新橋の激戦区で40年生き抜いた台湾式居酒屋「香味」: 日本で味わう故郷の味!(後編)

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絶え間なく人が行き交い、「サラリーマンの聖地」と呼ばれる新橋駅界隈(かいわい)はグルメ激戦区でもある。昭和の風情ただよう駅前のニュー新橋ビルを抜けた先にある、小学校跡地を活用した公園の近くに、一軒の台湾料理店がたたずんでいる。

昭和風の店で味わう台湾料理

台湾料理「香味」は、東京新橋の古い建物の一角にある(筆者撮影)
台湾料理「香味」は、東京新橋の古い建物の一角にある(筆者撮影)

その台湾料理店の名は「香味」だ。少し色あせた紅色の布看板と灰色のコンクリートが織りなす外観からは、昭和のレトロな雰囲気が醸し出されている。店内も至る所が紅色だ。手書きのメニュー表も赤く縁取られた紙が使われている。牡蠣オムレツ「蚵仔煎(オアチェン)」、台湾では定番の「蔭豉蚵仔(牡蠣の豆豉炒め)」、干し大根などの具材を卵でとじた「菜脯蛋(台湾オムレツ)」など……文字を見ただけで台湾に来たような感覚を味わうことができる。

メニューを眺めていると、台湾出身で63歳になる2代目店主の河田泰宗さんが出てきて料理の説明をしてくれる。場所柄、さまざまな客がやって来るが、泰宗さんは臨機応変にその客に最もふさしく、かつその時期に旬の台湾料理を勧める。少なからぬの日本人が、泰宗さんおススメの台湾料理ファンになっている。泰宗さんの経験の高さをうかがえるだろう。

厨房に立つのは、同じく台湾出身の妻の碧さんで、夫婦2人で手を取り合いながら営業して20余年、香味には多くの熱狂的なファンが集まるようになった。壁には来店した有名人の写真とサインが所狭しと並んでいる。日台ハーフのタレント渡辺直美さんや音楽プロデューサーの秋元康さんも香味の常連客だ。

香味では、台湾の観光地についての情報も仕入れることができる。美味しい料理を楽しみながら台湾を知る……香味は観光外交の場と言っても差し支えないだろう。特に2020年の新型コロナウイルス流行下では、台湾旅行に行けない日本人がひっきりなしに店を訪れ、食事と共に台湾に思いをはせていた。

タレント渡辺直美さんは香味の常連客(左は妻・碧さん、河田泰宗さん提供)
タレント渡辺直美さんは香味の常連客(左は妻・碧さん、河田泰宗さん提供)

縁あって来日した父親

泰宗さんの元の姓は「許」だ。生まれは台湾中部最大の都市である台中市である。香味は父親の河田正明さんが1986年に開業した。父・正明さんの来日のきっかけには、偶然とも言えるある縁があった。

「元々、父は台中でタクシー運転手をしていました」と、泰宗さんは振り返る。1960年代、日本が高度経済成長期を迎えると多くの日本人が経済的に豊かになり海外旅行を楽しむようになった。当時、国交があり日本語が通じる台湾は、日本人にとって最も身近な海外旅行の候補地であった。

東京でも様々な業界で台湾人がビジネスを成功させていた。その1人・実業家の蔡火欽さんが日本人と共に台湾旅行に訪れた際に、一行の旅行プランを正明さんが請け負うことになり、正明さんが運転するタクシーに蔡火欽さんらを乗せて台湾を案内したのだ。そして、正明さんの仕事ぶりが気に入った蔡火欽さんは、日本に戻る際に「一緒に日本に来ないか?」と正明さんを誘ったのである。

こうして、1960年代に正明さんは家族を連れて日本に移住し、蔡火欽さんの家族が経営する「東和産業」で働くことになった。当時の東和産業の事業範囲は広く、新橋と有楽町で宝石店を経営するほか、多くの飲食店を展開していた。正明さんは東和産業での仕事を通じて、飲食店経営のノウハウを学んでいったのである。東和産業に勤めて20年あまり、経験を十分に積んだ正明さんは独立を決意、こうして新橋に台湾料理店「香味」が誕生した。

偉大な建築家・郭茂林の精神を受け継いで

「香味」の開業当初、店を切り盛りしていたのは父母と弟夫妻、妻・碧さんの5人。碧さんは実家が飲食店で、台湾料理が得意だったのだ。家族の中では泰宗さんだけが、飲食業とは別の道を歩んでいた…建築の道だ。

元々、1960年代に正明さんが一家で日本に移住した際、泰宗さんは1人台中に残っていた。当時の台湾はまだ戒厳令下にあり、兵役逃れ防止策として満15歳以上の男子は原則的に海外渡航を禁じられていたためだ。海外移住や海外にいる家族の訪問などもってのほかで、満15歳だった泰宗さんは台中に残り祖父母と暮らすことになったのだ。

