寺子屋:驚くべき江戸時代の教育力

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江戸時代における庶民の教育機関・寺子屋は、子どもたちに文字の読み書き、算盤(そろばん)を教えた。しかしそれ以上にしつけを重視し、一人前の人間を育てることを目指した。現代の教育がそこから学ぶべきことは多い。

ヒトの赤ん坊を一人前の人間にする広義の教育は、有史このかた人類が種を維持するために未来永劫(えいごう)に継続しなければならない共同の難事業である。近現代社会がもたらした文明、科学の発展をもってしても、この難事業が合理化され容易になることは決してなかった。近代教育の結晶とも言うべき国民皆学の学校制度が登校拒否、いじめなどにより動揺をきたし、これを支える地域共同体が核家族化、ひきこもり、子どもの貧困・虐待などによって内部崩壊を遂げて久しい。このような教育の混迷状況を見るにつけ、近代の教育が否定、踏み台にした前近代、江戸時代のヒトを人間にする教育システムを見直すべき時に来ていると思う。

日本全国で文書の書体を統一

江戸時代は日本歴史上かつてない「平和の時代(パクス・トクガワーナ)」であった。徳川家康が1615年に大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした元和偃武(げんなえんぶ)から、1867年の大政奉還まで実に2世紀半の間天下泰平の世が続いた。日本史ブームで戦国時代が昨今もてはやされているが、殺戮(さつりく)と略奪、人身売買の恐怖に曝(さら)されていた戦乱の世に翻弄(ほんろう)され続けた庶民にとって、徳川の平和は待ちに待ったまさに僥倖(ぎょうこう)であった。

江戸時代と言えば、武士が農工商を身分制度で束縛した暗いイメージがあるが、果たして事実であろうか。徳川の平和が2世紀半もの間持続できたのは、武力による武断政治と決別し、仁政を掲げ法治主義による文書を介した文治政治に転換したからであった。度重なる新田開発で耕地が2倍に増え、大規模家族が解体され、小百姓や分家の自立が進み、田畑と屋敷を所有することが可能になった。年貢収取1つとっても恣意(しい)的な搾取(さくしゅ)を禁止し、割付け状を発し、領収の皆済目録を渡したように、農民の支配は全て文書の手続きをもって行われた。これを可能にしたのは文書が、幕府の統治する北は蝦夷地(えぞち)から南は琉球(りゅうきゅう)まで「御家流(おいえりゅう)」という書体で統一されていたからであった。

庶民の教育熱によって支えられた教育システム

平和の時代に経済・生活活動が活発化したことで、商家だけでなく農家においても、商取引、土地売買、金銭貸借、家産相続など、トラブル防止のため文書による契約手続きが不可欠となった。その結果、江戸時代は、御家流の読み書きと算盤が必須の文字文化を前提とした社会となった。高札(こうさつ)や御触(おふ)れを読み、他人と取り交わす証文を判読できなければ騙(だま)され、不利益を蒙(こうむ)るのである。

その一方で百姓町人に対して、町や村に居住し家族を養うため家を持ち自立を促す政策が幕府によって進められた。家を守り、永続させるためには子どもを一人前の成人に成育させ、立派な後継ぎにしなければならない。かくして読み書き算用を習得させたいという庶民の教育熱が一気に高まり、寺子屋が津々浦々に誕生していった。幕府の支配は原則民事には介入しない。そのため寺子屋は、許認可の必要なく自由に誰でも開業できたのである。

初級から上級への教育カリキュラム

師匠と教場一部屋さえあれば成立した寺子屋は、列島日本の6万余の村数くらいあったと言われる。校舎などの施設、教員資格・教科書検定・カリキュラムの編成など教育全般を国が管轄する近代の学校と比べ、就学の義務もなく質量ともに一段も二段も劣ると見なされてきた。しかし事実は異なる。入退学は任意で自由、学習の中身は読み書き算用の実学を基本に師匠が自由に裁量する寺子屋は、束脩(そくしゅう=授業料)を支払ってまでも子どもに文字文化を習得させたい親の熱意によって運営されていた。親の自主性によって寺子屋は支えられ、子どもを一人前の人間にするための教育システムとして十分に機能していたのである。

寺子屋は男女共学で一斉授業の形式はとらず、師匠が個々の筆子(教え子)の実情に合わせ手作りの手本を与え一対一で指導する。現存するものだけでも7000種類(そのうち1000種類が女子専用)もある往来と呼ばれたテキストはバラバラで文字文化習得の体系をなしていないと見なされがちだが、それも誤解である。実は全国の寺子屋では、筆子に応じて巧みに実用のカリキュラムが組まれていたのである。

19世紀後半の寺子屋の実態が明らかになる上野国(こうずけのくに)勢多郡原之郷村(現・前橋市)の寺子屋九十九庵(つくもあん)の学習事例を紹介しよう。まず「源平(名頭字尽、ながしらじづくし)」。「源平藤橘」から始まる115文字の人名の学習である。次が「村名(むらな)」。そこには生活圏である勢多郡の村名が列挙されている。続いて「国尽(くにづくし)・郡尽」。日本66カ国の国名と上野国の郡名である。こうした師匠手作りの教科書によって、「源平」から「国尽」の順番で全ての筆子が学んでいった。まず人の名前の読み書きをマスターさせ、周辺の村名、郡名、国名と近くから遠くへと自分の暮らす周囲の地理を覚え込ませる。いずれも社会生活に不可欠な最低限の基礎学習である。これらは初級者用のテキストと言ってもいいだろう。

