台北、台中、阿里山、澎湖・・・台湾の風土を唄った『台湾周遊唱歌』

歴史

1910年2月20日、台湾である歌が発表された。『台湾周遊唱歌』と呼ばれるこの曲は、台湾各地の風物を歌詞に盛り込み、台湾全土の地理や歴史が理解できるよう、工夫が施されている。

清国統治時代に始まる台湾の鉄道史

台湾の鉄道は日本統治時代以前、清国が派遣した台湾巡撫(知事)・劉銘傳(りゅうめいでん)の時代に敷設された。清国が欧米列強に蝕(むしば)まれていく中、洋務派を名乗った人々は西洋に学ぶべきところは学び、状況を打破することを目指したが、その理想は打ち砕かれた。その後、洋務派は中国大陸南東に浮かぶ台湾島に目を付ける。そして1885年、福建省に属していた台湾を「台湾省」として独立させ、その巡撫に劉銘傳を送り込んだ。

劉銘傳の指示の下、1891年に基隆(きいるん)~台北間の鉄道が開業。1893年には新竹まで延伸したが、1895年、日清戦争後に締結された下関条約によって、台湾は日本に割譲された。これにより、鉄道関連施設も台湾総督府に接収された。

その後、日本による統治下、台湾の鉄道は次々に整備されていった。1908年に開業した縦貫鉄道(縦貫線とも)を軸に、台湾東部の台東線や東北部を走る宜蘭(ぎらん)線などが島内輸送を担っていくことになった。

台湾周遊唱歌~新領土・台湾を素材とする歌

『台湾周遊唱歌』は台湾島を一周するように、主題としては、当時の産物や歴史、地理、名所旧跡、文化行事、史話などが取り上げられている。いずれも簡潔にまとめられ、台湾の鉄道における黎明(れいめい)期の状況を知る貴重な史料となっている。

歌詞は七五調となっており、日本で長く親しまれてきた『鉄道唱歌』と同様、7音、5音、7音、5音、7音、5音、7音、5音の組み合わせとなっている。独自のメロディーがあるものの、『鉄道唱歌』を知っていれば、その旋律にのせて唄(うた)うことができる。小気味よさと軽快なメロディーで知られる『鉄道唱歌』だが、『台湾周遊唱歌』でもその魅力に触れることができるのである。

なお、台湾の風土を唄った歌曲はこれが最初ではなく、1900年に関口隆正が『台湾歴史歌』を手がけているほか、公学校(漢人系住民子弟向けに設けられた初等教育機関)で採用されていた『台湾地理唱歌』もある。しかし、その詳細をつかむことはできない。

台湾周遊唱歌の楽譜。故・廖來福(りょうらいふく)氏が所蔵していた台湾周遊唱歌の楽譜。独自のものだが、鉄道唱歌のメロディーに乗せて唄うことも可能だ(筆者撮影)
台湾周遊唱歌の楽譜。故・廖來福(りょうらいふく)氏が所蔵していた台湾周遊唱歌の楽譜。独自のものだが、鉄道唱歌のメロディーに乗せて唄うことも可能だ(筆者撮影)

全90章で台湾を唄いあげる

筆者は『台湾周遊唱歌』の存在を台湾史研究家である故・三田裕次氏から教えられた。その後、台中市豊原在住の故・廖来福氏からもより詳しい情報を得て、楽譜の提供も受けた。廖氏は高齢ながらも自らコンピュータを駆使して原曲を再現していた。

私は両氏からの情報をもとに、自著『台湾鉄路と日本人』(交通新聞社)で『台湾周遊唱歌』を取り上げたが、その反響は想像以上に大きく、特に台湾で大きく話題となった。

『台湾周遊唱歌』が発表されたのは1910年2月20日のことだった。基隆と打狗(現在の高雄)を結ぶ縦貫鉄道はすでに開業しており、鉄道輸送は発展期に入っていた。

この唱歌は全90章で構成されている。主軸となるのは台湾島西側の各都市で、縦貫鉄道に沿って紹介されている。「周遊歌」を謳(うた)うだけあって、当時はまだ鉄道が存在していない台湾東部や北東部の都市についても触れられている。離島なども採り上げられているので、台湾全土を網羅していると言える。

