台湾人元日本兵の戦後補償問題――積み残された人々の願いに真の「解決」を

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「日本を愛して、日本のために戦った」―太平洋戦争中、日本の統治下にあった台湾から「日本人」として出征したにもかかわらず、日本人としての補償を受けることができなかった台湾人兵士の存在をどれほどの日本人が知っているだろうか。戦後75年がたち、既に当事者の多くはこの世を去ってしまったが、日本人には歴史に向き合い続ける責任があるのではないだろうか。

「日本人」として出征した台湾人

かつて日本は台湾を半世紀にわたり統治した歴史がある。1937年の日中戦争勃発から、45年の太平洋戦争終結までの間も、台湾は日本の統治下にあった。

台湾の土地には内地人(日本本土出身者)と本島人(漢人系住民)、先住民族が暮らし、異なる帰属意識があったが、「一視同仁」や「内台一如」といった統治方針の下、同じ「日本人」としての意識が形成された。戦争によってその方針がさらに強化されると、「皇民化」の推進や許可制の改姓名が実施され、名実ともに「日本人」になることを望む人々も少なくなかった。

戦況が徐々に悪化する中、台湾でも42年に陸軍特別志願兵制度、43年に海軍特別志願兵制度が始まると、応募者が殺到したという。また44年には台湾でも徴兵制度が導入された。

16 歳で志願し、陸軍軍属としてインパール作戦に参加し、戦後も国民党政権による反乱鎮圧を口実とした台湾全土での民衆虐待・殺害事件「二・二八事件」の受難者でもある蕭錦文(しょう・きんぶん)氏は、「第一に、自分の国の大事にあって、自分の国のために働きたかった。自分の国を自分で守ることは国民としての当たり前の考えだった」と志願した理由を語る。

台湾の人々もまた「日本人」として国のために戦地に赴き、日本のために戦ったのである。厚生労働省社会・援護局によると、その数は軍人・軍属合わせて20万7183人で、その内3万306人が戦没した。

45年8月15日、戦禍を生き抜いた台湾の人々も「日本人」として敗戦を迎えた。そして、日本は敗戦の結果として台湾を放棄し、台湾人元日本兵ら台湾の人々は本人の意思に関係なく、「日本人」としての国籍を失うこととなった。

蕭錦文氏。90歳を超えた今も自身の戦争体験などを語り継いでいる(筆者撮影)
蕭錦文氏。90歳を超えた今も自身の戦争体験などを語り継いでいる(筆者撮影)

戦後日華関係史の中で置き去りにされた台湾人への補償

戦後、日本では恩給法や戦傷病者戦没者遺族等援護法などの法整備が進み、軍人・軍属とその遺族はさまざまな補償を受けることができた。しかし、これらの法律にはいずれも「国籍条項」が設けられた。すなわち、日本国籍を有しない者は補償の対象外とされ、日本国籍を「喪失」したとされる台湾人元日本兵とその遺族は、当初は1円の補償も受けられなかった。

台湾人元日本兵の悲哀は戦後の台湾が歩んだ歴史の中にも見出せる。戦後、台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって統治された。言い換えれば、台湾人元日本兵らは、かつての「敵」によって支配されることになった訳である。

日本は1951年に米国をはじめとする連合国との間でサンフランシスコ平和条約を締結し、戦争状態を終結させ、台湾及び澎湖諸島における主権を放棄した。しかし、当時、台湾の中華民国・国民党政府は同条約を締結するための講和会議に招請されなかったため、日華間では52年4月28日に日華平和条約を締結した。そして、同条約第三条で、日台間の財産・請求権問題は「日本国政府と中華民国政府との間の特別取極(とりきめ)の主題とする」と定めた。

つまり、台湾人元日本兵の未払い給与や軍事郵便貯金などは、日本政府と中華民国・国民党政府との間で「特別取極」を定めて処理されることとなった。しかし、特別取極について両政府間で話し合いはされず、72年に日本は中華人民共和国と国交を樹立。日本と中華民国は断交し、日華平和条約そのものが失効した。なお、特別取極について、日本政府は中華民国・国民党政府に対し、3回にわたり、推進するよう文書で申し入れたが、中華民国・国民党政府は受け入れなかったという記録が残っている。

