芸者:三味線音楽の継承と日本舞踊の発展に寄与した伝統文化の担い手

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かつて「フジヤマ」と並んで、日本のアイコンだった「ゲイシャ」。しかし、実際に芸者と間近に接したことのある日本人はごくわずかだろう。「あでやかな着物姿で、宴席を盛り上げる」といった漠然としたイメージしか思い浮かばない人も多いのではないか。三味線音楽を継承・保存し、日本舞踊の発展に寄与したプロフェッショナル・エンターテイナー、芸者の歴史をひもとく。

現代日本から消えつつある伝統的な社交の場

芸者について語るとき、海外の読者諸兄姉(けいし)どころか、我が同胞の老成人に対しても註解(ちゅうかい)を要するようになったところに、その存在と実態が失われつつあることを感ぜざるを得ない。

少なくとも、1960年頃まで、都市部のみならず、地方においても農村を除けば、注文に応じて宴席を設営する料理屋(今でいう料亭)は、たんなる美食の欲を満たす場ではなかった。そうした宴席は儀礼や社交の上で必要とされ、その主催者の供応を補佐する助手として雇われるのが芸者であるというのは周知のことであった。

1960年代の東京・赤坂花街の芸者(時事)
1960年代の東京・赤坂花街の芸者(時事)

それが変わるのは、敗戦後の復興を牽引(けんいん)してきた明治大正生まれの世代が老いゆき、社会の変革を夢見る昭和前半に生まれた世代が台頭する1970年以降である。1980年代に及ぶ頃には、宴席や接待の場はホテルやナイトクラブなどに移されることが多くなり、全国各地に存在した花街(かがい=芸者を呼ぶことの許される料亭の営業地域)は衰微に向かっていった。そして、まずは地方の財界人や政治家に親しまれた規模の小さい花街から衰退し、そこにあった料亭が廃業に追い込まれた。

さらに敗戦直後に生まれた世代が社会の中枢に位置を占め始めた1993(平成5)年、ときの内閣が料亭での会合を慎む態度を表すや、当時の連立政権に忖度(そんたく)した財界も応じるに至り、明治このかた、彼らを顧客とする東京をはじめ大阪や名古屋など大都市の花街は破壊的変動を受け、ついに衰極の時に際したのであった。

時は移り、それでもなお、苦境を凌(しの)いで営業を続ける幾つかの花街の中で、わずかながらも往時の形らしいものをとどめる芸者たちの装いに、徳川時代の文明の余香(よこう)を拝すのみとなった。実際、現在では芸者に酌をさせたことのある日本人など希少で、総体的に見ればほとんど存在しないのだから。

職掌は客と遊女との恋の取り持ち、その手段としての歌舞の芸

このたび私に与えられた題目は、伝統文化の担い手として、どのように芸者を位置付けるかということである。これを素直に見てまず掲げるべきは、三味線音楽の保存と継承ならびに日本舞踊の発展に寄与したことであろう。

そもそも芸者とは、なんらかの手腕や才能に秀でた者を表す名目だ。中でも連歌師や俳諧師、さらには能太夫や狂言役者など芸能を稼業とする者たちを指すことが多い。これが徳川時代に吉原という官許の遊里が繁盛するにつれ、客を案内して色道を指南する、つまり客と遊女を取り持つ男たちを芸者と呼ぶようになった。芸者とはこのような来歴のある語である。その場合の芸とは、連歌俳諧、茶の湯、華道、香道など、いわゆる遊びに関する諸芸一般であった。とりわけ三味線を伴奏とする俗謠の芸は饗宴(きょうえん)には欠かせぬものと認識されるようになり、これが芸者の本業とする技芸になった。

さて、徳川時代も半ばを過ぎる頃、吉原の外から、非公認の売色をする女たちが紛れ込んでは遊女の職分を侵すようになった。そうした事態を憂慮した吉原遊女屋の主人たちは、非公認の娼婦に売色を遠慮することを約束させた。その上で、従来の芸者に加え、そうした女たちの芸者としての営業も公認して監督することにした。これが見番(けんばん=芸者の取り次ぎや費用の精算を行う所)の始まりと伝えられる。こうなると、いきおい女の芸者が増え始め、従来の芸者の方を男芸者および幇間(ほうかん=たいこもち)と呼ぶに至る。