この後は筆子一人ひとりの能力や家庭事情を考慮して、いくつかのコースが用意された。1年の生活暦を綴(つづ)った「年中行事」や御上(おかみ)の法令を集約した「五人組条目」は中級で、世間を生き抜く知恵の詰まった「商売往来」「世話千字文(せわせんじもん)」が上級者用のテキストであった。「借用証文」「田畑売買証文」「関所手形」など実生活に密着した証文類は基礎学習が済んでから適宜挿入された。

しつけを重んじた寺子屋

寺子屋は読み書き算用のみを教え、筆子のしつけには無関心であったかのようなイメージがあるが、そんなことはない。師匠は親に甘やかされる筆子を前に礼の教育、しつけに苦闘している。駿河国駿東郡吉久保村(現・静岡県小山町)の湯山文右衛門は「余力学文」を寺子屋の目標に掲げている。『論語』の「行有余力、則以学文」(行いて余力あらば、すなわちもって文を学べ)の文言である。つまり、道徳の実践をして余力があれば学問を学ぶということで、学問より道徳を上位とした。家内では親に孝行し兄弟仲良く、外では行いが信・仁である条件を満たした上でなお余力ある者が文字文化を学ぶ資格があるというのだ。

1844(天保15)年、この教えを実践するため「子供礼式之事 十八か条」を定め、筆子と親に提示した。抄出して以下に紹介したい。

着座畳に手をつき額をさげて心静に礼いたし席ニ先々よりすわり可申事

(正座して畳に手をついて額をさげ、心静かに一礼して来た順に着席しなさい)

客来之時烟盆いたし茶酌皆々一同ニ礼を可致事

(来客があった時はたばこ盆とお茶を出し、皆一緒に一礼しなさい)

客入来之内ニはものよみ高声無之様ニ可為事

(来客中は大声で素読しないようしなさい)

大小便壱人宛限り可出事

(大便・小便を催した時は、ぞろぞろと行かないで一人ずつ行きなさい)

友達は皆兄弟同意ニ候睦敷互ニ行義正し幾末迄之親ミ可申候事

(友達は兄弟同様であるから仲良くして、互いに行儀を正し末々まで親しく付き合いなさい)

喧嘩口論ハ皆自分之悪ゆへ内々親々取上ざる事

(筆子同士のけんか口論は皆本人が悪いから起きるので、親はいちいち取り上げてはならない)

師対面無之内帰之節急度言葉可演都而 我が宿ニおゐても朝夕両親へ向て日礼いたし食可進事

(お師匠さんに挨拶しないで帰るときは他の筆子にさよならを言いなさい。家でも朝夕の食事の時は父母に向かって礼をしてから食べなさい)

朝寝すべからず手水遣ひ候ハヽまづ天道を拝し我が先祖を拝し可申事

(朝寝坊しないで起きたら水で顔を洗い、まずお天道さまを拝みご先祖さまを拝みなさい)

右之通り毎日読み為聞急度礼義相たしなむべき事なり

(右の箇条を毎日読み聞かせ、必ず礼儀作法を身につけなければならない)

教場内での礼儀作法から来客への接遇、礼に始まり礼に終わる。また筆子同士のけんか口論に対する親の介入を禁じ、三世の契りと言われた師弟関係を核に筆子仲間を生涯の友として大事にすること。さらに早起きして洗顔、お天道さま、ご先祖さまを拝み、食事には父母に一礼を欠かしてはならないと家の道徳にまで踏み込んでいる。寺子屋の文字文化の習得はあくまでも「余力」であって、実生活から遊離して文雅の道楽で身を滅ぼし家名を汚すことを危惧したのである。そこには読み書きの習得と一体化したしつけがあった。

一人前の人間を育てる若者組の教育

こうした寺子屋のしつけを受け継いで、厳しく一人前の人間に鍛え上げたのが若者組(わかものぐみ)であった。娘組(むすめぐみ)もあったようだが、資料が残っていないので詳しくは分からない。

若者組は口伝(くでん)や所作によって、地域の青年男子を一人前にするために非文字の伝統的習俗をたたき込む教育システムである。村・町の共同体において年齢によって組織され、貧富や家格に関係なく15歳になると全員が子どもと決別して若者入りをする。親元から切り離され、寝宿(ねやど=合宿所)に寝泊まりし、年齢の上下が絶対の服従を強いる厳格な掟(おきて)、規範の下で集団生活を送る。口授や身ぶりによって文化を伝承させる非文字の教育である。親はもちろん役人の介入も許さず、新入りの若者を共同体の一員に鍛え上げていく。今や封建遺制の汚名の下、祭礼の執行にその残影をしのぶ他ないが、個性、能力の開発を目標とする近現代の学校制度から完全に失われてしまった教育システムだと言えよう。

江戸時代の教育力の内実は読み書き算用の文字教育と、若者組・娘組の伝統的な非文字教育の拮抗(きっこう)、連携によって強固なものになっていたのである。そこには一人前の人間を育て上げようという強い意思が感じられる。江戸時代の教育に現代人が学ぶべきことは決して少なくない。

バナー写真:無款 「寺子屋の図」(アフロ)

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