翌年に参加している。一時は1000人以上を数えたという会員の中には、三島の他に、星新一、新田次郎、石原慎太郎、「日本の宇宙開発の父」と呼ばれた糸川英夫博士、黛敏郎など、多くの文人・知識人が名を連ねていた。三島は57年6月、東京・日比谷で行われた観測会にも参加し、同年夏の米国旅行の際にもUFOを探し求めた。荒井は「三島氏は熱心な会員で、定期観測会には大きな大きな望遠鏡を携えて、必ず顔を見せた」と、ある寄稿文に書いている。

1957年6月、東京・日比谷の観測会に参加した三島由紀夫(左)(提供:UFOふれあい館)
1957年6月、東京・日比谷の観測会に参加した三島由紀夫(左)(提供:UFOふれあい館)

60年5月23日、妻と一緒に大田区の自宅屋上で葉巻型のUFOらしきものを見た―三島は当時の雑誌『婦人俱楽部』で連載していたエッセーにそう記している。2年後に刊行した小説『美しい星』は、円盤を目撃した4人家族が自分たちは宇宙人―火星人、木星人、水星人、金星人―だったと気付くという設定だ。人類を核戦争などの破壊から救うため平和運動にまい進する一家に対し、人類滅亡を目指す別の宇宙人グループも登場する。三島のUFOや宇宙人に対する強い関心を投影する異色の物語だ。

自分が本当にUFOを目撃したのかどうか、三島は結局確信が持てなかったようだ。円盤観測仲間の作家、北村小松が64年に亡くなった時、朝日新聞に掲載された追悼文にこう書いている―「とうとう円盤を見ることができなかった代わりに、私は円盤よりも貴重な一つの純粋な交遊を得たのである」

UFOの存在が人類の未来を守る

目撃はできなくても、三島はUFOの実在を信じていた。同様に「空飛ぶ円盤研究会」代表の荒井も、見たことはないがその実在を信じて、地道に情報収集に徹していた。1923年東京生まれで、戦争中は陸軍航空部隊に所属、機上搭載レーダーの装備担当技官だった。もともと気象・天体観測や航空機が好きで、戦後は大蔵省勤めを経て品川区五反田で書店を営み、興味のある分野の本を読みあさっていた。そして出会ったのがジョージ・アダムスキーの体験記だ。地球に着陸した円盤に乗り込んで金星人と会見したという内容の『空飛ぶ円盤実見記』が54年に翻訳刊行されていた。UFO(当時は「空飛ぶ円盤」と呼ばれるのが一般的)が最初に注目されたのは、米国の実業家、ケネス・アーノルドが47年6月24日、自家用機で飛行中に9機の輝く飛行物体を見たと報じられてからだ。荒井は当時から関心を持っていた。だが、アダムスキーに関しては科学的検証に耐えうるものではないと懐疑的だった。こうした体験記やさまざまな目撃情報が続出する中で、UFO 全般に関して真剣に論じる場が必要だと考えるようになったのが、研究会設立のきっかけだった。

『宇宙機』創刊号に、こう記している。「…まだわが国においては(UFOの)本格的研究機関もなく、いたずらに空想あるいは幻覚の産物としてしか見られていないのが現状である。しかしながら、この広大なる宇宙にそれらが存在するか否かを研究することは、荒唐無稽なる非科学的なものであるとは言えないと思う。なぜならば、われわれ地球人でさえ、遠からざる将来における宇宙旅行の計画を現在練っているのだから。故にわれわれが世界に報道される円盤関係のあらゆる資料を所有し、現代の優れた宇宙科学によってその真偽を検討することは、われわれがたとえアマチュアたちの研究機関であるとしても宇宙旅行への歴史の1ページとして意義あるものではあるまいか」 

2000年に自費出版した荒井欣一の自伝 (提供:UFOふれあい館)
2000年に自費出版した荒井欣一の自伝 (提供:UFOふれあい館)