台湾周遊唱歌~輝ける新領土・台湾

(台湾)

国光四海(こっこうしかい)に輝きて  東亜の空に覇(は)をなせる
我が日の本の新領土  台湾島をさぐり見ん

→1895年、台湾は日本の版図に組み込まれた。「新領土」という表現が用いられている。

(台北)

君が御稜威(みいつ)に高砂(たかさご)の  浦回(うらわ)の風もおさまりて
ここに開けし総督府  文武の機関備われり

→台湾の最高統治機関、現在も残る総督府庁舎はこの曲が作られた時点では未完成。

(台湾)

南北長さ一百里  めぐりは二百九十余里
小島(こじま)あわせてその広さ 九州とほぼひとし

→九州と同程度の大きさ。台湾島の面積は約3.6万平方キロ。日本の10分の1ほど。

(台湾)

山に金銀海に塩  製茶製糖果実類
水田(みずた)に稲は二度みのる  げに帝国の無尽蔵(むじんぞう)

→「実りの島」、「豊穣の島」は台湾を称える際の決まり文句だった。

人々に愛される『鉄道唱歌』

『鉄道唱歌』について簡単に述べておきたい。世代差こそあるものの、日本人が親しんでいる名曲で、日本各地の様子を短い歌詞で表現し、唄いやすい旋律でまとめられている。 

『鉄道唱歌』の作詞は大和田建樹(おおわだたけき)。旋律は複数存在したが、定着しているものは大和田から依頼を受けた多梅稚(おおのうめわか)のものである。正式な名は『地理教育鉄道唱歌』。第一集となる「東海道編」が発表されたのは1900年5月10日だった。

近代国家の歩みを始めた日本は「殖産興業」の政策の下、鉄道網の整備を急いだ。鉄道は最重要交通手段として君臨し、「伸び行く日本」を象徴する存在だった。これと国民教育が連動したことで、『鉄道唱歌』は誕生した。

余談ながら、この時期、鉄道を題材とした歌曲はいくつも作られている。国有鉄道の幹線のみならず、郊外電車や市内電車(路面電車)に絡んだ唱歌もあり、1906年には『満韓鉄道唱歌』も作られている。

台湾周遊唱歌~台湾の地理を唄う

(基隆)

基隆港(きいるんこう)の朝ぼらけ  のぼる朝日の照りそいて
輝きわたるその眺め  フォルモサの名も徒(ただ)ならず

→台湾北部の港湾都市。日本本土への門戸。基隆は終戦まで「きいるん」と読んだ。

基隆(筆者所蔵写真絵葉書より)
基隆(筆者所蔵写真絵葉書より)

(北投)

硫黄(いおう)を出(い)だす北投(ほくとう)は  音に聞(きこ)ゆる温泉場
湯浴(ゆあ)みする人遊ぶ人  常に絶えずと聞くぞかし

→台北郊外の北投は硫黄の産地。領台後、温泉郷として発展した。通称「台湾の箱根」。

(花蓮港)

黒潮に沿ひ進みつつ  次に立ち寄る花蓮港(かれんこう)
移民の計画歩を進め  開拓事業起こりたり

→東部開発の中枢は花蓮港(現・花蓮)。官営移民村は吉野、豊田、林田の三村。

(澎湖)

