年間最多勝V4:ルメール騎手はなぜ強いのか

スポーツ

2020年も競馬界はクリストフ・ルメール騎手の年だった。4年連続の最多勝利騎手賞、最多獲得賞金騎手賞、MVJ(海外、地方の指定レースを含めた勝利数、勝率、獲得賞金、騎乗回数をポイント化して決定)の獲得、G1では自己最多タイの8勝と無類の強さを発揮した。今や競馬ファンの圧倒的な期待と支持を集めるルメールの強さの秘密は何なのか。

ルメールが受けた武豊の影響

「一年中、毎日どこかで競馬に乗っている生活が理想です」と言ったのは、若き日の武豊騎手だ。JRA(日本中央競馬会)の週末の競馬で面白いように勝ちまくっていた人が、世界有数の激戦区である米国西海岸にあえて飛び込んで行ったのが2000年、30歳のとき。01年にはジョン・ハモンド調教師の誘いに応じる形でフランスのシャンティイに拠点を移し、パリ近郊のメジャーな競馬場だけでなく、フランス全土に散らばる小さな競馬場にも出かけて精力的に乗り歩いた。

現地のジョッキーがそうしているように、自ら長距離ドライブのハンドルを握って移動する毎日。それは武豊が夢見ていた騎手としての理想だったが、稼ぎ出すお金は日本の10分の1にも満たないという現実もそこにはあった。

遠い日本からやってきた、未知の国のトップジョッキーのそうした動きを興味深そうに観察していたのが、当時23歳のクリストフ・ルメール騎手だった。障害レースの名騎手パトリス・ルメールを父に持つ、武豊と同じ2世ジョッキー(武の父は武邦彦騎手)。尊敬する父の勧めに従い、競馬学校ではなく一般の高校に進み、アマチュアジョッキーとしての経験を積んだあと、1999年、19歳でプロの騎手免許を取得した。

JRAの短期免許制度を利用して日本デビューを果たしたのは、それからわずか3年後の2002年。武豊騎手が量子夫人を伴ってシャンティイに居を構えたその年だったのは、偶然ではなさそうだ。

もちろん当時から目立つ若手の一人だったわけだが、彼が自国のG1レースに初めて手が届いたのはその翌年、ヴェスポーヌで勝った03年のパリ大賞。普通なら自国でG1を勝った後で他国に行くものだが、順番が逆になったことには、間違いなく武豊の影響があるはずだ。その存在と行動を目にすることによって日本の競馬に対する興味が高まり、短期免許制度で大活躍した大先輩のオリビエ・ペリエ騎手にも話を聞いて、あふれ出る挑戦意欲をすぐに行動に移したところがルメールの強さであり、大きな成功につながる第一歩となった。

ディープインパクトを破った伝説の騎乗

ルメールはその後もJRAの短期免許制度を毎年途切れることなく利用して、年に3カ月の日本での騎乗を地道に続けた。そして初の重賞勝利にたどり着いたのは、来日4年目、2005年の有馬記念だ。その大きな勝利は、武豊が騎乗し日本の至宝とも言われ始めていたディープインパクトを、ハーツクライで破る大金星。「メチャクチャうれしかった」と当時の興奮を振り返るルメールだが、「勝てると思っていました」と、大胆不敵なことも言ってのけた。

ハーツクライにはその年の秋の天皇賞で初めて騎乗して6着。続くジャパンカップは、アルカセットに鼻差届かずの2着惜敗で、有馬記念が3度目のコンタクトだった。

「負けても悔しさは引きずらないことにしているんですが、あのジャパンカップだけは2週間ぐらい自分の肩が落ちているのを自覚していました。でも、あのレースでハーツクライという馬のレベルの高さを確信できたので、次はもっとアグレッシブに勝負しようと心に誓いました。それが有馬記念。ディープインパクトの強さはもちろんよく知っていましたが、トリッキーな中山競馬場のコースなら付け入る隙はあると思っていました。ハーツクライを先行させたのは、中山で勝つための戦略。いつも後方にいる馬がいきなり3番手につけたわけですから、ファンも他の騎手たちも驚いたでしょう」

しかし、ルメールにとっては、作戦通りだった。

「最後にディープインパクトが伸びて来たけど、追いつかれることはありませんでした。ジャパンカップのリベンジがかなって、日本のG1を初制覇。おまけに相手は無敗のディープインパクトですからね。忘れられない一戦になりました」

