青春に悔いなし:日台・伝説のインディーズバンド「透明雑誌」

文化 美術・アート 音楽

「透明雑誌」は、2010年代に日本と台湾のインディーズシーンを席巻した台湾のバンドだ。2011年から16年までの毎年、日本各地の大小様々なステージに立ち、一度は日本の大手レコード会社と契約し、メジャーデビューも果たした。「彼らが奏でる音色は懐かしさと純粋さを併せ持つ」と評され、90年代を思わせる青春の狂騒感に日本でも少なからぬファンを獲得した。しばらく活動を休止していたが、2020年に復活ライブを敢行、日台のファンは熱く盛り上がる。

伝説のバンド、5年ぶりの復活

透明雑誌のカムバック・ライブ。チケットはわずか1分間で完売(陳芸堂撮影)
透明雑誌のカムバック・ライブ。チケットはわずか1分間で完売(陳芸堂撮影)

脚本家・宮藤官九郎はかつて「台湾と聞いて唯一、頭に浮かぶのは、透明雑誌というバンドだ」と語ったことがある。

「若さゆえに歌うというのなら、歌いましょう。明日、私たちの心が死んでしまうかもしれないなら、それでもいい!」―― 2020年12月5日、台北市内のライブハウスを埋め尽くした500人のファンは、ボーカルの歌声と軽快で心地よいバンドの演奏に合わせて踊っていた。どこにでもあるライブシーンのようでいて、ファンにとっては長年、待ち続けたライブだった。

「社会演説」と銘打ったフェスのチケットは、発売から1分で完売。フェスには6組のバンドが登場したが、来場者の多くは4人組バンド・透明雑誌のファンだった。透明雑誌のステージは40分余りで、終盤には歓喜の悲鳴が爆発し、会場は盛り上がりを通り越して、焦燥感を帯びた熱狂に包まれた。

この日のステージでも、透明雑誌はかつてと変わらない痛快で疾走感ある演奏で会場を魅了した。既にメンバーの平均年齢は36歳になっているが、どの曲の歌詞も青春時代や学生時代を思わずにはいられない。

透明雑誌はここ5年ほど活動を休止していたが、活動再開が決まると、すぐに台湾のインディーズシーンで話題となった。2020年2月のライブ出演ではチケットは瞬間蒸発し、12月のフェスでのステージはファンの間で「伝説の復活ライブ」と呼ばれるようになったのだ。

「伝説の復活ライブ」で新曲3曲を披露したボーカルの洪申豪(ホン・シェンハオ / モンキー)は「新曲を歌えることが一番、嬉しい」と筆者に語った。透明雑誌がファーストアルバム「我們的靈魂樂(僕たちのソウルミュージック)」をリリースしたのが2010年12月。その10周年を記念して2020年12月に、ファーストアルバムのアナログ盤1000枚を制作したところ、なんと予約の段階で完売したという。しかも、そのうちの350枚は日本のファンが購入したというのだ。現在、日本から追加販売のリクエストが来ているという。

なぜ、台北のインディーズバンドが、日本でこれほど注目されるのか。10年前のアルバムのアナログ盤の発売さえもファンを熱くする透明雑誌とはどんなバンドなのか?

90年代日本の音楽から受けた衝撃

ボーカルの洪は、透明雑誌は日本の90年代の音楽シーンの影響を受けたという(陳芸堂撮影)
ボーカルの洪は、透明雑誌は日本の90年代の音楽シーンの影響を受けたという(陳芸堂撮影)

透明雑誌が台北で結成されたのは2006年。メンバーは洪申豪(ボーカル / ギター)、張盛文(ギター)、薛名宏(ベース・後に脱退)、唐世杰(ドラムス)の4人だ。洪と唐がは入っていたパンクバンドが05年に解散。その1年後、2人は透明雑誌で再びタッグを組むことになった。パンク・ロックの強烈な印象から一転、初期の透明雑誌は90年代の日本の音楽の影響を相当受けていった。

