日本と台湾を結ぶ美酒「台中六十五」 : 島根で酒米作りから取り組む台湾人蔵人の物語

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台湾の日本統治時代に誕生したジャポニカ米「台中65号」でおいしい酒が醸造できると信じてきた筆者は島根県で酒造りに従事。その酒は国際的な賞をいくつも受賞、脚光を浴びている。酒米の栽培から醸酒まで、長きにわたり日本人が従事してきた伝統を台湾人蔵人が守る…農業と酒造りを巡る新たな日台交流の産声が上がろうとしている。

2020年、世界レベルで新型コロナウイルスがまん延する中、日本酒業界は前例がないほどの厳しい状況にある。毎年開催される100年以上の歴史を持つ全国新酒鑑評会が予選にあたる予審のみの開催となり、そのほか世界各国の清酒の品評会も中止または延期となった。

そんな状況下で戦前の台湾で開発された米「台中65号」を使って醸造した酒「台中六十五」が全米日本酒歓評会の吟醸部門の準グランプリを受賞した。「日台ハーフ」と言えるこの酒の名がついに世界に羽ばたいたのだ。

「台中65号」を使って作られた「台中六十五」シリーズ(筆者撮影)
「台中65号」を使って作られた「台中六十五」シリーズ(筆者撮影)

日本酒業界への第一歩

台北で日系企業の社長秘書として働いた後、私は子どもの頃から憧れていた日本へ飛んだ。2008年、28歳の時に島根大学に入学したのだ。日本でのキャリアをスタートするにはやや年をとっていたかもしれないし、何の力もない私にとって日本での道のりは決して平たんとは思えなかった。それでも、時間をかけて日本社会に溶け込む覚悟で、社会人になってから貯めていた貯金を元手にして、私は2回目の大学生活をスタートした。

留学先に島根を選んだのは、単純に日本の神話に興味があったからだ。また、地方なら生活費もあまりかからないという読みもあった。当時は、奨学金と学費の減免制度を利用しても、まったく生活に余裕はなかったが、自由があり、たくさんの友人と知り合うことができた。サークルの飲み会で、部長が松江の地酒を持ってきてくれたことがあり、私は一口飲んで、その豊かな味わいと香りのとりこになってしまった。台湾でも日本酒が出回っているが、紙パック入りであまり印象はよくなかった。島根の酒は、それまで私が知っていた日本酒とは全く別物だったのだ。しかし、あの時の酒が、私と日本酒との切っても切れない深い縁の始まりになるとは思いもよらなかった。

島根大学の大学祭「松風祭」に参加する筆者(筆者提供)
島根大学の大学祭「松風祭」に参加する筆者(筆者提供)

20歳そこそこの日本人の大学生に交じって、30歳過ぎの台湾からの留学生が就職活動するのはかなり目立った。しかも、当時は今以上に、外国人社員を受け入れる風潮もなかった。在学中に休学して働きに来ないかと言ってくれる企業もあったが、奨学金を受けている身であり、志も半ばだ。また、せっかく取った単位がもったいない気もしてその企業からの誘いは断った。何社かの面接を受けた後、就職活動で知り合った山口県の飲食業の社長が私の卒業後の進路と方向性を心配してくれていた。丁度、山口県岩国市の日本酒「獺祭(だっさい)」に興味を持っていたので、その社長が蔵元の「旭酒造」に問い合わせの電話をしてくれたのだ。

旭酒造で面接を受けたものの、その後、何の連絡もこない。そこで、当時の桜井博志社長(現会長)宛に「インターンシップに参加させてほしい」と直訴の手紙を書いたところ、1週間の実習生として迎えてくれた。その頃、「獺祭」は既に真夏の暑い時期も含めて通年で酒を仕込む「四季醸造」に取り組んでおり、1日に洗うコメの量は700キロ以上にもなっていた。酒造りの全ての工程を体験し、最終日に桜井社長から入社の意思を尋ねられ、私ははっきりとこの伝統ある業界に入りたいという思いを伝えた。こうして、2012年春、大学を卒業し旭酒造への入社を果たした。私は酒造り人生のスタートラインに立ったのだ。

旭酒造で酒米を洗米する筆者(筆者提供)
旭酒造で酒米を洗米する筆者(筆者提供)

酒造りの研さんの道

旭酒造での1年目は、少しでも早く日本酒の製造過程を覚えるために、各部門を回り勉強した。仕事の後には専門書を読み知識を得ようとした。極度の品薄状態を解消するため、旭酒造は2015年に酒造メーカーの常識を破る12階建ての工場で大量生産を始めたのだが、私が入社した当時は、建物は半木造で、いわゆる昔ながらの酒蔵だった。私はここで伝統と現代が共存する技術を学んだのだった。2年目には輸出業務にも携わった。台湾を中心に香港、シンガポールでもイベントを行った。だが当時、獺祭は生産が追いつかず、海外で売ろうにも売る酒がない状態だった。「やりたい気持ちはあるのにできない」というもどかしさの中、私は旭酒造を辞め東京の出版社へ転職することにした。

