「台湾」で李登輝を研究する難しさ

国際

2020年7月30日、台湾の李登輝前総統が亡くなり、その死は日本でも大きな衝撃とともに報道された。その訃報が報じられてから、彼の功績についてあらゆるメディアでさまざまなエピソードとともに語られており、これからさらに特集が組まれたりするだろう。この大きな節目に際し、大学院時代から李登輝のことを研究してきた若手の研究者である自分にしか書けないものは何かと考えたうえで決めたテーマは「台湾で」李登輝を研究することに関する独特の難しさについてである。

日本であまり知られていない台湾国内で割れる李登輝の評価

李登輝こそ「中華民族の偉大な復興という中国の夢」の中核にある中台統一を遠ざけようとする「国賊」だと考えている中国はさておき、海外(少なくとも欧米圏)では、李登輝は台湾民主化への道筋を作った「ミスター・デモクラシー」というポジティブな文脈で語られる。日本ではその要素に加えて、彼の「日本愛」が「親日」と称されて紹介される。著作も多く出版されているため、総統退任後も彼から直接教えを請うために、台湾の彼のもとを訪れる日本人は絶えることがなかった。私自身もある時は団体に混じり、ある時は単独で彼の話を聞きに行った。

人々は、戦前の旧制高校エリートである彼の博学多識な話ぶりに圧倒されほれ込む一方、一部の人々が李登輝のあふれる「日本愛」を自分たちに都合よく解釈し消費してしまうこともあり、日本の真の意味での台湾理解を阻むのではと研究者として懸念を抱いていた。

台湾において李登輝がどのように評価されているのか、今回の台湾国内の報道を見ていると、やはり大多数は民主化への貢献が強調されているように思う。ただし、李登輝が元々所属していた国民党の人々の反応はさまざまだ。李登輝が推し進めた台湾の民主化は同時に中国とは異なる台湾色を打ち出した。李登輝時代が今の台湾の主体性への道筋をつけたことには間違いない。国民党側からすると「国民党を散々利用して、弱体化させた恩知らずの裏切り者」という印象が消えないだろう。

私の李登輝研究とそのきっかけ

私の李登輝研究は英国の修士課程にいた頃から始まっている。大学での専攻であった東アジア地域研究から一歩踏み込み、中国を専門的に研究していこうと英国の大学院の中国研究修士課程に進んだ。しかし講義を受けているうちに、中国よりも台湾に興味をひかれた。修士論文で何を書こうかと考えた時に李登輝のことがまず初めに浮かんだ。当時、日本で台湾に関連する書籍は今ほど多く出版されていなかったが、彼の本だけはなぜかたくさん出版されていた。一般的な台湾初心者が手を伸ばす本は、歴史作家司馬遼太郎の『街道をいく 台湾紀行』(1994年)、李登輝の『台湾の主張』(1999年)、そして台湾でも多くの物議を醸し出した漫画家小林よしのりの『台湾論』(2000年)だったように思う。私もそれらの本を読んだ一人だった。

私は李登輝自身の著作をはじめ、彼に関連する日本語の本を全て取り寄せて読み、その内容に共鳴し、当時仲良くしていた台湾人の友人たちが住むフラット(集合住宅)に行き「私、李登輝さんのことを修士論文のテーマにしようと思うの。」と興奮気味に話した。彼らは私が台湾のことを修士論文のテーマにすることを心から喜んでくれたが、お互いの顔を見合わせながら私にこう言った。「志保が修士論文に台湾のことを書いてくれるのはうれしい。でも私たちはあまり彼のことが好きではないの」。

この言葉が私を李登輝研究に駆り立てた。日本や欧米圏での李登輝への評価と外にはあまり伝わっていない台湾のリアルな空気感のギャップに、研究に値する何かがあると感じ、その後「Lee Teng-hui and his double identity」(李登輝と彼の二重アイデンティティー)という修士論文を書いた。中華民国総統である彼自身が持っている2つのアイデンティティー(日本と台湾)が台湾政治を混乱させる要因を作っているという趣旨の論文だった。

台湾での研究拠点探しの難しさ

修士課程を修了した2003年、台湾に語学留学をすることに決めたが、SARSの余波もあり、実際は翌2004年の2月から台湾に留学することになった。英国や日本での資料集めには限界があったので、本場台湾で研究を始めることができることにワクワクしていた。語学学校の初級に近いクラスからスタートして1年後には台湾の大学院の博士課程で研究をするのだと先生に伝え、必死で勉強をした。

