日本プロ野球の実況・取材20年 : 台湾人アナウンサーが感じる優等生すぎる日本の野球中継

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台湾の野球ファンは、日本プロ野球も大好き!気軽に日本の球場に行けなくても、テレビ中継にかじりついて観戦している。台湾で日本の野球中継が始まった1990年代から、アナウンサーとして実況中継を担当し、イチロー選手や松井秀喜選手を取材した経験も持つ兪聖律(ゆ・せいりつ)氏が、日本プロ野球について熱く語る!

全ては日本プロ野球の録画中継から始まった

「日本プロ野球について、言いたいこと……」

友人が書いた本のタイトルを借りて、私と日本プロ野球の関わりについてお話したい。

社会人2年目の1996年、しかもラジオからテレビに転向したばかりで、スポーツ番組の経験もなかった私は、野球の実況アナウンサーに抜擢された。私のスポーツメディアでの20余年のキャリアは、日本プロ野球の中継から始まった。

台湾人が日本プロ野球に興味を持つきっかけとなったのは、「二郭一荘(にかくいっそう)」に代表される1980年代の台湾人選手の日本のプロ野球での活躍だ。二郭一荘とは、郭源治(かくげんじ/中日ドラゴンズ)、郭泰源(かくたいげん/西武ライオンズ)、荘勝雄(そうかつお/ロッテオリオンズ)の3人。ジャイアンツで「怪物」と称された呂明賜(ろめいし)も注目された。

台湾プロ野球でリーグ戦が始まったのが1990年、テレビで試合の生中継が見られるようになったのが96年のこと。二郭一荘が日本で活躍していた時代は、まだ、台湾にプロ野球が誕生していなかったのだ。

黎明期の台湾プロ野球は日本を手本にしていた。インターネットが普及していない時代のことだ。憧れの日本プロ野球を見るためには、NHKの衛星放送がたまに映るのを待つしかなかった。村上春樹は、日々の生活の中で感じるちょっとした、でも確かな幸せを “小確幸” という造語で表現したが、NHKが映ったときの喜びは、野球ファンにとっては小確幸そのものだった。また、テレビゲームの「プロ野球ゲーム」も、チームやスター選手の情報を仕入れるためには欠かせなかった。

台湾のスポーツ番組の草創期

台湾で初めて日本プロ野球の試合を放送したのは、衛星放送チャンネル「年代電視台」の前身TVIS(歓楽無線台衛星頻道)だった。TVISは、1994年に録画のジャイアンツ戦を放送、95年にはオリックス対ヤクルトの日本シリーズの優勝決定戦を放送した。

東森育楽台は1998年で3年契約を結び、オリックスのホームゲームを放送した。日刊スポーツにも報道され、筆者も取材を受けました。(筆者提供)
東森育楽台は1998年で3年契約を結び、オリックスのホームゲームを放送した。日刊スポーツにも報道され、筆者も取材を受けた(筆者提供)

続いて、東森育楽台が1998年に日本のスポーツチャンネル「スポーツ・アイ ESPN」と3年契約を結び、オリックスのホームゲームを放送。台湾で初めて定期的に日本プロ野球の試合が放送されるようになり、「朗神」と呼ばれ、台湾でも憧れの存在だったイチローの姿を見られるようになったのだ。21世紀になると、地上波の台視、華視、民視はもちろん、ケーブルテレビの緯来体育台、八大電視台、東森超視、愛爾達でも日本プロ野球の試合が放送されるようになった。

その流れに海外資本も続く。ESPN衛星チャンネルは、2005〜08年の3年間に楽天と西武のホームゲームを放送するなどし、この15年間で、台湾で日本のプロ野球を観戦するには、はずせない専門チャンネルとして定着した。

ESPNはローカル化にあたり「FOX体育台」と改名し、陽岱鋼(ようだいかん)の日本ハムでの活躍をきっかけに、2014年からパ・リーグの試合の放送をスタート。台湾の野球ファンにとって日本プロ野球の試合を見るためのメインチャンネルになった。

しかし、2021年1月、FOXスポーツチャンネルは台湾から撤退を決定、日本のプロ野球中継も終了してしまった。現在、台湾で放送されているのはMOMOチャンネルのみとなり、チェンが加入する阪神タイガースのホームゲームだけとなった。

さて、野球の実況アナウンサーになったばかりの頃の私は日本語を勉強したことがなく、日本プロ野球で知っていることと言えばテレビゲームで得た知識くらいだった。しかし、幸運にも日本プロ野球の中継に何度も携わることができ、台湾で初めてイチローを取材したメディア関係者になった。これはとても幸運で面白い経験だった。