東京へ「逃亡」して1年、私はやはり酒造りの喜びを忘れることができなかった。そこで香港で知り合った島根県の李白酒造の田中裕一郎社長に連絡し、蔵人(くらうど)として酒造りを極めていきたいと思っていることを伝えた。私は留学時代に経験した島根での生活が気に入っていたし、台南出身であるせいか、神々の息吹に包まれた島根という場所が好きだった。田中社長は私の申し出に快く応じてくれて、2015年に私は再び島根に戻ることになった。こうして私は本格的に酒造りの道を進むことになった。東京農業大学卒の田中社長の方針は、酒造りの知識を持ち研究を進めることができる正社員の育成である。そんな李白酒造で私は知識と実際に現場で使われている技術をより深く結び付けることができ、国家資格である酒造技能士にも合格した。

李白酒造にて。蒸米に麹菌をまく「種きり」を行う筆者(筆者提供)
李白酒造にて。蒸米に麹菌をまく「種きり」を行う筆者(筆者提供)

戦前の台湾で生まれた米「台中65号」との出会い

日本酒業界に入ってしばらくたち、技術もある程度身についてきた頃のことだ。私は自分で1から新しい酒を造ったら、その酒はどんなものになるだろうと考えるようになった。酒造りはチーム戦だ。伝統的な酒造りは杜氏がリーダーとなって職人を率い、1つの目標に向かって一同で協力していくものである。杜氏になるなんて、当時の私にはまだずっと先のことのように思えた。

島根県に来る外国人旅行者数の中で、最も多いのは台湾人だ。だが島根県民の台湾への理解は決して高いとは言えなかった。2016年、島根県の人にもっと台湾を知ってもらうために、自ら費用を工面して台湾のイラストレーター「氫酸鉀(KCN)」さんの展示会を開催した。KCNさんは戦前の台湾で活躍した日本人を題材としたイラストの制作を中心に活動している。作品には日本と台湾の歴史的な関係が取り入れられているのだ。その展示会用に「台湾農業の父」と呼ばれる戦前の農学者・磯永吉の紹介文を書いているとき、私は戦前の台湾で開発された米「台中65号」のことを知った。しかも台中65号は島根の亀治米と兵庫の神力米を掛け合わせて誕生した米だったのである。亀治米と神力米は、日本で酒米として酒造りに使われることもある。私は台中65号には酒米になる可能性が秘められていると直感した。

台湾で栽培されるジャポニカ種のコメの総称を「蓬莱米」という。日本統治時代初期に登場した蓬莱米には日台の深い関わりがあり、そして台湾の食文化に大きな影響を与えたという歴史がある。蓬莱米の普及により、台湾の食生活は細長いインディカ米から丸い粒のジャポニカ米へと変化したのだ。そこで、私は台中65号で自分の酒を造ろうとひらめいたのだった。

蔵人の修行は水田から始まった

酒造りは奥が深い。昔の蔵人は夏場は農業に従事し生計を立てていたとことから、蔵人は米にも精通していることが求められた。つまり酒造りへの精進のためには、米作りも避けて通れないのだ。

台中65号で酒を造りたいと考えた私は種もみ探しに着手した。台湾では新品種の登場で台中65号は栽培されなくなって久しい。また見つかったとしても植物検疫の関係で台湾から日本への持ち込みはできないだろう。そこで私は日本の学術機関の種子庫を探すことにした。台中65号の種もみは、まず九州大学の種子庫で見つかった。しかし規定により10粒しか持ち出しができないとのことだった。発芽率がどうかも分からない。最終的には、九州大学の規定上、個人への譲渡は認められず私は諦めるしかなかった。その後、ネットで沖縄の農家が台中65号を栽培しているという情報を得た。沖縄では1995年まで台中65号が奨励品種として栽培されていたこともあり、現在も一部の農家が栽培していたのだ。台中65号で酒を造りたい、そう思い描いてから種もみを入手するまでに1年の時間がたっていた。

種もみを入手した私は、次に栽培できる水田を探した。当時の日本は減反政策をとっていて、水田探しは容易ではなかった。多くの日本の友人が探してくれたが、育苗期の直前になっても水田は見つからなかった。もう諦めるしかないのかと思ったとき、李白酒造の同僚で醸酒歴40年以上のベテラン蔵人が使っていない水田の提供を申し出てくれたのだ。こうして2017年4月、世界最北限の台中65号の栽培が島根県松江市のわずか7アール(700m2)の田んぼで始まった。亀治米のDNAが100年の時を経て島根に戻ってきたのだ。

台中65号の水田、2018年(筆者提供)
台中65号の水田、2018年(筆者提供)

実は、現在に至るまで本州における台中65号の栽培記録はない。近隣の農家は「蓬莱米」という名称さえ聞いたことがないという。栽培のポイントが分からないまま、私は車で往復2時間かかる水田に行き、水田の様子を観察した。研究資料も探し、島根県農業センターの専門家や農家の友人の助けを借りた。そしてついに台中65号の稲穂が顏を出した。

米作りの仲間たちと、2018年(筆者提供)
米作りの仲間たちと、2018年(筆者提供)

