日本人と聖徳太子

歴史

かつては紙幣の顔として、今も歴史の教科書でおなじみの聖徳太子。2021年は聖徳太子の1400年忌という節目の年にあたる。聖徳太子の創建と伝わる法隆寺では、太子の1400年御遠忌(ごおんき)の法要が営まれる他、特別展「聖徳太子と法隆寺」が奈良国立博物館と東京国立博物館で開催される。なぜ聖徳太子は1000年以上にわたって日本人に敬愛されてきたのか。聖徳太子は架空の存在説など、最近も話題になること度々だが、知っているようで知らない太子の功績や現代まで連なる魅力を探る。

とらえにくい聖徳太子の実像

聖徳太子は、日本の歴史上、最も著名な皇族政治家の一人であり、文化人である。西暦574年に生まれ、622年、数え年49歳で没した。日本の歴史は、極東の限られた島々を舞台に、日本語を共通の言語とする人々が主導する形で発展してきたため、1000年以上前でも有名な人物の存在には事欠かない。

しかし、聖徳太子のように、生没年まで明確で具体的な事績の残っている人はまれである。これは、太子が没後間もなくから敬愛を受け、多くの関連資料や伝記が残されてきた結果だといえよう。今年は太子が亡くなって1400年になり、来年にかけてゆかりの寺院では法要が予定されており、縁の深い奈良や大阪に加え、東京でも関係する文化財を集めた展覧会の開催が計画されている。改めて聖徳太子とはどのような人物だったのか、振り返ってみよう。

いろいろな文献や文化財が残っているにもかかわらず、聖徳太子ほど実像のとらえにくい人物も少ないだろう。没後間もなくというより、すでに晩年には、大きな尊崇を集める存在になっていた形跡があり、死後さらにそれが進んだ。伝記にはさまざまな伝説的要素が加わり、やがては観音の生まれ変わりとして信仰の対象とされるに至る。

そもそも聖徳太子という名前自体、こうした神格化の一環として出てきたもので、厩戸(うまやと)王と呼ぶのが歴史的には正しい。「聖徳太子」とは、「聖人の徳を備えた皇太子」という意味で、亡くなった後で言い出された尊称である。この尊称が、太子の没後100年も経たないうちに生まれていることは、太子がいかに早くから特別視されていたかを物語っている。

理想化が施された太子の生涯像

ふつう一般的な日本人がイメージする太子像は、おおむね次のようなものになるだろう。593年、推古天皇が即位すると、その甥(おい)に当たる太子は皇太子となり、政務を代行する摂政となった。601年には、当時都のあった飛鳥から北西に当たる斑鳩(いかるが)に宮を造営し、4年後にはここに移住、西隣に斑鳩寺(法隆寺)を建立した。

また、冠を標識とする役人の序列十二等級を制定して、実力に応じた役人の登用を図り、憲法十七条を定め、和を基本とする心構えや天皇を中心とする政治の徹底を、朝廷に仕える人々に説いた。いっぽう仏教信仰に篤い太子は、勝鬘経(しょうまんぎょう)や法華経(ほけきょう)の講義と注釈を行い、また遣隋使を派遣して、大陸文化の受け入れに努めた。

晩年には、当時の重臣・蘇我馬子(そがのうまこ)と、日本の歴史編纂にも着手する。太子の政策は、7世紀後半以降に本格化する中央集権国家への歩みを先取りするものだったが、志半ばで621年に亡くなった(『日本書紀』、『聖徳太子伝暦』など)。

こうした標準的ともいえる太子の生涯像は、太子の没後100年ごろに完成した『日本書紀』や比較的古く成立した太子伝に基づいている。しかしそれらには、すでに多くの理想化が行われており、そのまま信じるのは危険である。それは多くの歴史研究者によって早くから指摘されており、太子の事績といわれるものの検証もさかんに行われてきた。