アナウンサー「初登板」は録画の試合だった

TVIS時期の兪聖律、ウォータースポーツを取材した。(筆者提供)
TVIS時代には、ウォータースポーツも取材した(筆者提供)

私がTVISに入社したのは1996年のことだ。TVISが保有していた台湾プロ野球の放映権が翌年に緯来体育台に移ることが決まっており、TVISは残された期間内に全ての放送を終えるために、人材探しにほん走していた時だった。そして思いがけず、私が野球中継の仕事を任されることになったのだ。しかし当時の私は実況アナウンサーとしての実務経験が乏しく、研修を兼ねて日本プロ野球の試合の録画中継での実況を担当することになったのである。こうして私はスポーツアナウンサーになったのだ。

アナウンサー「初登板」の試合は、実際にはすでに数日前に終了していたもので、対戦カードも、セ・リーグかパ・リーグだったのかすら記憶にない。その後、私は球場から台湾プロ野球リーグ「中華職業棒球聯盟」(CPBL)のシーズン戦、優勝決定戦を実況したが、こちらははっきりと覚えている。試合は味全ドラゴンズvs統一ライオンズ、4勝2敗で統一ライオンズが優勝。2年目の1997年には台湾プロ野球の新リーグ「台湾職業棒球大聯盟」(TML)が発足し、台湾プロ野球は2リーグ時代を正式に迎えた。

1998年、それまで台湾のプロバスケットボールリーグCBAの中継をしていた東森育楽台(現在はショッピングチャンネルとして放送)が、3年契約でオリックスを中心とした日本プロ野球の試合を放送することになった。新番組の名前はわかりやすく「野球一撃棒」だ。

当時、私はすでにTVISを退社しており、「野球一撃棒」の中継担当のアナウンサーを探していた東森育楽台と出会い、再び日本プロ野球に関わることになった。新番組の記者会見の様子は台湾の新聞の芸能欄に載り、宮古島でオリックスの春季キャンプを取材していたところが、なんとあの「日刊スポーツ」に載ったのだ。

「朗神」イチローの驚異的な記憶力

兪聖律が東森育楽台の記者として、沖縄県宮古島に行ってオリックスの春キャンプを取材して、イチロー選手とも取材した。当地の宮古新報と宮古毎日新聞も報道された。(筆者提供)
東森育楽台の記者として、沖縄県宮古島でオリックスの春キャンプを取材。台湾から取材陣が来たことが、地元紙の宮古新報と宮古毎日新聞で報じられた(筆者提供)

沖縄県のオリックスの春キャンプを取材した際、イチローから「女の子を騙した顔だな」冗談に言われることもある。(筆者提供)
沖縄県のオリックスの春キャンプを取材した際、イチロー選手から「女の子をだましそうな顔だな」とからかわれた(筆者提供)

キャンプ取材の際、日本サイドは仰木彬監督と人気No.1のイチローへのインタビューの場をセットしてくれた。イチローは、台湾では「朗神」と呼ばれ、大人気だった。私は台湾メディアとして初めてイチローを取材する幸運に恵まれ、逆に、日本メディアから取材を受け、こともあろうか「台湾の人気アナウンサー」として日刊スポーツに掲載された。少し大げさな書き方に、私のどこが「人気」なのだろうかと、気恥ずかしくなってしまった。

1999年、台湾で起きた921大地震のチャリティーマッチのために来台したイチローと偶然の再会を果たした。イチローは私のことを覚えていてくれたのだが、「かっこいいアナウンサーさん」と呼ばれて、本当に照れてしまった。

その後、イチローは米メジャーリーグに移籍。私自身はアナウンサーから、大衆紙「アップルデイリー」のスポーツ記者に転身し、メジャーのヤンキースでエースピッチャーとして活躍していた王建民の取材のために渡米することになった。そしてヤンキースvsマリナーズ戦の試合の前に、偶然、イチローに会ったのである。その時も、イチローは私のことを覚えていたのだ! 彼の驚異的な記憶力に驚いたのはもちろん、とても不思議な縁を感じたものだった。

当時、ヤンキースには日本の大スター・松井秀喜も在籍していた。松井と王はアジア出身同士、大変仲が良く、松井は台湾から取材に来た私にまで親切にしてくれた。日本メディアとは取材で何かと助け合っていたが、その中で松井とも親しくなり、私は松井から「ユーさん」と呼ばれるようになった。春季トレーニング期間に、松井の自宅でのバーベキューパーティーに日本人記者と一緒に招待されたことは、とても特別な体験だった。

王建民がヤンキースで大ブレイクした頃、兪 聖律がシカゴホワイトソックスのホームで王を取材した。(筆者提供)
ヤンキースで活躍していた王建民をシカゴホワイトソックスのホームで取材(筆者提供)

