台湾の北投温泉に「星乃湯」を築いた伝説の男、佐野庄太郎

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新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)で海外旅行が自由に出来なくなって久しい。台湾渡航が自由になったら友人たちと温泉地でまったり過ごそうと思い関連の情報を集めていたら、戦前の名旅館『星乃湯』を受け継いだ北投温泉(台北市)のホテルが2013年に廃業したことを知った。北投の歴史を語る上で欠かせぬ重要な宿だっただけに残念だ。実は、私が時々訪れる長崎に『星乃湯』の創業者佐野庄太郎の子孫が暮らしている。戦後、『星乃湯』がたどった顛末(てんまつ)や台湾の戦前観光史に足跡を残した伝説の男・佐野について、彼らの胸の内を聞くことにした。

「星乃湯」の血縁を訪ねて

長崎大学付近の喫茶店で、私は林田益興=やすおき=(71)さんと剛衛=たかもり=(67)さん兄弟とお目にかかった。2人は、戦前の台湾における祖父佐野庄太郎(1878-1948)の活躍ぶりを幼い頃から母親に聞いて育ったという。益興さんが家族とともに初めて北投を訪れた1988年、『星乃湯』は庄太郎が経営を託した台湾人オーナーのもとで「逸邨大飯店」と名前を変えて営業していた。1960年代から急増したアメリカ人観光客のために「和洋折衷に改造されて和風モダンなホテルという印象が強かった」と益興さん。広い敷地には、離れやスイミングプール、錦鯉が群れ泳ぐ池や石灯籠を配置した日本庭園が戦前のままに残り、旅情を醸し出していた。

「それから20年以上経って私が訪ねた時はすでに閉館していました。外から眺めただけでしたが涙が止まらない。一代で大事業を成し遂げた祖父を尊敬し、どこかで祖父のような人生を歩みたいと思っていたせいでしょうか。実に不思議な感覚でした」。

弟の剛衛さんは感慨深げに言う。

兄弟が広げた昔のアルバムからは、庄太郎が全身全霊を込めた『星乃湯』の最盛期が見てとれる。120年以上前に裸一貫で台湾へ渡った青年はどんな思いで、どのようにして瀟洒(しょうしゃ)な和風旅館を北投に造ったのだろうか?

正太郎の孫の林田益興さん(左)、剛衛さん。剛衛さんは家族の物語を本にまとめようと準備している。
正太郎の孫の林田益興さん(左)、剛衛さん。剛衛さんは家族の物語を本にまとめようと準備している

時代の風に乗って台湾へ

渡台直後の佐野庄太郎。19歳の大志が透けて見える.
渡台直後の佐野庄太郎。19歳の大志が透けて見える

佐野庄太郎は、静岡県富士宮市の商家の五男坊として1878(明治11)年に生まれた。身分制度も廃止された明治という新しい時代の高揚感に後押しされたのか、19歳になった1897(明治30)年、新天地の台湾へ単身渡った。コツコツと貯めた3円と祖母から餞別(せんべつ)にもらった5円を懐に入れて…。(注 : 1円は現在の貨幣価値に換算すると約2万円)

長崎経由で基隆に到着した彼は、台北で運良く雑貨店を営む商人と知り合いその店で約10年奉公。30歳の時に独立して「佐野商店」を立ち上げた後、1908(明治41)年、現在の228和平公園に近い表町1丁目48番地に赤レンガ3階建ての旅館「台北館」を開業した。この頃の台北市はインフラ整備も一段落してすっかり近代都市に生まれ変わり、内地から多くの商人や視察団が往来し商売の好機だった。台湾観光の黎明(れいめい)期にオープンした「台北館」は、その後着実に収益を上げていった。

昭和天皇が摂政宮だった1923(大正12)年に行われた台湾行啓は、各地の景勝地と産業施設の紹介につながり、台湾の魅力に注目が集まるようになった。1927(昭和2)年には台湾日日新報社が、北は基隆港から南はガランピ灯台まで“台湾八景十二勝”を選び旅行ブームが到来。十二の景勝地のひとつに北投温泉も選ばれていた。

もともとドイツ人によって発見された北投温泉は豊かな湯量を誇るラジウム鉱泉で、日露戦争の傷病兵の療養に大いに利用された。1907(明治40)年頃に露天風呂『滝之湯』が開業、1913(大正2)年には公共浴場も完成。ビジネスや観光で来台する内地人の間で評判が高まり、官民視察団の旅程にも北投温泉が組み込まれるようになった。

「台北館」の前に集まった従業員と庄太郎の家族。
「台北館」の前に集まった従業員と庄太郎の家族

広大な上北投の用地を買収

1928(昭和3)年、庄太郎は「台北館」を8万円で売却。北投地区を世界的な保養地にして地元民の生活を豊かにしたいと考え、上北投一帯の土地を購入し開発に乗り出す。当時の北投には老舗『滝之湯』など何軒か湯治場や旅館があったものの、本格的な純和風のもてなしを提供する施設は皆無だった。

庄太郎は地熱谷近くにあった建物を買収すると、裏手にそびえる七星山と息子・星太郎の名前から1字を取って、旅館は『星乃屋』と名付けた。そして自ら建材を選び宮大工を呼んで純和風旅館に大改築。庭園には内地から取り寄せた松やサツキをふんだんに植え、築山や池を造り錦鯉を大量に放した。館内には男湯、女湯、家族風呂など5カ所の温泉場を設け、趣を凝らした和食を提供した。さらに地熱谷の後方に延びる山道を自ら測量し、自動車道路を自費で開通させ展望台を造った。すると北投市街を一望できると評判を呼び、湯治客ばかりか内外の観光客も足を運ぶようになった。