究極の目的は、世界平和、人類の未来を守ることだった。東西冷戦で再び世界大戦が起きることを危惧し、「もし地球を監視している第三者的存在のUFOというものの実在がはっきりすれば、たちどころに戦争はなくなるんじゃないか」と雑誌インタビューで語っている(1978年『UFOと宇宙』)。57年JFSA結成2周年には後続の研究グループと一緒に「宇宙平和宣言」を発表。核兵器・ミサイルの開発競争が人類の未来を脅かすと警鐘を鳴らす一方で、国家・民族を乗り越えて空飛ぶ円盤の来訪に備えるべきだと呼び掛けた。また同年、ソ連が核爆弾を搭載したロケットを月に命中させる計画があるといううわさが外電で報じられた際には、ロケット打ち上げ中止を訴える「月ロケット発射に関する要望書」を駐日ソ連大使に手渡している。前述の三島の『美しい星』には、フルシチョフに核実験をやめるように嘆願する手紙を書く描写があり、明らかにJFSAの活動に影響を受けている。

UFOを何度も目撃=福島市「UFOふれあい館」元館長

荒井欣一が収集した資料のうち、約3000点が福島県「UFOふれあい館」に保管・展示されている(提供:UFOふれあい館)
荒井欣一が収集した資料のうち、約3000点が福島県「UFOふれあい館」に保管・展示されている(提供:UFOふれあい館)

荒井は五反田の自社ビルに「UFOライブラリー」を開設し、自分が集めた資料の展示・閲覧の場としていた。2002年4月に亡くなる少し前、資料の大半を、「UFOふれあい館」(福島市飯野町)に寄贈した。当時の館長、木下次男さんと交流があり、信頼していたからだ。「自分が生きているうちに、資料をしっかり整理・保管してくれるところに預けたいというのが荒井さんの意向でした。温厚で真面目な方でした。『私はUFOを一度も見たことがない。あなたは何度も目撃していて、うらやましい』と言われました」と木下さんは振り返る。

「UFOふれあい館」は、竹下内閣が「ふるさと創生」の名目で全国の市町村に交付した1億円を財源として、1992年に開館した。千貫森(せんがんもり)という山の中腹にあり、その周辺では昔から発光物体の目撃情報が多い。地元のUFO研究家として知られていた木下さんは、93年に館長に迎えられ、2010年まで務めた。

千貫森(写真左:標高462.5メートル)と頂上からの眺望 (提供:UFOふれあい館)
千貫森(写真左:標高462.5メートル)と頂上からの眺望 (提供:UFOふれあい館)

ピラミッドのような円錐形をした千貫森には強い磁場があり、「モアイ石」「くじら石」など変わった形の巨石が点在する“パワースポット”でもある。木下さんによれば、千貫森を含む福島市を中心とした半径3、40キロの圏内でUFO目撃情報が多い。木下さんが初めてUFOに遭遇したのは、1972年、25歳の夏に友人3人と千貫森の西に連なる安達太良(あだたら)連峰の箕輪山(標高1728メートル)を登っていた時のことだった。

「山頂まであと10分、15分の辺りです。足を踏み出してふと空を見上げたら、ヘルメット状の物体が、貼り付くように浮いていたんです。色は1円玉のようないぶし銀。30センチぐらいの大きさで見えていました。かれこれ30秒ぐらいでしょうか。4人ともあっけにとられました。もっと上から確かめようと急いで山頂まで登り、もう一度見上げた時には、すでに消えていました」

この体験を機に、目撃情報など集め出してUFO研究にのめり込んだ。これまでに、少なくとも6回はUFOを見ているそうだ。館長職を退いてからも、「ふれあい館」から車で数分の自宅の隣に設けた「研究所」で、情報集めにいそしむ。UFOの話を聞きたい、自分の目撃体験を話したいと訪ねてくる人もいる。世の中には、UFOの存在をはなから信じない人も多いが、大事なのは、UFOは「入り口」と認識することだという。「本当にUFOだったのかは分からない。でも、見間違いだと決めてしまったら、興味が広がっていきません。誰かがUFOを見たと言ったら、しっかり聞いて受けとめてあげなければ。UFOを目撃したことがきっかけで、将来天文学やエネルギーシステムを研究することにつながるかもしれない。世界を広げてくれる入り口なんです。UFOをどうして自分は見られないのかという人もいるが、現代人はあまり空を見ない。空を見上げなければUFOは見られませんよ」

資料提供・取材協力=UFOの里・「UFOふれあい館」
バナー写真:KTSimage/PIXTA

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