20年後、再び日本プロ野球の実況アナに

私は1995年に社会人になり、ラジオを経てテレビ局のスポーツアナウンサー兼取材スタッフとして仕事をしてきた。日本プロ野球は、間違いなく私が野球に関わるようになったきっかけだ。

私はアップルデイリーを2015年に退社しフリーランスとなったが、16年に再び日本プロ野球に関わることになった。当時、毎週、大量のパ・リーグの試合を放送していたFOX体育台が、日本プロ野球を実況できるアナウンサーを探しており、私は、新聞記者からスポーツアナウンサーに返り咲くことになったのだ。 

日本プロ野球から離れて久しく、最初は「長年会っていない旧友」という感覚があったが、仕事を始めると感覚はすぐに戻ったように思う。そして、長年の野球取材で培った経験から、日本プロ野球に対する気持ちや表現は以前とはまた違ったものにもなった。

20年前の私は日本プロ野球の伝統を重視していた。中継の雰囲気やカメラワークはきっちりしている必要があると考え、中継で大切なのはミスがないことだと思っていたのだ。しかし、メジャーリーグでの仕事を経験し、さらにより奔放な雰囲気の台湾プロ野球での仕事を経て、再び日本プロ野球を担当すると、日本プロ野球の持つ保守的なリズムに慣れるのに気を使った。

ここ数年の日本プロ野球の中継を聞いていて、変化にも気づいた。たとえば日本ハムの実況は、メジャー流の用語が飛び交うにぎやかな実況方式になっていたのだ。だがそれでも日本の実況は、時に絶叫し、時に歓喜の雄叫びを上げる台湾の実況と比較するとまだまだ模範生という印象だ。ホームランでも、超ファインプレーでも、日本では感情が高ぶった実況を聞くことはほとんどない。 

兪聖律がアメリカのアリゾナ州でロッキーズの春キャンプに参加した曹 錦輝を取材した。曹は台湾の初めての大リーガー。(筆者提供)
ロッキーズのアリゾナ春季キャンプでは、台湾人初のメジャーリーグ投手・曹錦輝を取材した(筆者提供)

兪聖律がアップルデイリー頃、アメリカで台湾の大リーガーを取材、左はAA時代の王 建民、右はヤンキーススタジアムメディアの入り口。(筆者提供)
アップルデイリーの記者として、米国で台湾出身の大リーガーを取材。左はマイナーのAA時代の王建民と。右はヤンキーススタジアムメディアの入り口(筆者提供)

日台の野球放送の違い 

一般的にテレビ業界では、データや図の表示方法にしても、ディレクターやカメラマンのカメラワークにしても保守的であることを嫌がるものである。中継技術が日進月歩で発達し、各種データが飛び交うこの新時代の野球で、日本プロ野球は中継方面では少し遅れを取っているかもしれない。その点、お隣の韓国の野球中継はとても華やかで全体の雰囲気もメジャーリーグ寄りだ。

テレビ局に若い人材が入ってきて、中継技術が進化しても、日本の野球中継が旧態依然としているのは、日本社会もしくは日本プロ野球そのものが新しい時代の野球に対し、二の足を踏んでいるということではないだろうか。

もちろん、変革も起きている。日本プロ野球ではイベント、商品、マーケティングにおいてここ数年で大きな変化が起こっている。若者を球場に呼び込むために積極的に取り組んできた結果だと言えるだろう。日本のプロ野球市場はアジア最大だ。またマーケティングでも優れた人材が活躍し、予算も商品の生産コストも商品の質も台湾に優っていると言える。それらが成功するかどうか全てを決めるのは市場だ。

昔から、日本プロ野球は更なる高みを目指す台湾の野球選手の目標の1つだった。そんな歴史が台湾の野球を取り巻く環境に影響し、近年では日台の野球交流も活発化、日本の若い野球ファンが台湾に興味を持つきっかけにもなっている。

私がこの生涯の仕事に就いたきっかけも、日本プロ野球だった。この20年のキャリアの中で常に重要な位置を占めてきた存在だと言える。そして新時代を迎えるなか、これは業界の友人とよく言っていることだが、台湾プロ野球から日本プロ野球に挑戦した日本ハムの王柏融(ワン・ボーロン)は、日台野球が交わる重要な交差点であると感じている。王柏融は日本ではまだ成功と言えるほどの実績は出していないが、マーケティングと人材交流という面で日台プロ野球は共に第一歩を踏み出したと言える。今後、環境と選手の努力次第ではもっと大きな盛り上がりを見せてくれるかもしれない!

注 : 本文中の選手名は敬称略で表記した

バナー写真 = 1998年の宮古島キャンプで、子どもたちにバッティングのお手本を見せるイチロー選手(共同イメージズ)

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