古いアルバムには、「台北館」の前で庄太郎一家と従業員が仲良く並ぶ写真が残っている。この時からの原住民、漢人、日本人の混成チームが、一丸となって北投でも奮闘したのである。

1930年代後半になると台湾鉄道部に観光課が開設され、海外に向けても観光宣伝に力を入れ始めた。台湾が南方への物資支援の拠点として注目をされるようになったからである。1935(昭和10)年、総督府は台湾始政40周年を記念して台北市で博覧会を開く。展示会場では台湾の景勝地や史跡、温泉などの観光資源と物産が大々的に紹介され、以後、民間の旅行社、旅館、交通各社が政府の施策に協力したおかげで、台湾は内地人憧れのデスティネーション(旅行先)となる。純和風旅館『星乃湯』は総督府の高官やVIPの接待にも使われ、庄太郎のもくろみ通り北投のランドマークとなっていった。

地熱谷裏山の道路を独力で拓き、開通式で先頭を歩く庄太郎。
地熱谷裏山の道路を独力で拓き、開通式で先頭を歩く庄太郎

軍への協力を経て終戦へ

だが、日中戦争の始まりとともに観光業にも陰りが差してくる。現在も上北投に残る元日本軍衛生医院北投分院は1910(明治43)年の開業だが、台湾軍管区部隊第十方面軍の5個師団は、中国南部戦線から送還される傷病兵の保養先としてさらに陸軍保養所の建設を発表。その用地が庄太郎の所有地とかぶっていたため境界線を巡って係争が起きた。周囲の反対にもかかわらず庄太郎は陸軍相手に裁判を起こし、測量地図を根拠に粘り強く戦い、勝訴した。その上で庄太郎は、改めて軍に所有地の提供を申し入れ、筋を通す男としての名を上げた。

戦局が逼迫(ひっぱく)してくると『星乃湯』は陸軍の航空病院第一別館となる。庄太郎は裏手の山に地元民のための老人憩いの家を新たに建て、敷地内に舞台をしつらえて療養中の傷痍軍人を招き、地元民との交流に努力する。

そして迎えた1945(昭和20)年8月15日。日本の敗戦により庄太郎は今まで築き上げたすべてを手放し、内地に引き揚げざるをえなくなった。単身渡台して48年目のことだった。自分の分身とも言うべき『星乃湯』を台湾人従業員に譲って庄太郎夫婦と四男は静岡県富士宮市へ、長男と次男は神戸へ、娘の八重子一家は夫の出身地長崎へと、それぞれの場所で戦後の生活をスタートさせた。

「祖父は引き上げてからも星乃湯のことを心配し、松はその後も育っているだろうか、庭園の鯉は無事に長らえているだろうかと、最期まで気にしていたそうです」(剛衛さん)

庄太郎の無念さや台湾への望郷の念はいかばかりだったろう。1948(昭和23)年5月のある日の早朝、引き揚げの心労などで健康を害した庄太郎は、家族に「皇居の方に体を向かせてくれ」と頼むと、そのまま二度と目を開けなかった。享年72歳だった。 

新たなる伝説のために

戦後「逸邨大飯店」となってからも和室は人気が高かった。
戦後「逸邨大飯店」となってからも和室は人気が高かった

戦後の台湾は国民党の観光政策のもと、1960年代から米国人、日本人の観光客が次第に増え、華僑からの観光事業投資も増大した。創業者が去った後の『星乃湯』は「逸邨大飯店」と名前を変え、和風のもてなしとタタミ部屋を引き継いで外国人客を惹き付けた。庄太郎が裏山にあった滝の近くに建てた不動明王をまつる祠(ほこら)は現存しており、長らく日本渡来の神がなぜ北投にあるのか不思議がられていた。娘八重子が父の事績の一環として台湾研究者に紹介したことからその謎がとけたというエピソードもある。

1970年代に入ると日本からの団体客による不純なツアーが物議を醸した時期もあったが、北投旅館組合や台北市政府による観光浄化運動が功を奏し、観光地としてのブランド力を取り戻した。そして現在は数十軒の温泉リゾートホテルを擁し、石川県和倉温泉の老舗「加賀屋」が進出するまでになっている。庄太郎が挑戦した北投のリゾート開発は彼が思い描いた以上に実を結んでいると言えるだろう。

2013年に閉館した「逸邨大飯店」はすっかり荒れ果てている。瓦屋根と看板が残り、「星乃湯」の名も・・・。(撮影・広橋賢蔵)
2013年に閉館した「逸邨大飯店」はすっかり荒れ果てている。瓦屋根と看板が残り、「星乃湯」の名も・・・。(広橋賢蔵氏撮影)

ところで閉館後の「逸邨大飯店」はどうなっているのか?台北市在住の温泉評論家広橋賢蔵さんに最近の写真を送ってもらったところ、なんと廃屋寸前になり瓦屋根にはツタが繁茂して建物はトタン板で囲まれている。戦前、上北投のランドマークと称された『星乃湯』の証しは、取り残された看板に小さくその名が残っているだけだ。だが、朽ちてもなお台湾観光の黎明(れいめい)期を駆け抜けた男の気概や大志が伝わってくる。

「祖父とともに夢を実現した当時の従業員の、せめてご遺族とお目にかかりたい・・・そんな気持ちが年々大きくなっています」

剛衛さんはアルバムを閉じながらそう話す。日台双方の子孫の交流へとつながれば、『星乃湯』の新たな伝説となるだろう。伝説は、目に見える実体よりも人々の心の中のドラマに寄り添うものだから。

バナー写真:1929年、完成直後の『星乃湯』玄関前で

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