品種「台中65号」から銘柄「台中六十五」へ

李白酒造で学ぶべきことは学べた。そう思った私は台中65号の醸造のために李白酒造を去ることにした。次に入ったのは島根県雲南市の木次酒造だ。木次酒造がある雲南市はヤマタノオロチ伝説の舞台である。設備はシンプルで、醸造量は多いとは言えないが、酒桶ひとつひとつを丁寧に造っている蔵だ。蔵人としての経験を積むためにも、台中65号の醸造のためにも非常に良い環境だった。

台中65号の醸造のために、私は自費で国立酒類総合研究所や各地の杜氏組合の醸造講習会に参加し、併せて各地の蔵の杜氏に教えを請うた。台中65号での酒造りには経験者がいない。記録もなければその特性を知る人もいない。初めての台中65号での醸造では精米の特性をテストするため、精米歩合50%の無濾過純米吟醸を目標とし、木次酒造の手動精米機で精米した。醸造期はちょうどいいことに大雪と重なった。酒造内の部屋は昼間でも気温が2℃前後。麹を作る「製麹(せいきく)」と呼ばれる工程は徹夜仕事になった。毎日、発酵した醪(もろみ)を分析し、その出来を見ては時に杜氏と衝突する…こうやって熟成した醪をしぼり、2018年春、台中65号を使った酒「台中六十五」は完成した。初めての「台中六十五」は400瓶にも満たなかったが、この酒は酒であると同時に3年の時と多くの人の助けにより編まれた物語となったのだ。

発酵中の「台中六十五」、2018年(筆者提供)
発酵中の「台中六十五」、2018年(筆者提供)

前出のイラストレーターKCNさんと出会って十数年がたつ。最初にKCNさんを知ったのは彼のブログだ。KCNさんのブログではオリジナルのイラストと共に、日本統治時代に台湾に貢献した偉人の物語が紹介されていた。私は磯永吉先生の台湾における実績をここで知った。KCNさんは彼のやり方で日本統治時代を紹介している。私のやり方は、台中65号を使って酒を造り、台湾の蓬莱米の父である磯永吉先生と末永仁(めぐむ)先生に敬意を表することだ。だから新しい酒の名前は「台中六十五」とした。台中六十五のラベルはKCNさんと2人で議論の末に決めたものだ。ラベルには旧台中市章と台湾総督府の紋章内にある「台」の字のデザイン部分を使うことにした。そして毎年、「台中六十五」が完成すると広島県の日彰館高校にある磯栄吉先生の記念碑に行き、献酒式を執り行い感謝を奉げている。

磯栄吉先生の記念碑での献酒式、2020年(筆者攝影)
磯栄吉先生の記念碑での献酒式、2020年(筆者攝影)

日台ハーフの「台中六十五」

島根に根を張った台中65号は、今年でもう4年目に入った。今年の台中65号の収穫も目前だ。木次酒造の後、私は島根県の板倉酒造を経て、今は佐賀県の宗政酒造にいる。台中65号の栽培や各地の酒造での異なる醸造経験からは、技術だけでなく、皆さんの醸造哲学を学んだと思っている。

醸造中の筆者(筆者提供)
醸造中の筆者(筆者提供)

台中六十五の醸造のために、私は、毎年クラウドファンディングサイトで日本と台湾から資金を募っている。台中六十五が日台ハーフと言えるのは、酒米と技術だけでなく、日台の多くの人の助けのもとに完成したという点でも同じだろう。私は、台中六十五が日本と台湾を結ぶ酒になることを願っている。そしてより多くの人に蓬莱米の物語を知ってもらい、日台の食文化において食事の基本要素である「米」にも深いつながりがあることを知ってもらいたいと思う。

この3年間、毎年異なるテーマを持っていた台中六十五は、さまざまな清酒品評会で賞を獲得してきた。今の私の願いは、遠くない将来、自分の酒蔵を持ち、技術を伝えるとともに醸酒業と地域文化のつながりを深めていくことである。

台湾人に島根県と日本酒業界をより深く知ってもらうために、毎年、島根県では酒造団体による台湾人を対象としたツアーを実施している。このツアーでは島根の酒造や神社を巡っているが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止となってしまった。1日も早く日常を取り戻し、日本酒業界も以前の活気が戻るよう願うばかりである。

台北の磯小屋で磯永吉、末永仁の銅像と。(筆者提供)
台北の磯小屋で磯永吉、末永仁の銅像と。(筆者提供)

台中六十五 受賞記録

2019年  ロンドン酒チャレンジ  純米吟釀部門 銀賞
2020年  南部杜氏自醸清酒鑑評会 純米酒部門 優等賞
2020年  フェミナリーズ世界ワインコンクール  日本酒純米吟釀部門 銀賞
2020年  KURA MASTER 純米酒部門 プラチナ賞
2020年  ロンドン酒チャレンジ 純米吟釀部門 金賞×2 銅賞
2020年  全米日本酒歓評会 吟醸部門準グランプリ、山廃特別賞

バナー写真=台中65号の水田と筆者、2017年(筆者提供)

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