このように、台湾人元日本兵とその遺族の「日本人」としての補償や債務は、戦後の日華関係史の中で置き去りにされたのである。

一人当たり200万円の特定弔慰金が支給決定、だが・・・

忘れ去られていた台湾人元日本兵の戦後補償問題だったが、戦後30年近くたった1974年のある出来事がきっかけで動き出した。同年12月、インドネシアのモロタイ島で、戦時中に先住民族によって編成された「高砂義勇隊」の生き残りである中村輝夫氏(アミ族名:スニヨン)が発見されたのである。横井庄一、小野田寛郎両氏に次ぐ3人目の生還者であり、世間の注目を集めた。

しかし、台湾人元日本兵である中村氏は横井、小野田両氏と異なり、「日本人」としての補償を受け取ることができず、わずか6万8000円の帰還者手当が支給されたにすぎなかった。このような不条理に対し、民間有志や国会議員による支援の動きがあった。例えば75年には明治大学教授で言語学者の王育徳(おう・いくとく)氏が事務局長を務める「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」、77年には超党派の国会議員からなる「台湾人元日本兵士の補償問題を考える議員懇談会」(代表世話人:有馬元治)が発足した。支援団体が結成されたことで、台湾人元日本兵とその遺族らによる補償運動は大きく展開されるようになっていった。

そして、87年9月に「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」、88年5月に「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」がそれぞれ特別立法で成立し、台湾人元日本兵の遺族と当事者である戦傷病者に対し、申請が認められた場合には一人当たり200万円の特定弔慰金が支給されることとなった。当時の事務を所管していた総理府(現・総務省)のまとめによると、申請期限の93年3月末までに2万9913件の請求があり、計529億9000万円を支給したという。

未払い給与や軍事郵便貯金については、95年に120倍の額を返還することが決まった。これは台湾の軍人給与の実質的な上昇率などを考慮して日本政府が決定した。しかし、当事者をはじめ支援団体は、戦後50年が経過しており、台湾の経済成長や当時の自衛隊隊員の給与などを勘案すると、物価スライドで1000倍から最大7000倍強が妥当と主張していた経緯があり、日本政府による一方的な決定に対し、反発や抗議の声が上がった。

いずれにせよ、日本政府は台湾人元日本兵・遺族に対する補償や財産の返還について、以上の対応をもって「解決済み」としている。

先述の台湾人元日本兵の蕭氏はこうした日本政府の対応は「あまりにも冷たすぎる」と話す。そして「日本を愛して、日本のためにこの命を捧げた。同じように戦地に行って、日本に戻った者には十分な手当があり、台湾に戻った者には何もないのは悔しかった」と当時の心境を吐露する。

弔慰金の支給を通知する書類(林阿貞氏提供)
弔慰金の支給を通知する書類(林阿貞氏提供)

ないがしろにされた台湾人元日本兵の人権や尊厳

なぜ、台湾人元日本兵やその遺族は、ここまでの仕打ちを受けなければならなかったのか。

台湾南部・高雄にある「戦争と平和記念公園主題館」を運営し、台湾籍老兵の調査・慰霊活動を行なっている高雄市關懷老兵文化協會常務理事の呉祝栄(ご・しゅくえい)氏に聞いた。 

呉氏は、この問題は日本と台湾の「二つの政府に責任がある」と指摘する。すなわち、どちらの政府も「人権を重視しなかった」という。日本政府は戦後の経済的困窮を理由に問題を放置し、その後、経済成長を成し遂げたにも関わらず、積極的に対応しようとしなかった。台湾の中華民国・国民党政府も戦後に日本から接収した財産の正当性や取り扱いが議論されることを懸念して、日華平和条約に基づく特別取極の推進には消極的であった。加えてかつての「敵」である台湾人元日本兵の問題には無関心だったのだ。

