マンガの地位向上と原画保存に捧げた人生~矢口高雄さん

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幕末から明治初期にかけて、大量の浮世絵が海を渡り、欧州でブームを巻き起こした。当時、日本はその本当の価値に気づいていなかったのかもしれない。同じことが、今、マンガの原画に起ころうとしている。原画の散逸、海外流出に歯止めをかけようと立ち上がった男がいた。『釣りキチ三平』の作者・矢口高雄だ。

釣りキチ三平は「僕の分身」

「マンガの原画が、かつての浮世絵のように散逸しかねない状況にある。何とかしなければ」。全国紙の記者だった私が、『釣りキチ三平』の作者であるマンガ家の矢口高雄氏に初めて会ったのは4年前の春、支局長として赴任した秋田県の南部にある、横手市増田まんが美術館での取材だった。

生まれ故郷に自ら設立を働きかけたまんが美術館で、そう熱っぽく語った姿が強く印象に残った。そこから矢口氏の数奇な人生を追う旅が始まった。足掛け5年の取材による評伝『釣りキチ三平の夢~矢口高雄外伝』(世界文化社)にまとめ、上梓したのは2020年12月。すい臓がんで闘病していた矢口氏が亡くなったのは直前の11月で、生前に間に合わなかったのが悔やまれてならない。

矢口高雄氏の故郷を流れる狙半内川にかかる橋には「三平くん」のレリーフ(2017年8月撮影、横手市増田町狙半内)
矢口高雄氏の故郷を流れる狙半内川にかかる橋には「三平くん」のレリーフ(2017年8月撮影、横手市増田町狙半内)

タイトルの「夢」には、矢口氏の思いがかなう日が、いつか来てほしいという願いを込めた。かつて政府内で検討されながらとん挫した「国立メディア芸術総合センター」の実現と、増田まんが美術館がその一翼を担うことである。

『釣りキチ三平』は、日本を代表する少年誌の週刊少年マガジン(講談社)で1973-83年の丸10年間に渡って連載された。秋田の寒村に祖父と住む釣りの天才少年・三平くんが珍魚、怪魚を相手に繰り広げる冒険譚(たん)だ。矢口氏の子供の頃からの釣り体験がベースになっており、「三平くんは僕の分身」と話していた。昭和時代の「釣りブーム」を生んだ作品とされ、単行本の発行部数は累計3100万部、アニメや実写映画も制作されるなど大ヒットした。アニメ版は海外でも放送され、特にイタリアやアジア諸国で人気に火が着いた。

脱サラしてマンガ家に

矢口氏は貧しい農家の長男に生まれ、苦学して高校を出て銀行員になった。当時の地方では超エリートである。一方で子供の頃から手塚治虫のマンガに親しみ、マンガ家への夢断ちがたく、妻子がありながらも30歳で脱サラして、上京してデビューした。「遅咲きのマンガ家」であるがゆえに、故郷における自然と人とのつながり、地方の課題を描くことにこだわり続け、緻密で力強い自然や動物の筆致は、他の追随を許さない。消えゆく狩猟集団を描いた『マタギ』(1975)、昭和30-40年代の農村を描いた『おらが村』(1973)は、最近になって復刻されて、再び人気を得て版を重ねている。だが実際の矢口氏は2011年3月の東日本大震災の前後に人生の転機を迎え、筆を折っていた。

震災には “無力感” も感じた。マンガ家が集まるチャリティーサイン会には積極的に参加しながらも、「でも未曽有の自然災害に、自分はとても無力に思えてね」と語っている。震災の翌年には、長患いをしていた長女の由美さんが亡くなってしまった。仕事を手伝ってくれていた娘に、ゆくゆくは原画や著作権の管理を委ねようと考えていた矢先の死に大きなショックを受ける。看病する最中に受けた検査で自身には前立腺がんが見つかり、由美さんの四十九日法要を終えた後に手術を受けた。この過程で、気力と体力を失ってしまったのだ。「僕は、左ひじを強く踏ん張って利き腕の右手で描いてきた。でも、その肘がずんだれて使い物にならなくなった。もう描けない」。アフリカのタンガニーカ湖に生息する魚に着想を得た「釣りキチ三平」の下書きもあったが、断念し、アトリエを畳んでしまう。

その後は東京都内の自宅で隠遁(いんとん)生活を送るようになる。頭をよぎったのは、かつてのマンガ家仲間が亡くなった際、借金のカタに原画が差し押さえられそうになったことだ。「手を尽くして止めた」(矢口氏)という。「長女は亡くなり、次女は他家に嫁いだ。僕が死んだら原画を著作権とともに引き継いでくれる親族がいない。相続税が課せられ、売買の対象となる可能性もある。苦労してマンガ家になり、心血を注いだ原画が散逸してしまうとしたら辛い。信頼できる施設に寄贈できれば安心だ。横手市増田まんが美術館にはその拠点になってもらいたい」

横手市増田まんが美術館、リニューアル初日のにぎわい(2019年5月)
横手市増田まんが美術館、リニューアル初日のにぎわい(2019年5月)

海外オークションでマンガ原画に高値

“クールジャパン” を代表する文化として、マンガの地位は上がってきた。そこで原画が高額な取引対象となる事例が出てきている。2018年5月には、手塚治虫の『鉄腕アトム』の原画がパリのオークションで、約27万ユーロ(3500万円)で落札された。手塚プロダクション(東京)によれば、1950年代半ばに描かれた原画で、何らかの形で流出したものとみられる。原画は当時、印刷の版下扱いで手塚自身も取り扱いには無頓着だったという。

一方、国内では近年、大量の原画の扱いに困っているベテランのマンガ家が少なくない。収蔵場所がなく、ファンに安価で売ったり、捨ててしまったり、本人の没後に管理者が不在となり、原画の所在が不明になったケースすらある。

原画が相続税の課税対象となる可能性については、財務省は「売買の実例や関係者の意見を踏まえて判断する」(主税局)との立場。マンガの芸術的価値が高まれば、絵画のように課せられる可能性も高まっていく。膨大な枚数の原画に、仮に相続税がかかれば、支払いは天文学的な数字になってしまう。ただ美術館などに寄贈すれば、課税対象からは外れる。

2015年、矢口氏は自身の原画、約4万2000点を横手市増田まんが美術館に寄贈。文化庁の支援も得て、本格的な原画保存の取り組みが始まった。

マンガは “害虫” ではない!

