台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「心に響く音を鳴らす」和太鼓指導者・奏者 熊谷新之助

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米国留学をきっかけに和太鼓との縁を深め、その後、異国の台湾で和太鼓指導者、奏者となった熊谷新之助氏。台湾に残って活動を続ける背景に、当時の生徒への思いと、台湾の和太鼓に対するイメージを変えたいことがあった。現在、新たな目標として和楽器の総合教室の立ち上げと、台湾での邦楽ネットワークの構築を掲げ精力的に活動している。

熊谷 新之助 KUMAGAI Shinnosuke

1983年福岡県生まれ。米国オクラホマ州立大学留学中に和太鼓と出会い、演奏活動を開始。2008年の帰国後、東京でのフリーター生活を経て、2010年より株式会社太鼓センターが運営するTAIKO-LAB青山教室に事務員として就職。2012年に同センター台北支部駐在員として赴任し、2013年からは指導者に転向。2014年に同センターの台湾事業撤退を機に独立し、太鼓教室「和太鼓熊組」を台北に設立。現在は台湾の和太鼓愛好者の指導に当たる一方、和太鼓演奏者としても台湾各地で活動を展開。

大けがを負った中学時代

熊谷新之助は三人兄弟の末っ子として、北九州市の八幡に生を受けた。ピアノ教師の母の奏でるピアノの音が好きだった彼は、幼い頃はよくピアノの下で昼寝をしていた。二人の兄のように、母から直接ピアノの手ほどきを受けることはなかったが、幼稚園では鼓笛隊の一員だった。小学校の演芸会でも打楽器担当、中学校の文化祭ではバンドのドラマーだった。少年時代から打楽器との縁は深かった。

新之助は運動神経も抜群だった。厳格だった父からは、二人の兄たちと共に、毎日、朝練習を課されていた。大相撲元小結の大潮が年の離れたいとこに当たるという血筋に加え、小学6年生で既に172センチメートルあった長身を生かし、地元の神社の相撲大会や小学校のバスケットボール部では花形選手だった。中学では次兄も所属していた軟式テニス部に入部した。

ところが、中学2年生の時に同級生との悪ふざけが元で、右手首の血管と指の神経3本をガラスで切断する大けがを負ってしまう。40キログラムあった右手の握力も一時は9キログラムまで落ち、指には今も後遺症が残る。それでも負けず嫌いだった彼は、箸やペン、ラケットも左手に持ち替えて練習を重ねた。

「やんちゃで、けがが絶えない子でした。母も慣れていたんでしょうね。手首をけがした時にも、母から言われたのは『あほちん』の一言だけでした。でも、母が楽観的だったので、気持ちが救われました。」

熊谷新之助氏(熊谷新之助氏提供)
熊谷新之助氏(熊谷新之助氏提供)

米国留学中、和太鼓と出合う

高校時代は再びバスケットボール部に所属し、部活漬けの日々だったが、部活を引退した高校3年の夏休みに転機が訪れる。海外留学仲介会社の説明会に参加した新之助は、一気に米国留学へと気持ちが傾いたのだ。

「ジブリアニメが好きだった影響から、環境学に関心がありました。この分野は日本より米国の方が進んでいる印象だったので、留学を決意しました。英語は苦手でしたが、行けばなんとかなるだろうとの軽い気持ちでした」

新之助は2002年6月に単身米国に渡った。語学学校で1年間英語の研鑽(けんさん)を積んでから、翌2003年にオクラホマ州立大学に進学し、水資源学を専攻することとなった。オクラホマではゆったりと時間が流れた。人々も優しかった。8歳年上の空手の達人の日本人留学生は、兄のように彼を支えてくれた。米国での生活を通じ、寛容さや価値観の多様性の大切さも学んだ。

米国での生活も5年目を迎えた2006年のある日のことだった。マレーシア出身の留学生から、オクラホマ日本人会の催しで、マレーシア華人に伝わる「二十四節令鼓」の演奏が決まったので、一緒に出演しないかとの誘いを受けた。太鼓との縁はここでつながった。

翌年からは、この時に出会った仲間たちと共に、和太鼓の演奏や作曲も手掛けるようになった。これをきっかけに、米国の他州の和太鼓グループとのネットワークも一気に広がった。

しかし、2008年6月に大学を中退してしまい、新之助は太鼓からは遠ざかることになる。日本に帰国した彼は東京で暮らし始めた。将来の目標が定まらないまま、イベントの裏方や居酒屋でのアルバイトで糊口をしのぐ日々を2年ほど過ごした。新之助は精神的に追い詰められていた。それで、とことん悩み抜いた末、一つの考えがひらめいた。

「それまでは『自分は何がしたいのか?』で苦悩していました。が、ある時、『自分は何ができるのか?』と発想を転換してみたのです。すると、脳裏にふと浮かんだのが『太鼓』だったのです」

太鼓を仕事にすれば、きっと続けられるはず。その思いが新之助を突き動かした。早速、「太鼓」と「仕事」をキーワードにネット検索すると、京都に本社があり、全国で太鼓教室を展開する「太鼓センター」がヒットした。すかさず電話を入れ、面接をしてもらえることになった。

こうして彼は同センターが運営する「TAIKO-LAB」青山教室のアルバイトとして採用された。2010年のことだった。太鼓教室の会員や体験レッスンの顧客対応とフォローアップ、書類整理などが主な業務だったが、非番や休憩時間には、初級クラスでの無料レッスンの受講や空きスタジオでの練習も自由にさせてもらえた。