つまり、徳川時代の芸者の職掌は、前身の男芸者と同じく、その用いる芸は三味線音楽を奏することであった。さらに、客に呼ばれて果たさなければならない任務は、その客と遊女との恋の取り持ちという、いわば期日限定の疑似結婚の仲人役にほかならない。

遊女と区別するための禁欲の服制

その証拠に、この時に定められた吉原芸者の服制(衣服に関する規則)は、主役たる遊女と区別するために白襟(しろえり)紋付きの小袖、縫いの無い織物の帯を後ろ結びにすることであった。さらに長襦袢(ながじゅばん)を禁じたのは、客の前で表着(うわぎ)を脱いで下着を見せてはならないからである。指定された髪型も島田髷(しまだまげ)という基本は少年の結い方に近いもので、当時からすると男装に近い、禁欲を表すものであった。

島田髷で白襟黒紋付きの小袖が芸者の服制。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景。新橋演舞場は、新橋芸者の歌舞音曲(おんぎょく)の稽古の成果を公演という形で披露するために創立された劇場だ(2019年5月、時事)
島田髷で白襟黒紋付きの小袖が芸者の服制。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景。新橋演舞場は、新橋芸者の歌舞音曲(おんぎょく)の稽古の成果を公演という形で披露するために創立された劇場だ(2019年5月、時事)

この服制は、当時から増え始めた吉原以外の非公認の深川や柳橋の町芸者たちも遠慮がちにまねしたことで、江戸芸者の姿が統一されることになった。さらに明治以降、贅沢(ぜいたく)な長襦袢を用いて帯が豪奢(ごうしゃ)になったことを除けば、現在の東京はもちろん、幾つかの地方の芸者にも第一礼装としてこの装いが継承されている。

私の述べるところは、江戸から東京に至る首都における花街の沙汰である。関西をはじめ地方の細かい事情に通じているわけではないが、1958(昭和33)年の売春防止法の施行以前に、娼妓(しょうぎ=遊郭内での売春が許された女性)との兼業を条例で公然と許した府や県が存在したことのほかには、取り立てて言うほどの違いはないように思われる。

芸者あるいは関西で言うところの芸子(げいこ)も、その発祥は寺社の門前であり、神仏の流れ寄る水辺であった。これは近世以降の花街で行われる饗宴というものが、神仏に願いを掛けるため、供え物をし、歌舞をささげる、古代以来の祭りの信仰に根差すためであろう。

そうした歌舞の芸能について言えば、前述した吉原の男芸者以来、東京の花街では明治の半ば過ぎまで、座敷に客がそろった頃に芸者たちが出て、四季に応じた長唄や常磐津(ときわづ)、清元(きよもと)などの三下がり(さんさがり=粋や艶を表現する三味線の調弦法)のにぎやかなところを選んで弾唄(ひきうた)い、その後に騒ぎ唄で寿(ことほ)ぐことが行われていた。そうした「座付き」と称する吉原以来の芸をするのが、柳橋でも新橋でも定番であった。座付きの後で端唄(はうた=小品の三味線歌曲)か何かで踊るのは半玉(はんぎょく=芸者に成る前の少女)あるいは幇間であり、芸者が舞踊を披露することは珍しかった。

花街から浄瑠璃の人間国宝を輩出

江戸以来の東京の芸者は、何よりも三味線演奏が必須とされた。しかも長唄、常磐津、清元などの代表的な曲の種々はもちろん、端唄や小唄に至るまでを弾きこなした。と言うと、今のように客の前で聴かせるのかと思われるかもしれないが、芸者の務めは客に気持ちよく唄わせることにあったから、客の要望に叶(かな)うように何でも弾かなければならなかったのである。

芸者は三味線音楽の保存・継承に大きく寄与している。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景(2019年5月、時事)
芸者は三味線音楽の保存・継承に大きく寄与している。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景(2019年5月、時事)