一生の師と仰ぐ在日台湾人建築家の郭茂林さん(中央)と泰宗さん(左)(河田泰宗さん提供)
一生の師と仰ぐ在日台湾人建築家の郭茂林さん(中央)と泰宗さん(左)(河田泰宗さん提供)

その後、泰宗さんは台湾の私立大学の建築学部に進学。兵役を終え、東京の父を頼って来日した。優秀な建築家になることを夢見て、日本大学で建築を学び、日本の建築事務所に勤め始めた。後に台湾の偉大な建築家で、霞が関ビルを設計した郭茂林さんが創設した建築事務所KMGに就職した。

泰宗さんは郭茂林さんの秘書を務め、2人はプライベートでは台湾語で話していたという。泰宗さんによると、郭さんはゴルフ好きで、ユーモアがあり、人当たりが良く、偉ぶらない人物だったそうだ。

泰宗さんが、郭さんから学んだことは、「相手や場所によって態度を変えず、何事にも誠実な態度で臨んで初めて人からの尊敬を受けることができる」ということだという。郭さんの事務所が日本だけでなく台湾の大規模な建築プロジェクト、例えば台北駅前の新光三越ビル(前鉄道飯店)や台北市の都市計画等に携わるようになると、郭さんの台北での打ち合わせに泰宗さんも同行するようになった。泰宗さんは当時のことを故郷に錦を飾ったような感慨があったと振り返った。

東京白金台の台湾駐日代表処(大使館に相当)は、霞が関ビルの建設で活躍した郭茂林の会社が建設したもので、河田さんも設計に関わった。中華民国七十八年は1989年のこと(河田泰宗さん提供)
東京白金台の台湾駐日代表処(大使館に相当)は、霞が関ビルの建設で活躍した郭茂林の会社が建設したもので、河田さんも設計に関わった。中華民国七十八年は1989年のこと(河田泰宗さん提供)

かつて新橋にひしめいていた台湾人ビジネスマン

台湾の名物料理「牡蠣と豆腐のトウチ炒め」は、小粒だが味が濃厚な台湾産のカキを使用。しかし日本では手に入らないため、香味では大きめの広島産のカキで代用している(筆者撮影)
台湾の名物料理「牡蠣と豆腐のトウチ炒め」は、小粒だが味が濃厚な台湾産のカキを使用。しかし日本では手に入らないため、香味では大きめの広島産のカキで代用している(筆者撮影)

現在、「サラリーマンの聖地」と呼ばれる新橋は、1980年代には多くの台湾人ビジネスマンが闊歩(かっぽ)していた。当時、台湾経済は上向きで、多くの台湾人ビジネスマンが皮のトランクを片手に羽田空港に降り立った。来日した台湾人は、そのまま新橋で商談することが多く、80年代末の香味の売り上げは相当なものだったという。

しかし、香味の開店から数年後、バブルが崩壊し、経済の衰退が始まった。その余波は香味にも押し寄せ、転機が訪れた。開店以来、父・正明さんらと店を切り盛りしていた泰宗さんの弟夫妻が台湾に帰ることになり、店の後継者問題が浮上したのだ。それを受け、建築業界で働いていた泰宗さんに「店を手伝わないか」と声が掛かった。ちょうど建築業界も不景気に見舞われていたこともあり、泰宗さんは考えた末、妻の碧さんと共に2代目として店を継ぐことを決心した。

しかし、建築家から飲食業への転身は容易ではなく、泰宗さんは新しい環境に慣れるのに時間がかかったという。「建築では建築家自身が主体になりますが、飲食業はお客様が主役で、おもてなしが全てです」と泰宗さんは笑いながら話す。泰宗さんは、2つの仕事で最も違うと思った点は、建築家時代は、台湾での商談の際、現地の政府関係者が泰宗さんらを大げさなまでに歓迎し、至れり尽くせりでもてなされる側だったのに対し、香味の店主になってからは泰宗さんの方から客に腰をかがめて自己紹介するようになったということだ。

香味を継いだばかりの頃、泰宗さんは銀座に別の店を持ったこともあった。高級路線の台湾沙茶火鍋店だ。しかし当時の泰宗さんは料理の紹介が得意ではなく、火鍋店の経営は安定しなかった。

当時のことで、泰宗さんがよく覚えているのは、ある日本人客が1万円のセットメニューを注文したときのことだ。その客は、泰宗さんと店のスタッフが中国語や台湾語で話をしているのを見ると、眉をしかめ不機嫌になったそうだ。結局、料理が出されても一口も食べず、会計だけして去ろうとしたという。その様子を見た泰宗さんは不愉快になり、客に向かって「申し訳ありませんが、店には二度といらっしゃらなくて結構です」と言ってしまったそうだ。

香味の料理は、いつも在日台湾人の胃袋を満足させていている(筆者撮影)
香味の料理は、いつも在日台湾人の胃袋を満足させていている(筆者撮影)