これより海路五十二浬  澎湖島(ぼうことう)なる媽宮港(まきゅうこう)
港の内は水深く  大艦巨舶泊(とど)むべし

→台湾海峡に浮かぶ島々。媽宮港は現在の馬公。台湾での読みは「ほうこ」でなく「ぼうこ」。

鵝鑾鼻

バシー海峡隔てたる  ルソンと遥か相向かう
最南端の鵞鑾鼻(がらんび)に  大燈台を設けたり

→台湾最南端の地。バシー海峡を挟んでフィリピンに対峙する。白亜の灯台が知られた。

周遊唱歌は「台湾版の鉄道唱歌」か

台湾は日本にとって、国際条約を経て得た最初の海外領土だったが、終戦まで、鉄道唱歌を名乗るものはなかった。そういったこともあり、この『台湾周遊唱歌』を「台湾版の鉄道唱歌」とする向きもある。先述したように、独自のメロディーを持ちながらも、『鉄道唱歌』のメロディーでも唄えるため、日本本土からやってきた旅行者が、船の中で『台湾周遊唱歌』を教えられ、『鉄道唱歌』の旋律で口ずさみ、見知らぬ地に思いを馳(は)せたという逸話も残る。

歌詞は最初に台湾島の全体像を紹介し、その後、基隆から反時計回りで台湾を一周するように進んでいく。各駅・各都市に歌詞があるが、台北、淡水、台南などは複数の章があるし、小都市についてはいくつかを合わせて一章になっている。また、縦貫鉄道の終着駅である打狗(高雄)に関しては、当時はまだ大発展の前段階にあるためか、わずか一章で終わっている。

ちなみに、『鉄道唱歌』は全5集、総数は334章となっており、長らく、日本で最も長い歌詞とされてきた。しかし、1集から5集までをそれぞれ別個に考えると、第4集北陸編が72章で最長となる。また、広大な土地を紹介した『満韓鉄道唱歌』も全60章あまりである。

これに対して、『台湾周遊唱歌』は全90章。そして、数が多いだけでなく、取り上げているスポットの密度の高さにおいてもまた、その存在は際立っていた。

台湾周遊唱歌~台湾が歩んだ歴史

(淡水)

三百年のその昔  万里(ばんり)の波を凌(しの)ぎ来て
武威を振ひしイスパニヤ  サンチヤゴ城此処(ここ)に建つ

→1624年、スペイン人がサン・ドミンゴ要塞を築くが、オランダに駆逐された。

(新竹)

清(しん)の雍正(ようせい)元年に  淡水廰(たんすいちょう)を置かれけり
城壁の跡猶(なお)残り  旧刹古廟(きゅうさつこびょう)亦(また)存す

→新竹は城壁に囲まれていたが、領台初期に撤去。城壁跡には濠が設けられた。

(台中)

明治四十一年に はじめて成りし鉄道の
全通式を挙げたりし  此処(ここ)の公園 眺めよし

→縦貫鉄道開通式典は台中公園で開催。台中は日本統治時代に整備された新しい都市。

台中(筆者所蔵写真絵葉書より)
台中(筆者所蔵写真絵葉書より)

(台南)

南部のみやこ台南は  本島中に古くより
開(ひら)けし地とて人多く  名所旧跡(きゅうせき)亦(また)多し

→南部最大の都市。台湾の首府として君臨した古都。明・清時代の名所旧跡が多く残る。

台南(筆者所蔵写真絵葉書より)
台南(筆者所蔵写真絵葉書より)

日本の音楽教育の黎明期

『台湾鉄道唱歌』が作られた背景を考えてみると、そこには「唱歌教育」、つまり、音楽を用いて子供たちを育てるという試みが見える。

清国統治時代、台湾には私塾としての学堂はあったものの、公教育の概念はなく、学校教育は日本が持ち込んだものだった。台湾総督府は各地に学校を設け、制度を整えていったが、その中心にいたのが民政局の初代学務部長・伊沢修二(いさわしゅうじ)だった。

伊沢は日本に音楽教育を持ち込んだ人物として知られる。ジョン万次郎に英語を学び、1875年から3年間、米国留学を果たしている。帰国後に西洋音楽を日本に伝え、『小学唱歌集』を編纂(へんさん)。1888年には東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の校長となった。

『台湾周遊唱歌』の作曲を担当したのは高橋二三四(たかはしふみよ)、作詞は宇井英(ういはなぶさ)という人物であった。高橋は1896年に東京音楽学校(後に新制東京芸術大学音楽学部の構成母体となった)を卒業し、伊沢の誘いに従って台湾へ渡った。同年9月には台湾総督府国語学校の教員となり、台湾で最初の音楽教師となっている。

