台湾人と牛肉——日本のすき焼きをめぐる台湾牛肉食文化伝来史

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日本でも台湾でも長く牛肉食は禁忌だった。日本では明治維新後に「文明開化の象徴」としてすき焼きの前身である牛鍋が大流行する。やがて日本統治下の台湾にも伝わり、台湾の著名作家や反日運動のリーダーもおおいに好んだ。現代の台湾にも、すき焼きを提供しているレストランが多くある。牛肉食文化の受容プロセスは日台食文化交流を理解する一つの鍵を我々に教えてくれる。

日台牛肉食ことはじめ

台湾では老若男女を問わず牛肉を食べない人が多い。感覚的には、10人いたら2、3人は食べない。ベジタリアンも10人に1人ぐらいいる。ベジタリアンの場合は宗教や動物愛護などが主な理由となっており、一方、豚も鶏も食べるが牛肉だけは食べないという人は、「家訓」によってそうしている場合がほとんどだ。

筆者は会食の席などで、牛肉を食べない人から「爺ちゃんは農家出身で、牛は家族のように大切な相棒だったんだ。だから僕の家では牛を食べないんだよ」などと説明されることがある。台湾では「食了牛犬、地獄難免」(牛と犬を食べれば地獄は免れ難し)という古いことわざがあるほど、牛肉食がタブーとされてきた。そして現代の若者でも、忠実にその家訓を守っている人が多いのだ。

日本でも江戸時代までは、仏教思想の影響から四足の動物を食べることは表向き禁じられていたが、明治維新を境に、西欧化を推し進める政府の下で、牛肉食は一転「文明開化の象徴」となる。当時の代表的知識人であった福澤諭吉は「牛羊の食物は五穀草木を喰ひ水を飮むのみ。其肉の清潔なること論を俟ず(またず)」(『肉食之説』1870年)と書いて、庶民の間に根強かった「牛肉=けがれ」の観念を否定し、劇作家の仮名垣魯文は「牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」(『牛店雑談・安愚楽鍋』1871年)と書いて民衆をあおった。1872年には明治天皇が初めて牛肉を召し上がったことが新聞で報道され、今の関東風すき焼き(後述)の前身である「牛鍋」を出す店が次々に現れ、1877年には東京だけで550軒を越える牛鍋屋が存在していたという。

仮名垣魯文『牛店雑談・安愚楽鍋』(1871年)の挿し絵(人間文化研究機構国立国語研究所所蔵)
仮名垣魯文『牛店雑談・安愚楽鍋』(1871年)の挿し絵(人間文化研究機構国立国語研究所所蔵)

すき焼きを愛した台湾のインテリたち

1895年の台湾の日本への割譲で牛肉料理が高級レストランで提供されるようになり、徐々に民間にも普及していった。『台湾日日新報』1911年10月24日号には、台南公館(現・台南公会堂)にて神戸牛のすき焼きの提供を始める旨の告知があり、同年12月12日号には、台北の府前街(現・重慶南路)に「松尾牛肉店」がすき焼きの店を開いたとの報道もある。

「台湾日日新報」1911年12月12日の記事(国立台湾文学館提供)
「台湾日日新報」1911年12月12日の記事(国立台湾文学館提供)

日本統治期に台湾で活躍した知識人にも、すき焼きは好まれた。非暴力反日運動・民族運動・民主化運動のリーダーとして活躍した林献堂は、定期的に友人たちと「鋤焼会」という集まりをもっていたという。また龍瑛宗の日本語小説「龍舌蘭と月」には、田舎の温泉街に住む男が「わたしのところへ寄つていらつしゃい。なんにもないけれど、鶏ぐらゐは潰すよ。鋤やきをやらう」と言って旅人を自宅に招こうとするくだりがある。台南の作家・呉新栄の戦前の日記にも、会食ですき焼きを食べたという記述がしばしば出てくる。