大切なのは台湾人の味を受け継ぐこと

だが、泰宗さんは自身の行動を振り返り、店主としてやらなければならないことは、謙虚な態度で料理を紹介することではないかと思い直したという。それ以来、泰宗さんは店のメニューを把握し、台湾料理を試作してみるだけでなく、旬の台湾料理を勉強し、自ら仕入れ業務を担当するまでになった。現場に出て、まず自分でやってみることから始めたのだ。

続いて、泰宗さんは料理の提供の仕方を日本人の好みに合わせるようにした。例えば、台湾人に最も親しまれている滷肉飯(ルーローハン)の肉は、現地ではほとんどが脂身だが、脂身を好まない日本人のために赤身を30%増やし、脂身の比率を変えた。ちなみに、台湾人が滷肉飯を注文した際は脂身をたっぷり乗せて出すなど臨機応変に対応しているという。

香味のルーローハンと乾麵などは常に改良が加えられていて、いまでも日本人のお客さんに人気だ(河田泰宗さん提供)
香味のルーローハンと乾麵などは常に改良が加えられていて、いまでも日本人のお客さんに人気だ(河田泰宗さん提供)

店の名物料理である「炒海瓜子(アサリ炒め)もそうだ。香味では東京産のアサリを提供しているが、比較的高い東北産の白貝を選ぶこともできる。値段は同じだ。また客に毎回細かく料理の説明をするなど、接客の態度にも変化が現れた。

泰宗さんは「たまに青椒肉絲(チンジャオロースー)や回鍋肉(ホイコーロー)など、うちのメニューにはない、いわゆる中華料理を注文されるお客様がいらっしゃるんです。だから私はうちの台湾料理を1つ1つ説明しているのですよ」と笑って話す。客の中には泰宗さんの説明を聞いて、食べた後に大絶賛する人もいるという。店に携わるようになって以来、多くの経験を積んだ泰宗さんは、TBSの「王様のブランチ」で「薑母鴨(ジャンムーヤー / アヒルの生姜スープ煮)」や「大腸麺線(モツ煮入りそうめん)」を紹介し、台湾料理のPRを続けている。

あさり炒めは、台湾ではおなじみの家庭料理(筆者撮影)
あさり炒めは、台湾ではおなじみの家庭料理(筆者撮影)

おいしい料理と良い建築物は同じ

店内には手書きのメニューが多数あり、本場での特徴をよく表した名前が付けられている(筆者撮影)
店内には手書きのメニューが多数あり、本場での特徴をよく表した名前が付けられている(筆者撮影)

泰宗さんの代になり、香味は新橋の名店に数えられるようになった。派手な宣伝をしなくても常連客のクチコミだけで商売はとてもうまくいっていたそうだ。

2020年の新型コロナウイルスの流行で、店の売り上げは下がり始めたという。だが、泰宗さん夫妻はめげることなく、テイクアウトメニューを開発。香味の排骨飯(パイグー丼)と鶏腿飯(鶏もも丼)は新橋のサラリーマンの人気ランチになった。

今後について、泰宗さんは店を3代目に引き継ぎたいと願うと共に、日本の食材を使って台湾の味を作り出したいと考えているそうだ。「食材を変えることはできます。でも味は絶対に変えません」。泰宗さんは台湾映画『孤味(弱くて強い女たち)』を例に挙げ、台湾人が海外で認められるためには何事も実直に取り組む必要があると話した。

泰宗さんがそう考えるのは、かつて建築業界にいた頃に郭茂林さんから受けた影響によるものかもしれない。当時、便宜をはかってもらおうと、「お心付け」を持って郭茂林さんの元にやってくる人が後を絶たなかったが、郭さんはそれを全て拒否していた。そして泰宗さんに「私たちは台湾人だ、台湾に顔向けできないことは決してしてはならない」と話したという。

団体客には、河田さんはいつも台湾式のおかず盛り合わせをすすめている(河田泰宗さん提供)
団体客には、河田さんはいつも台湾式のおかず盛り合わせをすすめている(河田泰宗さん提供)

もし泰宗さんが利益第一主義なら、容易にひと財産築くことができたかもしれない。だが、泰宗さんは店を継いで以来、東京で台湾の味を守るほか、建築業界で学んだ「実直であれ」という哲学も守り続けている。泰宗さんは「今思うのは、確かな料理を作ることは、確かな建築物を作ることと同じではないかということです」

泰宗さんは、日本という異国の地で外国人が、地に足をつけ成功するには、日本人以上の能力が必要だと考えているそうだ。

恩師である郭茂林さんは同様の精神をもって、建築業界に自身の天地を切り開いていった。泰宗さんは来日してもう40年だ。自身と恩師を比較はできないとしているが、師から学んだものを生かし、料理を通して静かに台湾文化を広め続けている。

バナー写真=30年以上夫婦二人三脚で切り盛りしている台湾料理「香味」の河田泰宗さん(左)と妻の碧さん(右)(筆者撮影)

前編では浅草の香港料理店「火炎」を紹介しました

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