寿司は江戸の昔からお手軽ファストフードだった : 『守貞漫稿』(その3)

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寿司はどこで食べますか? 寿司屋か?回転寿司かウーバーイーツに宅配してもらうか。実は、江戸時代、すでにちょっと高そうな店で食べる、手軽な店で食べる、配達してもらうという3つの選択肢が揃っていたことをご存知だろうか。

江戸前握り寿司の元祖・与兵衛鮓

『守貞漫稿』は、寿司(すし)についてこう記している。
「すしのこと、三都とも押鮓(おしずし)なりしが、江戸はいつごろよりか押したる筥鮓(はこずし)廃し、握り鮓のみとなる。筥鮓の廃せしは5、60年以来ようやくに廃すとなり」

「押鮓」は、四角の木箱にすし飯を詰め、具を乗せて蓋(ふた)を置き、上から手で押して作った寿司である。現在も、大阪や京都では人気がある。もともとは三都(江戸・京都・大坂)ともこのタイプだったが、50〜60年前(1800年代前半/文政年間頃)、江戸では「押鮓」が廃れ、「握り鮓」のみになったという。

筥鮓(はこずし)図。四角の木型の内側にすし飯を敷き、その上に具材を乗せ、押し板を載せて上から重石また手で押して整形する(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)。現在、使われているものとほとんど同じ形だ
筥鮓(はこずし)図。四角の木型の内側にすし飯を敷き、具材を乗せ、蓋(押し板)を置いて重石また手で圧力をかけて整形する(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)。現在、使われているものとほとんど同じ形だ

与兵衛鮓が提供したであろう握り。(上から)鶏卵、玉子巻(卵で巻き中には干瓢)、海苔巻(中は干瓢)、海苔巻の断面、あなご、白魚(干瓢で巻く)、刺身(まぐろ)、こはだ(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)
江戸の「にぎり」のラインナップ。(上から)玉子焼、玉子巻(卵焼きで巻き中には干瓢)、海苔巻(中は干瓢)、海苔巻の断面、アナゴ、白魚(干瓢で巻く)、刺身(マグロ)、コハダ(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)

守貞が描いた、握り鮓の絵には、「鶏卵焼、白魚、マグロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮」などと説明が付してある。海老もあった。現在、「江戸前の握り」と聞いてイメージするのとほぼ同じラインナップだ。白魚は現代の握りではあまり見かけないが、江戸時代は佃島のあたりで白魚漁が盛んで、れっきとした“江戸前”。家康の好物だったそうだ。

鮓1貫は8文で、玉子焼きは16文とある。これが登場したのが約200年前。1文=約12円で換算すると、1貫100円弱。現代の「2貫100円」の最安価格帯の回転寿司よりはやや高いが、それでも、お手軽な食事と言えよう。玉子焼きが倍の値段だったのは、当時は鶏卵1個が7~20文(84~240円相当)もする贅沢品だったからだ。この点は、現代とは少々、事情が異なるところだ。

握りは、小泉与兵衛という人物が文政年間初期(1819年頃)に考案した。「江戸鮓に名あるは東両国元町与兵衛鮓」(江戸の寿司の名店は東両国の与兵衛鮓/『守貞漫稿』)とある。

関東大震災(1923 /大正12年)によって客足が途絶え、1930(昭和5)年に閉店するまで、極めて評判の高い名店だった。『東京新繁昌記』(1883 /明治16年)にも、「都下に所謂握鮨なるものの元祖にして、最も此家の得意物とするは海老鮨、伊達巻、玉子の厚巻等」と記されている。

創業当初は、酢でしめたコハダの寿司を岡持ちに入れ、夜の繁華街を売り歩いた。京都と大坂の押し寿司のネタはしめサバが多かったが、江戸ではより小ぶりで食べやすいコハダを、握りたてで提供した。これが江戸っ子におおいに受け、次は新鮮な白魚、海老、甘く煮た穴子と、メニューが増えていった。