どこの大学に入るのか、そしてどの研究所に入るのか悩んでいた頃、台湾人の友人に誘われて台湾大学日本語文学系の何瑞藤名誉教授の日台文化比較の授業を聴講させていただくことになった。何先生に今後のことを相談させていただき、どこに申請書を出すのか決めた。何先生は私が希望する台湾大学国家発展研究所の所長をよく知っているからと言ってアポイントを取り、私は緊張しつつ会いに行った。

私は当時の所長に自分が今までしていた李登輝研究とそれに対する熱意を、つたない中国語を補うように英語でアピールし、ここで研究がしたいと述べた。そうするとここでもまた、思いがけない一言を最後に言われるのだ。「這裡沒有你的位子。(ここにあなたの居場所はありません)」。しかるべき方からの紹介を経てそこに向かったのに、私は自分の何が悪かったのかと、とても混乱した。

その後、紆余(うよ)曲折を経て、私の居場所がないはずの台湾大学の国家発展研究所の博士課程に入った。ちなみに出願の際に書いた論文計画書は日本統治時代の台湾議会設置運動に関連するものだ。李登輝に関しては、論文計画書の最初のページに赤文字で「私は修士時代に李登輝研究をしていましたが、それは李登輝の思想や考えに賛同していたわけではなく、李登輝を研究対象として捉えていたものです」と書いて直筆のサインをした。李登輝が総統を辞めてから数年しか経過していないあの時点では、台湾の中で李登輝時代を冷静に振り返ることはまだ難しかったからだった。それでも、純粋な研究の場だと思っていた大学で、一外国人留学生の私にまで降りかかってくる問題だとは思いもしなかった。台湾では、各先生がそれぞれどの政党を支持しているのか、それを把握した上で議論を行うことは、たとえ外国人の留学生でもそれは必須のマナーなのだと後から思い知った。

私は博士課程に入ると元の李登輝研究に戻った。それには戦略的な理由があった。まず、やはり台湾政治に関する知識量やリソースへのアクセスは優秀な台湾人の学生にはどんなに頑張っても勝てないだろうと思った。日本人の私が台湾政治を研究する上で、台湾人の学生にまねできないものは何かを考えると、必然的に李登輝研究となった。李登輝の重要著作は日本語で書かれている。李登輝研究をするには日本語をかなりのレベルで理解しなければ難しい。李登輝に迫るには「日本語」で「日本人」であることが強みになる、そう考えた。もちろん、反対に日本人だからこそ見えないものもある。しかし、台湾の大学で、外国人が台湾政治を研究し、博士号を取得するためには、それなりの覚悟が必要だった。

李登輝との対話

台湾に来て数カ月後、まだ語学学校の学生だった私は何教授のご紹介により李登輝と初めて会うことになった。当時開催されていた「李登輝学校」の授業の合間の休憩時間に会ってくださるとのことだった。多分15分ほどの時間だったと思う。小さな休憩室へ入ると、李登輝さんはそこにいた。私の経歴を聞いていたのか、私への第一声は英語だった。私もそれに合わせてしばらく英語で話をしていたのだが、私は最後に日本語で「今後もあなたのことを追いかけて研究をしたいと思っています。よろしくお願いいたします」といった。すると李登輝は「私が死んでからの方がいいんじゃないですか?」と私の目を見て言った。私はあわてて「いいえ、私はあなたから伺いたいことがたくさんあるのです。まだ死んでもらっては困ります」と答えた。

その後、何度か日本の大学生の団体の中に入れてもらって台北北部淡水の財団法人李登輝基金会のオフィスを訪問したりしていたが、面白いことに毎回李登輝の印象が変わった。その博識ぶりに圧倒される時もあったし、質問をしてもきちんと答えてくれない、自分が話したいことだけをとうとうと話すので、消化不良でもやもやとしながら帰る時もあった。