この話を聞いたのは、「Number」誌の企画でルメール騎手と武豊騎手が対談したときのこと。まくし立てるように話すルメール騎手というのも珍しかったが、それを聞いた武豊が「あのときのディープインパクトは、走っていませんからね」と、何年も前のことなのに悔しそうな表情を隠そうとしなかったのも、実に珍しい光景だった。

抜きん出たパフォーマンスの高さ

2015年に、外国人として初めてJRAの通年騎手免許を取得したルメールが、その動機を問われて、「毎日レースがあるフランスより、平日は家族に向き合う時間をリラックスして楽しめる日本の競馬システムの方が、僕には合っていると思ったから」と答えたのが印象的だった。武豊が世界に飛び出そうとした理由とは逆で、週末に集中して競馬に力を注ぎたいと考えたのだ。ルメールが正解、武豊が不正解という話ではなく、たまたま二人の突出した天才が、競馬を一生の仕事として向き合い続ける方法を模索した結果が対照的だった、ということだろう。

ルメールという騎手は、期待したプレーの90%以上の答えを確実に出してくる上に、時には120%の騎乗をも繰り出すスーパージョッキーとして、ファンにも厩舎関係者にも馬主にも認められている。最高点は高いけれど平均点は低い、あるいは、手堅いけど100点以上のプレーは見込めないというジョッキーが多い中で、そのパフォーマンスの高さは抜きん出ている。

武豊騎手が02年12月7日の阪神で達成したワンデーエイト(1日8勝)は永遠に破られない記録と思っていたのに、ルメール騎手は通年免許取得2年目の16年11月6日の東京であっさりとその記録に並び、19年8月4日の札幌で2度目のワンデーエイトを記録した。騎乗機会10連続連対(騎乗したレースで10回連続で1着か2着になったということ)という新記録も、武豊騎手らの9連続を更新してのもの。崩れることがないジョッキーなので、今後もこれらの記録を更新する機会は何度も巡ってきそうだ。

第38回ジャパンカップをアーモンドアイで制し、インタビューでポーズを取るルメール騎手(2018/11/25)共同
第38回ジャパンカップをアーモンドアイで制し、インタビューでポーズを取るルメール騎手(2018/11/25)共同

18年の年間215勝も、これこそ不滅と思われていた武豊騎手の212勝(05年)を更新したものだ。その年から昨年までの3年間は勝ち星の中身の濃さも文句なしで、3年間連続でG1レースを8勝ずつ重ねた。

ビッグレースでの強さは全盛時の武豊を超えた?

ファンは「ルメールが乗るんだから」と、彼絡みの馬券に夢を託すが、「ビッグレースで一番人気に支持されるということは、勝つチャンスが最も高いと評価されたわけですから、素直にありがたいと思っています」と、重圧にもなりかねない人気をポジティブにしか考えない。このメンタルの強さは全盛時の武豊騎手をも上回っているかもしれない。

平均点の高さばかりではない。戦略の多彩さにもしばしば驚かされる。たとえば2020年秋の菊花賞で、アリストテレスを駆ってコントレイルに際どく迫った騎乗。コントレイルの斜め後方からプレッシャーをかけ続けることでライバルのスタミナを削ぎ、絶好のタイミングで直線中ほどで並びかけ、あわや金星を挙げるかと思わせた(結果はクビ差でコントレイルが優勝)。ルメールの怖さを多くのファンが実感した、素晴らしいレースの組み立てだった。

フランスで長くトップを務めるクリストフ・スミヨン騎手に、19年、久々に来日したタイミングでルメール騎手について聞いてみた。

「彼の騎乗スタイルは、フランスにいた時と大きく変わってはいないよ」と素っ気なく答えた後、「でも、日本の競馬をよく勉強して、完全に手の内に入れてなじんでいるのはすごいことだと思う。僕もいつかは日本の通年免許に挑戦したいと考えているので、彼に学ぶ部分もたくさんあるよ」。

ランフランコ・デットーリとオリビエ・ペリエ以外は認めないといううわさが伝わっている人が、射抜くような目力をこちらに向けて、2歳上、ほぼ同年代のルメールを称賛した。

フランスからやってきて、日本で素晴らしい進化を遂げたクリストフ・ルメールは、すでにニッポンのジョッキーである。世界レベルの人から褒められてうれしいというこの私の気持ち、ファンならわかってくれると思う。

バナー写真:2020年11月1日の第162回天皇賞秋でG18勝目を挙げて喜ぶルメール騎手  スポーツニッポン新聞社/時事通信フォト

競馬 ルメール騎手 武豊