反日運動を展開した人物でさえ日本由来のすき焼きを好んだ点から、「文明開化」とはまた違ったすき焼きの意味づけが見えてくるかもしれない。鍋料理は皆が身分の別なく、楽な姿勢で畳に座り、一つの鍋を囲んで、思い思いに具をつつく。そこで天下国家が論じられる事もままあったろう。市民たちが自由に議論を交わす場としての機能を担っていたのではないだろうか。林献堂が開いていた「鋤焼会」や作家同士の会食は、そういう性格をそなえていたのではないかと考えられるのだ。

現代台湾の「寿喜焼」を食す

現代の台湾にもすき焼きは伝えられている。「寿喜焼」の字を看板にかかげたレストランは少なくない。台湾では値段も安く、おおむね300台湾ドルから500台湾ドル(約1100円~1800円)程度で、肉も野菜も食べ放題なのが基本スタイルとなっている。

我が家の近所にある「一番地」という店は4種の米国・ニュージーランド産牛肉のほか、豚肉、鶏肉、羊肉も取り揃える。さらに色とりどりの野菜、生卵、コシヒカリのご飯やうどん、ソフトドリンクなども500台湾ドル(約1800円)で食べ放題・飲み放題だ。

和風のホールには若者や子供連れの姿が目立つ。席に着くと、まず店員さんがテーブルの中心に置かれた浅い鉄鍋に玉ねぎと割り下を入れ、IHの電源を入れ、肉を一揃い持ってきてくれる。日本の専門店ではきれいな着物姿の店員さんが丁寧に肉や野菜を焼いてくれたりするが、こちらではこの先すべてセルフサービスで行う。

玉ねぎが飴(あめ)色になり、湯気と共に香ばしい香りが立ってきたところで肉を投入。かなり薄くスライスされているので、あっという間に火が通る。手早くつまみ上げ、あらかじめ茶碗に割り入れておいた生卵に軽くひたしてから口に入れる。

肝心の肉質だが、米国のランク付けでいうプライム(一等級)やチョイス(二等級)の霜降り肉が使われているとあって柔らかく、脂も適度に乗っていてとてもおいしい。副菜には豆腐や白菜などの他、日本ではあまり食べないヘチマや韓国料理のトッポギなども。お客さんを観察すると、小皿に取った具を何もつけずにそのまま口に運んでいる人も多い。これは生卵を食べない人が多いためだ。卵を鍋の中に割り入れて、熱が通ってから食べたりもする。台湾では灰汁(あく)を取らない。上述の店にも灰汁をすくう網が置いておらず、皆、スープが濁るに任せている。台湾人の妻は「台湾人はこれに栄養があると思っているのよ!」と言っていて、そういう発想もあるのかと驚いた。

関東風と関西風の融合形

日本では割り下を使って甘辛く材料を煮込んだ「関東風」と、鍋に牛脂をひいて直接肉と野菜を焼き、醤油と砂糖と野菜から出る水分で味を調節する「関西風」があるが、現代の台湾はほとんどが関東風である。しかし、上述の店では最初に玉ねぎを炒めたり、白菜をたくさん使ったり、締めにうどんを入れたりするなど、関西的な要素も見られ、双方の良いところをうまく融合させている。

ちなみに日本統治期の「鋤焼」は、関西風が主流だったものと推測される。戦前にすき焼きを好んでいた前出の呉新栄は1960年1月28日の日記に「私が作るのは日本式であり、野菜と肉の他には砂糖と油しか使わない」と記している。また当時の移住者には西日本出身者が多かったことも関係しているようだ。

米兵相手に広まったステーキ

年季の入った牛型鉄板、麺と玉子が特徴的(筆者撮影)
年季の入った牛型鉄板、麺と玉子が特徴的(筆者撮影)

筆者が住んでいる町・台南には、昔堅気の個性的なステーキ店がいくつかある。店構えはいたって簡素で、歩道と店内の仕切りさえなかったりする。値段はリーズナブルで、サラダやポタージュやアイスクリームが食べ放題の店もあり、たくさんの常連客がついている。