90年代を代表する日本のバンドといえば、L’Arc〜en〜Ciel、LUNA SEA、GLAY、B’zが頭に浮かぶのではないだろうか。彼らは台湾でも人気だが、透明雑誌に影響を与えたのは福岡出身のバンドNUMBER GIRL(ナンバガ)だった。実は、透明雑誌のバンド名もナンバガの楽曲「透明少女」からの引用だ。透明雑誌が奏でる温かくしっとりとしていながら鋭さが光るギターの音色は、確かにナンバガを彷彿とさせる。

透明雑誌は、「Pixies(ピクシーズ)」「Fugazi(フガジ)」「Sonic Youth(ソニック・ユース)」そして「Weezer(ウィーザー)」など80年代のアメリカのハードコアなロックシーンからも影響を受けている。それは、透明雑誌のステージにストレートさ、若々しさ、熱さとして現れている。透明雑誌は2008年に自主制作した4曲入りのEP、2010年のファーストアルバムで台北のインディーズシーンのスターダムにのし上がった。

透明雑誌は活動の中でイベントの主催を重視している。主催イベントに交流のあるバンドを招くほか、フリーマーケットやチャリティーオークションを開催するなどし、彼らのイベント内容は多岐に渡った。2009年にミニ音楽フェス「社会演説」を初開催してからは、彼らのアンテナは日本にまで伸び、日本のインディーズバンドを招いて台北でライブを開催するまでになった。

インディーズはメジャーレーベルのバンドとは違い、レコーディング、マーケティング、コスト管理まで全て自前でやらなければならない。透明雑誌はこのような言わばDIYの音楽活動を通してメジャーバンドだけでなく、多くの日台のインディーズバンドとの交友を深めた。ドラムスの唐士杰は「イベントで意気投合したバンドとは、ごく自然に友だちにもなった」と話す。多くの日本のインディーズバンドを台北ライブに招待した透明雑誌は、2011年、日本のインディーズバンドから招待を受け、東京、名古屋、大阪を巡るジャパンツアーを行った。

日台インディーズバンドの交流

2011年より日本でツアーを開始。多くのファンが駆けつけた(羅宜凡撮影)
2011年より日本でツアーを開始。多くのファンが駆けつけた(羅宜凡撮影)

透明雑誌が日本へ進出した当初、コストはほとんどかからなかった。というのも、日本滞在中は、招待してくれた日本のバンド関係者の家に泊めてもらっていたのだ。そのなかで、透明雑誌のメンバーは日本のインディー音楽産業の発展にとにかく驚いたという。

当時のことを唐世杰は振り返る。「ライブでは、その規模に関わらずステージでの役割分担をとても細かく行われていました。インディー音楽には1ジャンルとして確立できる可能性があると感じました」そしてボーカルの洪申豪は「舞台裏の休憩室も素晴らしかったです。私は小さな会場でのライブが好きなので、日本の小規模のライブハウスがすごく気に入った」と話す。

またメンバーにとって特に印象深かったのは、日本のファンの反応だ。洪申豪は「日本はニッチな音楽ジャンルであっても、ファンがかなり多いと感じた。台湾のファンの反応は控えめなのに対し、日本のファンは感想を喜んでシェアしてくれる。興奮しながら『あの曲にはピクシーズの影響があった!』と話してくれたこともありました」

ボーカルの洪申豪は、「台湾のファンはシャイだが、日本のファンはオープンで時間を共有できて楽しかった」と語った(羅宜凡撮影)
ボーカルの洪申豪は、「台湾のファンはシャイだが、日本のファンはオープンで時間を共有できて楽しかった」と語った(羅宜凡撮影)

