台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「人間万事塞翁が馬」編集者・ライター 二瓶里美

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商社から語学教材出版社勤務を経て、2014年、日本人の旅行者や在住者に向けて、観光やグルメ、ショッピングの他、台湾に関する幅広い記事を掲載する情報誌「な~るほど・ザ・台湾」編集長に就任した二瓶里美さん。2018年に同誌は休刊してしまうが、外国語教材を扱う地元台湾の出版社に転職。台湾で学んだトライ・アンド・エラーの精神と、「人間万事塞翁が馬」の心構えで日々を過ごす。

二瓶 里美 NIHEI Satomi

福島県生まれ、横浜市育ち。桜美林大学卒業後、商社勤務を経て上海外国語大学、天津外国語大学に1年半留学。帰国後に語学教材専門出版社アルクに入社。2005〜2013年には「中国語ジャーナル」の編集を担当。2014年に台湾の日本語月刊誌「な〜るほど・ザ・台湾」の編集長として台北に移住。現在も台湾の出版社で編集の傍ら、台湾出身の芸能人インリンのマネージャーも担当。2020年5月には張克柔氏との共著で『日本人が知りたい台湾人の当たり前 台湾華語リーディング』(三修社)を刊行。

中国留学中に学生の学ぶ姿勢に衝撃を受ける

二瓶里美は福島県いわき市で生を受けた。幼少期は横浜で育ったが、夏休みには決まって福島県石川郡石川町の母方の実家や伯母宅で過ごした。あぜ道のカエルの鳴き声や鎮守の杜のせみ時雨、盆踊りの祭ばやし、そして、何より祖父母や伯父伯母の話す福島の方言の響きが好きだった。二瓶の言語に対する興味は既にこの頃から培われていた。

大学では中国語・中国文学を専攻した。卒業旅行は短期留学も兼ねて北京語言学院(現・北京語言大学)で数週間を過ごした。思った以上に水が合うと感じた。ドラム缶で調理した焼き芋が売られていた「胡同」と呼ばれる下町の路地からは、高層ビル群が顔をのぞかせていた。都市と田舎、現代と伝統が混在しながらまい進する中国の勢いに目を見張った。

卒業後は商社に4年間勤めた。この間も言語への関心は高まるばかりだった。1997年の夏、満を持して上海外国語大学への留学を決意する。生活は楽しかったが、キャンパスには日本人留学生があふれ、街角では方言の上海語が飛び交っていた。中国語の標準語である「普通語」を習得する環境には向いていないと感じた。1年後には日本人が比較的少なく、北京にもほど近い天津外国語学院(現・天津外国語大学)に転学した。

天津ではあえて他の日本人留学生たちとは距離を置き、日本語学科の中国人学生との「言語交換(お互いの母語を教え合うこと)」に力を入れた。彼らの日本語を学ぶ熱意や姿勢に衝撃を受けた。

「大学4年間で外国語で高度な意思疎通が可能となることがどれだけ大変か。プライバシーもほとんどない大部屋の寮に寄宿する彼らは、早朝の校庭を歩きながら寸暇を惜しんで教科書を暗唱していました。二宮金次郎のような姿に頭が下がる思いでした」

自分の中国語がある程度上達したと実感した二瓶は、そのまま中国に留まって就職することも考えた。しかし両親の反対に遭い、結局、1999年初めに帰国し、東京で就職しながら引き続き翻訳の専門学校に通うこととした。

中国留学時代の二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)
中国留学時代の二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)

編集者としてのキャリアがスタート。インリンのマネージャーにも就任

2000年に語学教材専門出版社のアルクから月刊誌「中国語ジャーナル」が刊行されると、中国語学習者の間で大きな話題となった。その購読者となっていた二瓶は、2年後、同社のカスタマーサービス部で求人があることを知り、応募すると採用された。編集部門ではなかったが、中国語を扱う業界に身を置けるのはうれしかった。同僚にはいつか中国語を使った仕事をしたいとこぼしていた。それが通じた。2005年初めに「中国語ジャーナル」の編集部に二瓶は異動がかなった。

「同誌の歴代編集長が自分の恩師です。古市眞人さんにはチャンスをいただき、海老沢久さんには育てていただいて、自分が目指す編集者像が形になりました。服部浩之さんからは広い視点で物事を捉えることを学びました」

「中国語ジャーナル」(二瓶里美さん提供)
「中国語ジャーナル」

映画評論、料理、エンタメの記事編集を担当し、著名人の取材では事前の段取りをつけることも仕事だった。人生初の取材では、対象者の急な日程変更で母語話者のインタビュアーの都合がつかず、自ら中国語でインタビュアーを務める事態にも陥った。しかし、台湾のドラマやアイドルがもてはやされた「華流」ブームにも乗り、仕事は順調だった。

「編集の仕事は当初は我流でしたが、現場でもまれました。毎回取材対象の方に魅了されては、その方のファンになりました」

その取材対象の一人に、タレントでハッスル(プロレス興行)ではプロレスラーとしても活躍したインリン(垠凌、当時の芸名はインリン・オブ・ジョイトイ)がいた。気さくな人柄で冷静に等身大の自分を語る姿に好感を持った。これが縁で2007年からは、インリンによる台湾情報の連載が同誌で始まり、二瓶が編集を担当した。2011年にインリンが台湾に帰国した後も二人の交流は続き、2015年からは、二瓶がマネージャーとして彼女の日本関係プロジェクトの窓口を担当するようにもなった。