やがて屋台を出したが、それでも手狭なため、文政7年(1824)に「華屋」という屋号の店を東両国に構えた。ちなみに、和食のファミリーレストランチェーン「華屋与兵衛」は、この握りすしの始祖にちなんで名付けたという。

与兵衛鮓の店舗(明治時代/『東京新繁昌記』国立国会図書館蔵)
与兵衛鮓(華屋)の店舗(明治時代 /『東京新繁昌記』国立国会図書館蔵)

JR両国駅近くの住宅街に「与兵衛すし跡」の案内板がある。「江戸前寿司」の誕生地である。


かつて寿司はファストフードだった

『俳風柳多留』(はいふうやなぎだる/文政年間)には、「妖術といふ身で握る鮓の飯」という川柳が収録されている。

寿司を握る手の動きが、妖術つかいが呪文を唱える手つきに似ていると詠んだものだ。当時の江戸っ子には寿司職人は呪術師に見えたらしい。

与兵衛は、岡持ちで運んで売り歩く「宅配寿司」、及び路面に店を構える「寿司屋」の先駆者だった。また、「屋台」で売るファストフードのような営業形態は、手軽に寿司を食べることができる回転寿司の端(はしり)といえよう。

なかでも屋台での立ち食い、つまり江戸のファストフードだったという点が興味深い。

『守貞漫稿』は、「屋台見世(やたいみせ)は鮓、天麩羅(てんぷら)を専(もっぱら)とす。(中略)鮓と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三、四ケあり」と記す。

与兵衛鮓の成功に影響を受け、多くの寿司屋が店を出したが、狭い江戸の町人地では店舗を構える土地も少なかったため、営業形態は手軽にできる屋台が多かったわけだ。
両国・浅草・門前仲町などの繁華街に出店していた屋台寿司の絵が、『絵本江戸爵』(えほんえどすずめ/喜多川歌麿画・天明6年)にある。かしこまった店ではなくとも、好きなネタを注文して握ってもらえるのは、現代の回転すしと同じだ。

繁華街の寿司屋台。ネタが並び、客が注文すると奥にいる職人が握ってくれた(『絵本江戸爵』国立国会図書館蔵)
繁華街の寿司屋台。ネタが並び、客が注文すると奥にいる職人が握ってくれた(『絵本江戸爵』国立国会図書館蔵)

また、歳時記に合わせた屋外イベントにも、寿司屋台の姿があった。二十六夜待(旧暦1月と7月の26日に行われたお月見の行事)には、高輪の海岸沿いに屋台が立ち並び、寿司屋も軒を連ねた。

二十六夜待の日に高輪の風景。「すし」と書かれた屋台の他、蕎麦などを提供する店もある(『東都名所之内 高輪廿六夜止図』味の素食の文化センター蔵)
二十六夜待の日に高輪の風景。何軒もの屋台が出て賑わっている。画面の中央よりやや右側に「すし」と平仮名で書かれた店が見える(『東都名所之内 高輪廿六夜之図』味の素食の文化センター蔵)

『守貞漫稿』には、折り詰めに握り寿司を詰めて売り歩く人物の絵もある。イベント開催の日には、屋台から宴席へ配達するのも寿司屋台の仕事であり、配達員がその役目を負った。今もお花見の時期になると、宅配ピザが野外の宴会場に直接届けてくれるが、それとまったく同じである。

寿司を歩いて売る「鮨売」。注文を受け、配達する役割も担っていた(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)
寿司を歩いて売る「鮨売」。注文を受け、配達する役割も担っていた(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)

すでに200年前、ファストフードと宅配という寿司屋があったわけだ。立派な店構えの寿司屋にいかずとも、自宅や野外でも手軽に楽しく寿司を食べたい―どうやら、江戸っ子の寿司好きは今に始まったことではないようだ。

※文中の「寿司」「鮓」「鮨」は、すべて「すし」と読む。ここでは、文献に「鮓」「鮨」と記されたものはそのまま使い、それ以外は慣れ親しんだ「寿司」と表記した。

バナー写真 : 『守貞漫稿』(国立国会図書館蔵)の画像を加工

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