そもそもまんが美術館は、矢口氏が生まれ故郷の旧増田町に働きかけ、1995年に設立された美術館だ。師と仰いだ手塚治虫(1928-1989)が現役で活躍していた頃、マンガの文化としての地位は限りなく低かった。手塚は地位を上げるために戦い、積極的にテレビ出演するなどして発言していた。同じように矢口氏も戦った。封建的で古い慣習の残る地方で、エリート銀行員の座を捨ててマンガ界に飛び込んだだけに、反骨精神は強かった。

「中学生の頃、マンガ雑誌を学校で回し読みしていたら、先生に見つかって廊下に立たされた。先生は『マンガは教育上、百害あって一利なし、害虫である』と、怒った。僕は大人になってヒット作を出せた。だから『害虫』といわれる状況を変えようと、公的な存在である美術館にマンガを入れて、作家の息遣いが分かる原画を見てもらいたいと考えた」。自分の名前をつけなかったのは、多くのマンガ家の原画を収蔵しようと考えたからだ。

矢口氏は他のマンガ家にも原画寄贈を働きかけた。『海月姫(くらげひめ)』で知られる東村アキコ氏は、自然の描写をする際には、「釣りキチ三平」を側において参考にしていたという矢口ファン。矢口氏の自宅近くのなじみのすし屋に呼ばれて口説かれた時のことを、こう振り返る。

「原画は自宅の押し入れに突っ込んだままだったので、先生に『美術館で預かってやる』と言われて『お願いします』と。これでうちが火事になっても大丈夫」

こうした原画を集め、増田まんが美術館は原画保存と利活用における国内唯一の拠点として、2019年5月にリニューアルオープンする。横手市が総工費、約9億円を投じ、観光拠点としての期待もかかっている。矢口氏はこう話した。

増田まんが美術館で放映されている矢口高雄氏のマンガ解説映像(2020年10月撮影)
増田まんが美術館で放映されている矢口高雄氏のマンガ解説映像(2020年10月撮影)

「悲しみやスリル、恋など面白い要素を組み合わせて発展してきた日本のマンガが何かを勉強できる全てがここにある。プロが自分の命を削り込んで描いた原画がどういうものかが見られる。ここから学び、できれば多くのマンガ家が育っていくことを期待したい」

現物とデジタルの二本立てで原画保存

原画はデジタルデータ化と現物保存の二本立てで保管される。まず解像度1200dpiという、通常の印刷物(400dpi)の3倍もの高解像度で、約10分かけてデータを取り込む。次いで原画を1枚ずつ中性紙でくるみ、物語1話ごとに中性紙の封筒にまとめて専用の箱に収納し、一定の室温が保たれた倉庫で保管する。全てが手作業だ。原画は展示会などに活用、データは後々の再版などの際に活用される。実際、矢口氏の旧作『マタギ』が2017年に復刻された際には、美術館所蔵のデータが活用された。

原画が保存されている横手市増田まんが美術館の「マンガの蔵」(2020年10月撮影)
原画が保存されている横手市増田まんが美術館の「マンガの蔵」(2020年10月撮影)

丁寧な作業に、原画を預けるマンガ家が次第に増えた。2020年末時点では約180人のマンガ家の約40万点の原画を所蔵している。『ゴルゴ13』のさとう・たかを氏、『YAWARA!』『20世紀少年』の浦沢直樹氏は全作品を寄贈。小島剛夕氏(『子連れ狼』)、能條純一氏(『月下の棋士』)、東村アキコ氏らも大口寄贈者として名を連ね、最大70万点の収蔵キャパシティがあるという。

かつて政府で「国立メディア芸術総合センター」の設立案が麻生政権のもとで検討されながら、「国営マンガ喫茶」などと批判され、旧民主党政権下の2009年に撤回された。それから10年以上が経過した近年、矢口氏はよく言っていた。「『国立マンガアーカイブ』のようなものができるなら、増田まんが美術館がその分館になりたい。田舎でスペースは広いから、原画の収蔵場所はある」。

拙著を、人を介して菅義偉総理と麻生太郎副総理に届けたところ、折り返し相次いでお礼状を頂戴した。コロナ禍のさなかだが、矢口氏の思い、秋田の郷愁に触れたことを明日からの糧にしたい、いつか「国立メディア芸術総合センター」が国民の理解を得られるよう、空気を醸成したい、そんなことが綴られていた。矢口氏の「夢」が、そう遠くない日にかなうよう、政策が進んでほしいところである。

横手市増田まんが美術館の売店とマンガウォール(2019年5月撮影)
横手市増田まんが美術館の売店とマンガウォール(2019年5月撮影)

バナー写真 : 東京都世田谷区の自宅玄関でほほ笑む矢口高雄氏(2020年1月)
バナー写真、文中写真いずれも筆者撮影

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