台湾の教育制度を整えたのは日本だったが、当初から唱歌を用いて教育を行っていたことは興味深い。伊沢は日本の音楽教育の創始者であり、教え子の高橋も音楽教育の黎明期に活躍した人物である。台湾の唱歌教育は当時、最前線にいた2人が創りあげたと言っても過言ではない。

一方、作詞を担当した宇井は、日本語学と国語教育のほか、台湾の郷土文化に強い関心を持っていた。1915年には台湾の伝説・伝承をまとめた『台湾昔噺(むかしばなし)』を刊行しており、学校教育でも使用できるよう、平易な言葉で分かりやすく記されている。宇井も高橋と同様、日本語を教える要員の育成を目的とした「国語学校」の教員だった。

なお、作曲者は杉山文悟(すぎやまぶんご)という人物で、高橋二三四は編者であるという説も存在する。杉山は明治期の教科書編纂者であり、『台湾教科用書国民読本』の編者でもあった。後に台湾総督府図書館の職員となり、台湾各地の昔話を記録することに心血を注いだ人物でもあった。

台湾周遊唱歌~際立った自然景観

(阿里山)

大森林の阿里山(ありさん)は  これより数里奥にあり
枝(えだ)を交ふる木々(きぎ)の蔭  昼猶(なお)暗くものすごし

→無尽蔵と謳われた台湾の森林。阿里山はヒノキの産地。阿里山鉄道はこの時点では未開通。

阿里山(筆者所蔵写真絵葉書より)
阿里山(筆者所蔵写真絵葉書より)

(臨海道路)

これより沿岸二十余里  幾千尺(いくせんじゃく)の断崖が
海にせまりて聳(そび)え立ち  船を寄すべきところなし

→ギルマルド断崖に沿って走る「臨海道路」。現在、「蘇花公路」となっている。

(日月潭)

日月潭(じつげつたん)の勝景(しょうけい)は  蓬莱(ほうらい)山もよそならず
緑のかげには鳥歌ひ  瑠璃(るり)の水には魚(うお)躍る

→台湾中部の景勝地。読みは「じつげつたん」。1935年、東洋最大の水力発電所が完成した。

(台北)

四面(しめん)は山にかこまれて  地勢京都にさも似たり
おのずからなる城壁は  げに萬世のかためなり

→四方を美しい山に囲まれた台北。計画的に整備され整然とした家並みを誇った。

台北(筆者所蔵写真絵葉書より)
台北(筆者所蔵写真絵葉書より)

一世紀前の台湾を歌詞から振り返る

『鉄道唱歌』は日本各地の知識を培養し、郷土意識と国民意識の両者を高める要素を含んでいた。そこに軽快な旋律が加わることで、楽しく学べる教育的な側面も加わった。

『台湾周遊唱歌』も台湾の地理を知らしめる目的があり、やはり親しみやすさと唄いやすさを兼ね備えている。そして、伊沢や高橋が提唱した唱歌教育に連動している。

伊沢が日本に持ち込んだ唱歌教育の試みは、台湾の地でもほぼ同時期に高橋が発展の糸口を見出した。『鉄道唱歌』は国策として推進されていた側面を持つが、『台湾周遊唱歌』もまた、台湾総督府のサポートを得て定着していった。

台湾の地において唄われ、親しまれた『台湾周遊唱歌』。その歌詞をたどってみると、一世紀を経た今もなお、台湾という土地の息吹が感じられ、台湾の歴史的歩みをうかがい知ることができる。

同時に、伊沢や高橋といった教育者たちが思い描いた唱歌教育の理想にも触れられる。日本統治時代初期の台湾。そして、日本音楽教育の黎明期。作り手たちの想(おも)いを感じてみたいところである。

バナー写真=劉銘傳の時代に産声を上げた台湾の鉄道。その後、日本統治時代に路線が拡充され、台湾の発展を支えた(筆者提供)

鉄道 台湾 音楽 唱歌