私がロシア人の妻と子供と共に、モスクワから「逃亡」した理由

国際・海外

ソ連崩壊直前の1990年から28年間、モスクワに住み続けていた国際関係アナリストの北野幸伯氏は2018年11月、ロシア人の妻と子供達と共に日本に居を移した。海外在住のメルマガ発信者として無類の人気を誇っていた北野氏にとっては、切実なある理由があってのことだった。その理由とは?

家族にも恵まれ、快適だったモスクワ生活

私は2018年11月、28年住み慣れたモスクワを離れ、日本に帰国した。
なぜ私はこの決断を下したのか?
このことを書くことで、皆さんのロシア理解が深まることを願っている。

私は1970年、長野県松本市に生まれた。
1990年、モスクワに渡り、ソ連(後にロシア)外務省付属モスクワ国際関係大学に入学した。

留学したタイミングは最悪だった。
翌1991年12月、ソ連という国家自体が消滅してしまったのだ。
それでも「国家消滅」、「その後の混乱」、「復活のプロセス」を目撃できたことは、「貴重な体験だった」と言える。

1996年、私は日本人として初めてモスクワ国際関係大学を卒業。
その後もモスクワに残り、さまざまな仕事を経験した。

1999年、メールマガジン「ロシア政治経済ジャーナル」を創刊。
このメルマガは現在、読者数が61,000人。
2015年には、「まぐまぐ(メールマガジン配信サービス)大賞」で「総合大賞」を受賞。
この年の「日本一のメルマガ」に認定されている。

趣味で始めたメルマガだったが、やがて出版のオファーも来るようになった。
2005年に一冊目の本、『ボロボロになった覇権国家』を発売。
以後、15年間で12冊の本を出版している。

プライベートでは2008年、10年つきあったロシア人女性(日本語通訳)と結婚。2011年に長女が、2015年に長男が生まれた。
本稿を読まれている方は意外に思われるかもしれないが、モスクワでの生活は快適だった。
私は28年間、モスクワに住んでいたので断言できるが、ロシア人はかなり親日である。
日本人だというだけで、とても大切にされる。
その点、中国、韓国とは違うのだ。

では、なぜ私はモスクワを離れることにしたのだろうか?

テレビ局はすべてクレムリンの傘下

理由はロシアのインターネット規制が強化されたことだ。

ソ連時代、言論の自由は一切なかった。
今の北朝鮮と大差なかっただろう。

ソ連が崩壊すると、今度はユダヤ系の新興財閥(オリガルヒ)がメディアを支配するようになる。
「クレムリンのゴッドファーザー」と呼ばれたベレゾフスキーは、国営テレビ「ORT」(現在、1カナル)を支配した。
「ロシアのメディア王」と呼ばれたグシンスキーは、自らが創業した「NTV」を、民放最大手に育て上げた。

ロシアでは90年代、新興財閥のメディア、金融、経済支配が強まり、国民の反感が高まっていた。
その「新興財閥嫌い」の波に乗って登場したのが元FSB(KGBの後身)長官のプーチンだったのだ。

2000年、大統領に就任したプーチンは、即座に新興財閥との戦いを開始した。

敗れたベレゾフスキーはイギリスへ、グシンスキーはイスラエルに亡命。
プーチンはベレゾフスキーのORT(現1カナル)、グシンスキーのNTVへの支配権を確立した。

現在、ロシアの「3大テレビ局」と言えば、国営「RTR」、「1カナル」、そして、民放「NTV」である。
NTVは「民放」と言うが、最大の株主は国営ガス会社ガスプロムだ。
だから、「全部国営」、「全部クレムリンの傘下」と言って間違いない。
そのためロシアのテレビで、「プーチン批判」が聞かれることは決してない。

ロシアには首相、閣僚、地方知事などを批判する自由はある。
しかし、「プーチンを批判する自由」は存在しない。
特にテレビでは、それが徹底している。

そしてインターネット規制が強化された

では、インターネットはどうだろうか?