インリンさんに話を聞く二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)
インリンさんに話を聞く二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)

一時代を築いた「中国語ジャーナル」だったが、2013年春に休刊となった。これに伴い、二瓶は書店営業部に異動となり、自社の書籍販売を裏方で支える立場となった。

台湾に渡り、老舗情報誌の編集長として活躍

その翌年のことだった。「中国語ジャーナル」の執筆者でもあった知人から、台湾の日本語月刊誌「な〜るほど・ザ・台湾」の編集長ポストの話が舞い込んだ。履歴書を送ると、その翌週には台湾から社長自らが飛んで来て面接を受け、トントン拍子で話が決まった。2014年7月、二瓶は再び海を渡った。

「台湾には何度も出張で来ていましたし、親しみも感じていました。そもそも老後に住みたいと思うほど好きな場所だったので、台湾で働くことに抵抗はありませんでした」

台湾では編集現場の慣習の違いに戸惑うことも少なくなかったが、「郷に入れば郷に従う」ことにした。また社長の意向を受け、観光情報を増やし、よりソフトで親しみやすい誌面づくりを目指した。デザインや記事内容を一新し、同誌の誌面改革に手腕を発揮した。すべてが順風満帆に見えた。

しかし、主な読者層である日本人駐在員の減少、紙媒体からウェブ媒体への移行、フリーペーパー自体の運営の難しさなどが重なり、2018年4月号を最後に同誌は休刊となった(ただし、経営者が変わり、2020年4月に復刊)。二瓶は当時をこう振り返る。

「経費削減のため、慣行を打破してオフィスを持たない選択もあったと思います。自分の考えを押し通せたとしても休刊を免れたとは限りませんが、自分にもっとできることがあったのではないかとの思いが今もよぎります。経営陣の判断は妥当だったと思いますし、本当に良くしてもらったので経営陣と同僚には感謝しかありません」

「な〜るほど・ザ・台湾」を発行していた出版社の皆さんと(二瓶里美さん提供)
「な〜るほど・ザ・台湾」を発行していた出版社の皆さんと(二瓶里美さん提供)

その後、二瓶は外国語教材を扱う地元の出版社に編集者として迎えられた。「捨てる神あれば拾う神あり」だ。また、2020年5月には、台湾の翻訳・通訳の第一人者、張克柔氏との共著で『日本人が知りたい台湾人の当たり前 台湾華語リーディング』を三修社から刊行した。台湾の歴史や文化、生活習慣などを日本人と台湾人との対話を軸に解説し、日本語と台湾華語の対訳でつづられている同書は実用書でもあり、学習書でもある。二瓶の編集者としての経験や視点も随所にちりばめられているユニークな一冊だ。

『日本人が知りたい台湾人の当たり前 台湾華語リーディング』を手にする二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)
共著者の張克柔さんと一緒に『日本人が知りたい台湾人の当たり前 台湾華語リーディング』を手にする二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)

執筆情報に対する敬意低下を憂う

ところで、紙離れが進むと言われる出版界の将来を二瓶はどう見ているのだろうか。

「紙の本の強みはデバイスが不要なことです。作者のサインがもらえ、飛ばし読みもできます。完全には無くならないでしょう。一方、印刷が不要で人やモノのコストが抑えられるので、デジタル化は加速するでしょう。その性質上、情報は細かく切り取られ、例えば「note」のように、自分に必要な回の情報だけを買えるようになれば、消費者にとってはメリットが大きいですよね」

現在の市場設定では、紙媒体よりデジタル媒体の価格が抑えられ、購入時に二者択一を求められる。これを実店舗購入特典として、紙媒体の購入時にはいくばくかの金額をプラスすることでデジタル媒体もセットで入手できるようにし、読者による媒体の使い分けを可能とすることで実店舗とオンライン書店の両者は共存できると二瓶は考えている。また、無料の情報があふれる時代の利便性の陰で、執筆情報に対する読者の敬意の低下が著しいことには警鐘を発する。

「専門性や実績の積み重ねが反映され執筆された創作物には、その敬意の対価として著者や版元に還元される形で支払いがなされるべきです」

出版物の貸出しを目的とした図書館やレンタル書店では、貸出し回数ごとに版元に料金が還元されるか、最初から高い購入価格に設定にするなどの措置を採り、版元と実店舗を守る制度も提唱する。二瓶の出版物への愛は深い。最後に座右の銘を尋ねてみた。

「台湾に来て、トライ・アンド・エラーの精神を学びました。「中国語ジャーナル」の休刊で異動した部署では、出版業界全体の流通を理解できました。「な〜るほど・ザ・台湾」が休刊した際も、転職先では残業も無く、他の案件依頼が増え、運動の習慣もでき、健康状態は改善されました」

どんなことがあっても、落ち込み過ぎず、また慢心せず、淡々と過ごしていきたいと語ってくれた二瓶は、自らの半生を評して「人間万事塞翁が馬」と締めくくってくれた。

二瓶里美さんが手掛けた「な〜るほど・ザ・台湾」のバックナンバーの表紙(二瓶里美さん提供)
二瓶里美さんが手掛けた「な〜るほど・ザ・台湾」のバックナンバーの表紙(二瓶里美さん提供)

バナー写真=二瓶里美さん(二瓶里美さん提供)

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