三味線が琉球(りゅうきゅう)を経由して我が邦(くに)に渡来したのは永禄年間(1558~1570)と伝わるから、織田信長が天下統一の端(たん)を開いた頃である。まずは琵琶法師が手を付けたことから、上方では検校(けんぎょう=琵琶・管弦などをなりわいとする盲人の最高位)が座敷で琴や胡弓(こきゅう)と合奏するのが本格化していった。それに対して江戸では、歌舞伎芝居の伴奏として囃(はや)される長唄や浄瑠璃の名人たちが家元となって、時代が下るごとに巧緻を尽くすようになる。

それと同時に官許の吉原を初めとする花街の座敷においても、芝居の伴奏としては時代遅れと見なされた浄瑠璃の一流儀である一中節(いっちゅうぶし)、河東節(かとうぶし)、宮薗節(みやぞのぶし)、長唄の荻江節(おぎえぶし)などを引き取り、男女の芸者たちによって細々ながらも、幕末維新を持ち越したどころか、現在までも継承していることを忘れてはならない。

その陰には庇護(ひご)を怠らなかった旦那と呼ばれる風雅な資産家の存在もあった。とかくに我が儘(わがまま)で移り気な彼らの心に調子を合わせるのも芸者ならでの心得があり、こうした徳川時代半ば以降の保存継承の努力が花開いた1960年代には新橋の花街から一中節と宮薗節の2名の人間国宝が認定され、2007年には浅草の花街からも宮園節の人間国宝を輩出するに至る。

これに対して関西の芸子は、徳川時代から座敷に出たら舞を見せるのが定式で、明治に入ると祇園の都をどりをはじめ、各々の花街が経営する劇場の舞台でも披露していった。これを東京にも取り入れたのが、明治末の新橋の料亭主人たちである。彼らは舞踊の家元を見番公認の師匠に招いて芸者に稽古を授け、宴会の番組の中で、舞踊を専門とする名妓(めいぎ)を育成した。これがきっかけとなり、新橋の花街から芸者出身の女流舞踊家が輩出し、財界に後援者を持つ強みを発揮して豪奢な舞台を展開させていった。折から大正時代に勃興した新舞踊運動を牽引し、それまで歌舞伎劇に従属していた踊りが、いわゆる日本舞踊という名の独立性を実現することに貢献したことも記憶すべきであろう。

芸者を抜きにして、日本舞踊の発展はなかった。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景(2019年5月、時事)
芸者を抜きにして、日本舞踊の発展はなかった。新橋演舞場で披露する「東をどり」公演の前日の稽古風景(2019年5月、時事)

国家に代わる伝統的な芸能や工芸の経済的な支え手

紙数が尽きたが、文化の担い手として明記すべきは、少なくとも1940年代まで、歌舞伎をはじめとする大劇場の興行は、連中(れんじゅう)と呼ばれた花街の後援団体に支えられていたことである。そして三越をはじめとする代表的な呉服店と手を携えて和装を洗練させ、これを全国的に普及させることで、婦人一般の装いを整えたことなども忘れてはならない。消費者としての芸者が、昭和に入るまで国家が保護しようとしなかった伝統的な芸能や工芸を、経済的に支えて来たことは事実である。

新歌舞伎座開場のこけら落とし興業に彩りを添える新橋の芸者たち(2013年4月、時事)
新歌舞伎座開場のこけら落とし興業に彩りを添える新橋の芸者たち(2013年4月、時事)

しかし、花街が衰微するにつれ、芸者は唄って踊るものという意識が、当事者たちにも強くなり過ぎて、宴席の主催者と招待客の間を潤滑に取り持つ話術や心づかいといったコミュニケーション能力が疎(おろそ)かになった気味がある。

もちろん、冒頭に述べたように、客側も世代が替わって、宴席は古代以来の祭りの記憶を再現するものであることを知らず、その饗宴は飲んで楽しむだけの呑気(のんき)なものと思い、自身の意思を実現するために和合と闘争を繰り広げる真剣勝負の場であることが忘れられた現在、芸者ばかりを責めるわけにはいかない。

バナー写真=通常は料亭のお座敷でしか見られない新橋芸者の踊りを、年に1度、新橋演舞場で披露する「東をどり」の公演。写真は公演前日の稽古風景(2019年5月、時事)

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