実を言うと、ロシアのネットメディアには、2017年ぐらいまではかなりの自由があった。
クレムリンはネットの力を過小評価していたのだろう。
そのせいで、いつの間にかネット、特にYouTube で、反プーチン勢力が圧倒的なパワーを持つようになり、「実害(プーチンにとって)」を与えるようになってきた。

たとえば、ロシア一の政治ユーチューバー、アレクセイ・ナワリヌイ(チャンネル登録者数377万人)が2017年3月に投稿した、「Он вам не Димон(オン・ヴァム・ニ・ディモン、意味は「メドベージェフはいいヤツなんかじゃないよ」)」という動画は、メドベージェフ(当時首相)が複数の超巨大別荘を所有していることを暴露している。

これまでに再生回数は3500万回を超えた。
ロシア語の動画なので、見たのはほとんどロシア人だろう。
この国の人口は約1億4600万人なので、ロシア人の約4人に1人が見たことになる。
それで、「真相究明」を求める大規模デモがロシア全土で起こった。

ロシア政府はデモ参加者の要求を徹底的に無視し続けることで、この危機を乗り切った。
しかし、国民の多くがプーチン政権に幻滅したことは間違いない。

プーチンはこの事件で、「ネットメディアのパワー」を実感したのだろう。
そして、クレムリンが「ネット規制」に動き出すのは、不可避な流れだった。

メディア統制の強化をはかるプーチン政権。ついにはインターネットにも規制の手が及びはじめた
メディア統制の強化をはかるプーチン政権。ついにはインターネットにも規制の手が及びはじめた(Sputnik/共同通信イメージズ「スプートニク」)

ネットの規制は徐々に強化され、私の生活にも実害が出始めた。
たとえば、日本のアマゾンの画面が開かなくなり、私は自分の本の売り上げをチェックできなくなった。
あるいは、「まぐまぐニュース」が開かなくなり、自分の記事が確認できなくなった。

しかし、まだ私の生活に「壊滅的打撃」があったわけではない。
問題はネット規制が「一時的な現象」なのか、それとも「さらに強化されていくのか」ということだ。
私はロシアの過去と現状を分析し、「ネット規制はさらに強化されていく」と予測した。
執筆生活を続けていくことが難しい環境になっていくだろうと。
それで私は2018年はじめ、「日本に完全帰国する」という目標を立てた。
そして、この年は何度も日ロ間を往復し、同年11月、家族と共に帰国を果たしたのだ。

28年ぶりの日本での幸せな生活

こうして、日本での新しい生活がはじまった。
我が家の中で、もっとも負担が大きかったのは娘だった。

モスクワで小学1年生だった娘は、日本語をほとんど話せず、ひらがなを書けず、漢字を一文字も知らない状態で、日本の2年生に転入させられた。
学校に行き始めた最初の週は、「モスクワに帰りたい」と毎日泣いていた。
しかし、2年が経とうとしている今、楽しそうに学校に通っている。
親しい友達も何人かいるようで、親としてはひと安心だ。

帰国時、3歳だった息子は幼稚園の年少に入った。
3歳だと、言葉が話せなくても、他の子供たちと遊べるので、あまり心配はしていなかった。
そして、実際トラブルもなく、日本の子供たちとなじむことができたようだ。
子供たちの適応能力には今も毎日驚かされている。

日本に帰国してから横浜でベイクルージングを楽しむ北野家。後列右が夫人、前列右が長男、左が長女
日本に帰国してからベイクルージングを楽しむ北野家。後列右が夫人、前列右が長男、左が長女(北野幸伯氏提供)

妻も、そこそこ楽しく生活しているようだ。
彼女はもともと日本語がペラペラで、1年半、日本の大学院に留学した経験もある。
それで、私はそれほど心配していなかった。
今では幼稚園ママ、小学校ママ、在日ロシア人ママのLINEグループに属し、情報交換を楽しんでいる。

執筆中心の私の生活は、モスクワにいたころとあまり変わらない。
しかし、距離が近くなったことで仕事が殺到し、ずっと寝不足の日々が続いている。

28年ぶりに日本に戻り、特に私は幸せに暮らしている。
モスクワの生活も快適だったが、「やはり日本は違う」と思う。

日本の一番の良さは、やはり安全だろう。
モスクワの親は普通、子供が12歳になるまで、学校への送迎を行う。
危険だからだ。
日本では小学一年生が一人で登下校している(電車で登下校する子供も多い)。
すべての外国人はこの事実を知って驚愕し、多くの国でさまざまな特集番組が制作されている。

しかし、安全な日本は勝手にできたものではない。
先人の絶え間ない努力によって、創られたのだ。
今後は安全な日本を守るために、微力ながら貢献していこうと考えている。

(敬称略)

バナー写真:ロシア人の夫人(左)と長女(中央、当時1歳)と筆者(北野幸伯氏提供)

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