本来、守られ、尊重されるべき台湾人元日本兵の人権や尊厳は、二つの政府からないがしろにされていたわけである。

25年にわたり台湾人元日本兵らに寄り添い続けている呉祝栄氏(筆者撮影)
25年にわたり台湾人元日本兵らに寄り添い続けている呉祝栄氏(筆者撮影)

「台日交流センター」の設立が遺族らの最後の願い

台湾人元日本兵の戦後補償問題は、戦後の日本と台湾が置かれていた状況の中で、さまざまな政治・経済的制約や事情を乗り越え、長年にわたる当事者及び日台双方の関係者、民間有志の尽力があったことは紛れもない事実である。声を上げ、運動を繰り広げてきたからこそ、戦後置き去りにされていた問題が動いたのである。

その一方で、「日本人」として国のために戦った人々が、日本人としての補償を今なお受けられていない実状は変わらない。

兄がフィリピンで戦病死し、遺族として戦後補償問題に40年以上取り組んでいる林阿貞(りん・あてい)氏は「当時は『台湾人日本兵』という呼称はなく、皆『天皇陛下の赤子』『皇軍の兵士』だった」とし、問題を「解決済み」とする日本はこのままでは「汚名を残してしまう」と憂いている。

そして、「台湾人の血と汗と涙が日本政府の金庫には眠ったまま」と主張する林氏は、本来、台湾人元日本兵らに支給されるべきお金を未来の日台交流に資する公益事業に用いるべきだと訴えている。特定弔慰金は88年に日本政府が予算を付け、日本と台湾の赤十字社を窓口に支給が行われた。また未払い給与などの財産の返還については支払予定総額として425億円を用意し、95年から受け付け業務を開始した。筆者の手元にある日台双方の複数の資料によると、期限内に申請がなかったり、申請しても却下されたり、あるいは日本政府の対応に反発し、申請を拒否した人々に本来支給されるべき金額は、少なくとも二百数十億円に及ぶと考えられる。これらがその後いかに処理されたかは不明であり、すでに存在していない可能性もある。

これまで林氏は日本の国庫にあるとされるお金を用いて、台湾に老人ホームなどの施設を設立すべく尽力してきた。しかし、もはやそれを必要とする当事者も多くが鬼籍に入ったことから、今は日本人と台湾人が共有してきた歴史を学び、交流できる「台日交流センター」をつくることが最後の願いだと話す。

林氏の自宅にはこれまでの補償運動に関する膨大な資料が保存されている(筆者撮影)
林氏の自宅にはこれまでの補償運動に関する膨大な資料が保存されている(筆者撮影)

今こそ向き合いたい日本人の「先輩」の歴史

戦後75年がたち、当事者の多くがこの世を去った今、この問題にいかに向き合うべきか。呉氏は「台湾人元日本兵ら先人の歴史を記録し、慰霊を続ける」ことの大切さを強調する。これは日本人にも求められる姿勢だろう。

当事者がいなくなれば、この問題は自然に消滅する。だが、この問題に向き合わず、歴史を忘却した時、日本は「汚名」を後世まで残すことにならないだろうか。「日本人」として日本のために戦った台湾人元日本兵が、日本人としての補償を受けられていないことは、人権・人道問題であると同時に、感謝や労いの言葉すらない冷酷な対応は日本人の民族性をも問われる問題である。

時間が過ぎるのをただ待つだけでなく、台湾人元日本兵の歴史を学び、その後の戦後補償問題からも目をそらさず、日本人の「先輩」でもある台湾人元日本兵の慰霊をしていく責務が日本にはある。林氏は今もなお台湾の政治家らに真の「解決」を目指して陳情を続けているというが、すでに過去の問題として関心を持たれることはなく、目下進展は何もないという。この問題に必要なのは、単に法的・形式的な「解決」ではなく、歴史に向き合い続けていく日本人としての「道義的責任」ではないだろうか。

バナー写真=長年、台湾人元日本兵の遺族として戦後補償問題に取り組む林阿貞氏(筆者撮影)

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