米国留学時代の熊谷新之助氏(後方左から3人目)(熊谷新之助氏提供)
米国留学時代の熊谷新之助氏(後方左から3人目)(熊谷新之助氏提供)

台湾で和太鼓奏者・指導者として独立

1年後には新之助は正社員となった。しかし、会計担当に任命され、講師コースからは外れてしまう。内心は複雑だったが、和太鼓と関われることはそれでも救いだった。この年、太鼓センターは台北支部を仮立ち上げしていた。

ところが、翌2012年2月に台北駐在員が急きょ、退職することになり、後任は社内公募となった。新たな土地で自分の見識を広めたい。米国での留学経験があり、元々海外生活に抵抗が無かった新之助が手を挙げると、あっさり台北赴任が決まった。当時付き合っていた彼女には、夏には台北に呼び寄せるとの約束をし、プロポーズもした。こうして、4月には台湾へと飛び立った。

着任当初は台湾での事業展開の方向も定まっていなかった。台湾の言葉も、生活習慣や文化に対する知識も、仕事の現場でたたき込んだ。紆余(うよ)曲折を経ながらも、新竹の企業とフランチャイズ契約を結ぶことになった。

また、台北中心部のヨガ教室の地下スペースを借り、和太鼓教室もオープンさせた。日本からはベテラン講師が派遣されて、指導に当たった。翌2013年にこの講師が任期満了で帰国すると、新之助は講師も兼任することとなった。

2014年の夏、合宿研修のため、新之助が一時帰国した時だった。そこで彼を待っていたのは、台北支部閉鎖と京都本部への異動の知らせだった。青天の霹靂だった。しかし、新之助は台湾にとどまって、講師を続ける決意をする。

「生徒たちの顔が浮かびました。ここで辞めてしまったら、生徒に申し訳ないと思いました。また、台湾は太鼓奏者の裾野は広いのですが、技術が伴わないことも多く、このままではもったいないとも思ったのです」

従来、台湾では「太鼓は子どもがやるもの」、「廟(びょう)などで社会更生のためにやるもの」との固定観念も根強かった。この状況を打破したいとの思いもあった。新之助は「和太鼓熊組」を旗揚げして独立した。幸い、ほとんどの生徒が残ってくれた。

熊谷新之助氏が立ち上げた「和太鼓熊組」(熊谷新之助氏提供)
熊谷新之助氏が立ち上げた「和太鼓熊組」(熊谷新之助氏提供)

2015年には教室を現在の新北市板橋区へと移転した。台湾の奏者たちと太鼓演奏グループ「奏流(そうる)Taiwan」も結成し、イベントへの出演依頼も次第に増えていった。

「自分は『太鼓はたたくな、鳴らせ』とたたき込まれてきました。台湾の太鼓は『動きを見せる』のが主流で、スピードやテクニックが重視されます。一方、和太鼓は『力強さ』の表現や、『魂を込める』という精神性に重きを置きます。力を抜いてバチを振り抜くことで、初めて心に響く音が生まれるのです」

太鼓演奏グループ「奏流(そうる)Taiwan」(熊谷新之助氏提供)
太鼓演奏グループ「奏流(そうる)Taiwan」(熊谷新之助氏提供)

次の目標は和楽器の総合教室設立と邦楽ネットワークの構築

台湾での生活も9年目に入った。台北に赴任した年の夏、約束通り一緒になった夫人との間に授かった3人の子どもたちは皆、台湾生まれだ。自由度が高く、多様性がある台湾で、これからも家族と一緒に暮らしていくつもりだ。ただ、一つだけ気掛かりなことがある。

「台湾では太鼓に限らず、受け身や指示待ちの姿勢がよく見られます。ある楽曲を練習して演奏できるようになると、そこで満足してしまいがちです。より魅力的に演奏するにはどうしたら良いのか、その先にある世界を自ら探求してほしいのです」

「和太鼓熊組」の演奏(熊谷新之助氏提供)
「和太鼓熊組」の演奏(熊谷新之助氏提供)

太鼓ユニット「音阿弥(おんあみ)」(熊谷新之助氏提供)
太鼓ユニット「音阿弥(おんあみ)」(熊谷新之助氏提供)

新之助は最近、篠笛(しのぶえ)の演奏にも力を入れ始めた。台湾では和太鼓や三味線などの和楽器は、別々の教室で単体として教授されるのが通常だ。彼は和楽器の総合教室の立ち上げと台湾での邦楽ネットワークの構築を次の目標に掲げている。

最後に、最も尊敬する和太鼓奏者を尋ねると、太鼓ユニット『音阿弥(おんあみ)』で活躍し、台湾にも招請したことのある古立ケンジ、西片翠敬、江上るうの3人の名を挙げてくれた。

「古立先生からは技術に裏付けされた舞台での所作の美しさ、西片先生からは現代的な中にも和の柔らぎを表現した楽曲の独創性、江上先生からは力強さと華麗さを併せ持つ表現力を学びました。古立先生からは、台湾の環境は生ぬるいとのお叱りまでいただき、背筋が伸びました」

「常に上を向く」を信条とする熊谷新之助。5年後、10年後の彼は、どこまで師たちの背中に近づけているのだろう。筆者の新たな楽しみがもう一つ増えた。

バナー写真=熊谷新之助氏と「和太鼓熊組」のメンバー(熊谷新之助氏提供)

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