唐世杰は「日本のファンは音楽をよく知っている。ファーストアルバムに散りばめた僕らが影響を受けたバンドへのオマージュにも、ちゃんと気づいてくれるファンもいるんですよ」と語った。他にも日本のファンは会場での一体感を楽しんでいること、また会場のスタッフや他のバンドのメンバーの会話から彼らも音楽への理解がとても深いことがわかったという。舞台裏では簡単な英語でコミュニケーションを取り、そこで得たものは透明雑誌のメンバーの心に響いていった。インディー音楽も言語の壁を超えることができるのだ。

2011年のジャパンツアーの後、透明雑誌はEMIミュージック・ ジャパンから契約を打診され、2012年リリースのEP「透明雑誌FOREVER」で日本メジャーデビューを飾った。

メジャー契約後の壁

日本のレコード会社・EMIとの契約を獲得した透明雑誌。オルタナティヴ・ロックバンドのナンバーガールでマネージャーを務めたプロデューサーが、日本でのスケジュール調整を行っていた(羅宜凡撮影)
日本のレコード会社・EMIとの契約を獲得した透明雑誌。オルタナティヴ・ロックバンドのナンバーガールでマネージャーを務めたプロデューサーが、日本でのスケジュール調整を行っていた(羅宜凡撮影)

当時、台北のインディーズバンドが日本の大手レコード会社と契約するのは、きわめて異例のことだった。さらにEMIの計らいで、ナンバガのレコーディングエンジニアだった斉藤匡崇にも引き合わせてもらった。2012年は透明雑誌の日本での活動という点において輝かしい1年だったと言える。ライブツアーのチケットは軒並み完売し、知名度も上がっていった。しかし、その一方で、悩みも抱えることになった。

ギターの張盛文は、日本の音楽仲間からこんなアドバイスを受けたそうだ――「EMIとの契約は悪い話ではないけれど、レコード会社が透明雑誌の新鮮さに飛びついただけだったら、2年後には飽きられるかもしれないし、今までのように自由な曲作りはできなくなるかもしれないから、よく考えた方がいい」

確かに、2010年代初頭の日本のロックシーンは「新世代の音楽はどうなるのか」という不安感に包まれていた。洪申豪は「日本のロックは70年代、80年代、90年代とそれぞれの時代にはっきりした特徴があった。2000年代はまだDVDとライブで稼げたが、2010年代に入るとそれも頭打ちになった」と話す。

そんな状況の中で、日本で透明雑誌が受け入れられた背景について、洪申豪はこう分析している。それは、日本人は2010年代に透明雑誌の音楽から外国文化の新鮮さと昔の日本のバンドのようなスタイルを感じ、商品としての可能性を見出したのではないかということだ。「当時の透明雑誌には音楽文化が凝縮されていたと言えるのではないでしょうか。日本のファンはそれを探究してみたいと感じたのでしょう」

だが、一方で透明雑誌は創作のスランプに陥っていた。当時、メインで曲作りをしていた洪申豪はバンドの創作力と創作のための時間が十分ではないと感じていたそうだ。

 そして唐世杰も当時は作品の完成を前にした停滞期の中にいたと振り返る。メンバーの心もどこか落ち着かず、歌詞も書いては消し書いては消しの繰り返しで、むしろ消した方が多いくらいだったという。

納得のいく楽曲ができず、リリースを強行することはできなかった。さらに台湾での仕事の関係で、EMIミュージック・ジャパンからの要請された日本でのレコーディングは全て延期となり、結局うやむやのうちに終わってしまったのだ。

そして2013年のツアーの頃に洪申豪はソロアルバムを発表、透明雑誌はその後も散発的にライブツアーを開催したが、2016年に活動を休止した。その後、洪申豪は透明雑誌を離れ、別のバンドを結成したり、ソロアーティストとして日本のステージに立ったり、雑誌「BRUTUS」や「POPEYE」でインタビュー記事が掲載されたりと、活動休止中も日本のインディーズシーンから注目され続けた。

ドラマーの唐世杰。2015年のツアーにて(羅宜凡撮影)
ドラマーの唐世杰。2015年のツアーにて(羅宜凡撮影)