筆者がよく行く「赤崁牛排」は、深夜2時ごろまで営業している創業40年のステーキ店だ。紅いプラスチックのスツールに腰かけ、シンプルな注文票に記入して、20代のときこの店を開いたという白いコックコート姿の店主に渡す。しばらくすると店主が、ステーキが載ったアツアツの鉄板を運んできてくれる。牛の姿をかたどった、黒くてかっこいい鉄板だ。鉄板と肉の間にはモチモチした太い麺と目玉焼きが挟まっていて、こういうスタイルは台南が発祥だとも聞く。肉を食べ終わるころには麺がデミグラスソースや黄身と絡み合い、しっかり味がついている。

ステーキが庶民の間に広まるきっかけになったのは、1950年代から70年代にかけて台湾に駐留していた米兵だったと考えられる。昔は牛肉そのものが高級食材だったが、彼らの胃袋の欲求を満たすために、基地周辺には洋食店がいくつもできた。台南では飛行場の近くにあった「快楽小館」という店が先駆だそうだ。

創業40年の庶民派ステーキ店(筆者撮影)
創業40年の庶民派ステーキ店(筆者撮影)

中国大陸の味、牛肉麺

肉のほかスジやハチノスなども入った「牛肉三宝麺」(筆者撮影)
肉のほかスジやハチノスなども入った「牛肉三宝麺」(筆者撮影)

台湾のメジャーな牛肉料理には他に牛肉スープと牛肉麺が挙げられる。

台湾南部台南の名物料理の牛肉スープに使われる肉は「温体牛肉」と呼ばれ、解体直後の国産牛肉だ。乳牛が多いとされ、郊外の食肉処理場から届けられる生肉を、薄く切ってお碗に入れ、玉ねぎやリンゴから出汁を取った透明な熱々のスープを勢いよく注ぎ込み、まだ肉に赤みがさしている内に食すべきものとされている。筆者も帰省のさい即席の牛肉湯を作って家族にふるまうことがあり、なかなか好評だ。これは21世紀に入ってから流行したもののようだ。

牛肉麺は台湾全土で食べられている中国大陸由来の料理である。台湾には「眷村」と呼ばれる、戦後大陸から渡ってきた軍人・教師・公務員とその家族たちがかたまって暮らす集落が数多くあった。台南空港に近い「二空」もその眷村の一つだ。筆者が体調を崩したときに世話してくれた人が、夫婦で経営する二空の牛肉麺の店に連れて行ってくれたことがある。路と店を仕切る壁も、看板さえもない、こじんまりとした店だった。赤茶色のスープの濃厚な味わい、ごろごろと浮かぶ牛肉の柔らかさ。初めて口にした牛肉麺は感動的な美味しさだった。夫婦は代金を受け取らなかった。しばらくして大規模な再開発がなされ、高層マンションが建って、夫婦の行方も分からなくなった。今なお、あの時の牛肉麺をしのぐものにはめぐり会えずにいる。

かつて「食えば地獄は免れ難し」とまで言い伝えられていた牛肉も、日本経由で伝わり、中国やアメリカ出身者など外来文化の影響を受けながら、広く大衆に食されるようになった。忌避の原因であった農業での働き手=牛という点も農業の機械化にともない労働力としての役割を終えたが、台湾の一部の家庭に受け継がれている「家訓」のゆえに、今でも牛肉を食べない人は非常に多い。動物に対する愛情と、祖先が守った価値観を重んじる台湾人の意識がうかがえ、筆者は深い敬意を覚える。

牛肉スープは、生肉に熱々のスープを注いですぐ食べる(筆者撮影)
牛肉スープは、生肉に熱々のスープを注いですぐ食べる(筆者撮影)

バナー写真=鶏肉やヘチマなど、彩り豊かな台湾のすき焼き(筆者撮影)

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