私が最後に李登輝と会ったのは博士論文に関連するインタビューのために自宅に伺った2013年の3月だ。何教授に付き添っていただいたので、当初二人は昔話をしたり、お孫さんの話をしたりしていた。私はかなり準備をしてインタビューに備えたのだが、やはり時間は雑談でどんどん過ぎていく。本来1時間程度の面会を予定していたはずだが、いつの間か2時間過ぎ、そこではじめて李登輝に「あれ、2時間がたってしまったね。それで、あなたが聞きたいのはなに?」と言われた。そこから話をして結局聞きたかったことを全て聞くことができたわけではなかったが、私のために用意してくださった手書きのメモをいただき、それは論文のための貴重な資料となった。

2013年、面会した李登輝前総統(中央)と筆者(右)(筆者提供)
2013年、面会した李登輝前総統(中央)と筆者(右)(筆者提供)

李登輝が語る「私たち」は誰なのか

李登輝を研究するというのは本当に難しい。博士論文を書き上げた当時、世界中で出版されている李登輝の本は玉石混淆(こんこう)ではあったが100冊以上あった。私は最終的に「李登輝言論集」という李登輝の演説を全て収録した全集のうち総統在任時期(1988年から2000年)までの言論、スピーチを全て読み、その中で語られる「私たち」「彼ら」は誰なのか、そこに誰を包括して誰を包括していないのか、その12年間の変化、そして「台湾という場所」を「中華民国」という言葉を使用せずに語る時どのような語彙が使われてきたのかをつぶさに分析し、博士論文「李登輝と台湾アイデンティティー」を書き上げた。

ちなみに現在私たちが総統のスピーチで耳にする「台湾人」という言葉は李登輝時代にほとんど出てこない。「台湾人」という言葉が李登輝の演説の中で使われたのは12年間で50回。しかもその50回においてもそれぞれの文脈上の意味合いは、「日本統治時代の台湾人(統治者の日本人と非統治者の台湾人という階級意識)」、司馬遼太郎の対談の際に出てきた「台湾人に生まれた悲哀」に関する言及、「省籍問題としての外省人と本省人(台湾人)の対立」、1998年の台北市長選以降大きく取り上げられた多民族社会台湾を自由、民主、人権などの共通の理念や理想を持つ集団としてまとめるシビック・ナショナリズムとしての「新台湾人」のいずれかだ。現在私たちが違和感なく使用しているナショナル・アイデンティティーの意味合いの強い「台湾人」とは異なっていた。

私は李登輝の最も偉大な功績の一つは、彼が一国のリーダーとして「台湾人」に関する言論を率先して行なってきたことが台湾人のナショナル・アイデンティティー構築、台湾人の主体性構築に深く影響を及ぼしたことだと思っている。1988年から2000年までの彼の演説には試行錯誤が見える。台湾人のアイデンティティーを確立させたいという思いと中華民国の総統として中国人(中華民国の中国人)のアイデンティティーを代表する立場であるという思い、その微妙な狭間で言葉を慎重に選び、時には失敗し批判をされ、それでも少しずつ言論の範囲を広げてきた。長く続いた戒厳令や白色テロの影響の中、人々が自分の意見を大きな声で語れない中、李登輝さんの言論で「あ、これは言ってもいいのだ」「これはダメなのだ」とある程度分かりやすい指標を示す役割を果たしていたと思う。

博士論文審査の際、私のデータを見て審査していた各先生は二つの意見に分かれていた。一つは、李登輝の台湾アイデンティティーに関連する言論は全て計画的であったという説。もう一つは試行錯誤を繰り返すうちにたどり着いた結果という説だ。私はひとまず後者の方ではないかと思っている。

初めてお会いしたとき、私に「私が死んでからの方がいいのではないですか」と言った李登輝前総統は本当に私たちの前からいなくなってしまった。私は、何度かお会いして対話する機会に恵まれたけれども、李登輝という人間には、構成する重要な要素が多すぎて余計に混乱することが多かった。疑問に思ったことを直接聞いて答えが分かると思いきや、話をしているうちに今まで気が付かなかった課題に気付かされ、あれも調べなければ、これも調べなければということになる。本当に一筋縄ではいかない研究対象だった。だからこそこれからも研究する価値があると思っている。

英国で司馬遼太郎の『台湾紀行』を手に取り、司馬遼太郎と李登輝の対談「場所の悲哀」を読んで感動してから台湾研究を始めた一学生は、今も相変わらず「台湾政治研究」から抜けられないでいる。

バナー写真=李登輝氏(時事)

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