10周年の再出発

ファーストアルバムの発表から10年たった2020年、新たに制作発表したアルバムは日本、台湾とも瞬く間に完売した
ファーストアルバムの発表から10年たった2020年、新たに制作発表したアルバムは日本、台湾とも瞬く間に完売した

洪申豪が、かつてのメンバーを招集して、「ファーストアルバム発売の10周年記念ツアーをやりたい。続けるにしろ、そうでないにしろ、きちんとケジメをつけよう」と伝えたのは、2018年末のことだった。それから1年余り、もともとあった曲の練習を続けるうちに、メンバー全員が新曲を作ろうという気持ちを持つようになった。新曲の歌詞の中に「最近又開始連載(最近、また連載が始まった)」というフレーズがあり、ファンの間では透明雑誌の今後の活動への期待が高まっている。

10周年記念のアナログ盤の発売が発表されるや、すぐに日台で話題になった。ファンの反応を知った洪申豪は「透明雑誌を待ってくれているファンがいることを改めて実感した。僕らは、ファンの期待に答えるべきなのか否か。答えるとすれば、どう答えたら良いのか。全てはバンドのメンバー全員の意思によりますね。この10年、私は『透明雑誌』という4文字より友人という存在が常に大切であると感じているのです」と話した。

アナログ盤の発売が日本でも話題になったことについて、張盛文は「とても嬉しい。私たちが海外でブレイクしたとしたら、日本が最も応援してくれた国だと思う」と話した。日本での販売分350枚の完売を受けて、現在、プレス数を増やしての再販が検討されている。Twitterではファンから日本でのライブを願う声が寄せられた。

ここ数年、透明雑誌のメンバーはファンからの活動再開を願う声を聞き続けている。2020年2月、透明雑誌は友人からのリクエストに応えて舞台に上がったところ、大きな反響があった。正式な復活ライブは新型コロナウイルスの影響により延期されたが、12月に音楽フェス「社会演説」を主催。洪申豪は「主催のイベントで歌うことができて、本当に良かったです!」と語った。

変わらないForever Young

ボーカルの洪申豪は「久しぶりの新曲をファンに届けられて、すごくうれしかった」と語った(陳芸堂撮影)
ボーカルの洪申豪は「久しぶりの新曲をファンに届けられて、すごくうれしかった」と語った(陳芸堂撮影)

復活ライブで、透明雑誌は新曲3曲を披露。唐世杰は「音楽があれば通じ合い、一緒に盛り上がれる。ビジネスとしての成功や今後の展開にはそこまで興味はない。創作活動の中に自分たちの誠実さを映し出せれば、それでいいと思う」と語った。

張盛文は、活動再開は独りよがりでもなければ、大騒ぎするようなものでもない、ゆっくりと元のペースに戻っていくだけだと話す。「勢いがあったのに日本で活動を続けられなかったのを、もったいないと思ったこともある。でも後悔はしていない。成功も失敗も全て自分たち4人次第だと思う」

洪申豪は「昔の透明雑誌の歌詞は若さやアドレナリンに溢れていた。今の課題はエネルギーの維持とそのエネルギーを目的に対して正確に注ぐことだ」と言う。曲の中の「We are forever young」という歌詞には、「たとえ体が老いても、青春時代のままの心を持ち続けたい」との思いを込めているそうだ。

バンド結成から15年、一度は日本でのメジャーデビューという機会もあったが、彼らが選んだのは別の道だった。若さとエネルギー溢れる青年だった4人も30代後半に入ったが、彼らは今もなお、たぎる思いを持ち続けている。青春時代は終わった。透明雑誌には、今の年代ならではのエネルギーで創作を続け、もう一度日本のステージでその姿を見せてくれることを期待したい。

(原文は中国語、敬称略で表記した)

バナー写真=台湾の合同ライブ「社会演説」で、最後に登場した透明雑誌。2020年12月(陳芸堂撮影)

台湾 ロック インディーズ バンド