たしかに太子から出たとされる政策にも、先の十二階の冠位制定のように、古い史料上は、まったく太子の関与が書かれていないものもある。遣隋使の派遣についても同じである。太子の自作と明記される憲法十七条にしても、その文中には、当時の実態にそぐわない表現や趣旨が含まれ、疑えば疑えないこともない。そもそも、皇太子になったとされるが、皇太子という地位は、7世紀の末になってようやく制度として定まった。職としての「摂政」が出来てくるのは、さらに後のことである。

法隆寺釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文

しかし、皇太子や摂政の問題はともかく、このような検討作業も、疑わしいと言えるだけで、明確な証拠を示せるわけではない。水掛け論に陥らないよう求められるのは、どうしても否定できない事実ということになる。1400年前の出来事について、確かな事実など示せるはずはないようだが、太子に関する数多い資料の中には、幸いそれを可能にするものがあることに私は気づいた。法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文である。

この銘文は、銅に金メッキした仏像の光背の裏側にあり、196の漢字を使い、行数と一行の字数が等しくなるよう作文されている。それによると、621年から翌年にかけ、相次いで死去した太子の母と太子夫妻のために発願、造像されたとわかる。太子の命日が、622年の2月22日であり、太子が「法皇」と呼ばれていることは、とくに注目される。もちろんこの仏像や銘文は昔から有名なもので、そのまま信じる説と、あとから刻まれたとする説が長らく対立してきた。

その意味では新資料でも何でもないが、その刻まれ方に注目すると、新しい事実にたどり着く。銘文は1行14字詰め×14行で正方形に収まっているが、光背裏のその部分は、周りに比べて凹凸が修正され、銘文より一回り大きい正方形の平坦なスペースになっている。つまり光背を制作するときには、あらかじめこの銘文が入ることを想定していたわけである。おまけに、この面には、金メッキした時の金が、点々と付着しているのも見える。これらの事実は、この銘文が仏像と同時のものであることを物語っている。銘文の文章をいくら論じてみても、後からの作という疑いを完全に払拭するのはむずかしい。しかしこの場合は、即物的なアプローチが、決め手を与えてくれた。

釈迦三尊の光背銘から導かれる最も重要な事実は、太子が亡くなる時点で「法皇」と呼ばれるような人物だったことである。法皇は、他の文献では「法王」と書かれることが多いが、太子によく使われる敬称である。7世紀代には、「皇」と「王」はどちらもキミ、ミコなどと読まれ、まったく同じように使われた。法皇は、仏法に造詣の深い皇子という称号にほかならない。太子については、仏典の講義や注釈を行ったとか、多くの寺院を創建したとかいう伝えがあるが、それらに関しても、どこまで信用できるのか、懐疑的な見方も有力だった。

法皇とあるからといって、伝説がそのまま肯定されるわけではないが、少なくとも太子は、仏教について並外れた知識と理解をもつ知識人だったことは間違いないだろう。このことと、現在、太子の著作として草稿が伝わっている『法華義疏(ほっけぎしょ)』(御物)の内容や、その文化財としての特徴を重ね合わせると、太子の実像が浮かんでくる。疑われている憲法十七条も、天皇の命令を尊重せよという前に、仏教信仰を奨励する条文があり、大筋で太子の作であることは疑いない。詳しくは拙著『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書、2017年)を参照いただきたいと思う。

文明化した社会の実現に腐心した知識人としての姿

ただ、ここでぜひ述べておきたいのは、太子が飛鳥時代に起こった古代日本の文明開化に、大きな影響を与えたことである。太子の時代は、ふつう思われている以上に大きく仏教が影響を及ぼした時期であった。一時期ではあるものの、仏教興隆を意味する「法興」という年号が使われたのはその表れだが、太子は熱心な仏教徒でありながら、自分は出家することなく、皇族の政治家として仏教を社会に根付かせようとした。

太子が数ある仏典から選んで講義、注釈したのは、仏説の根幹である法華経を除けば、在俗の仏教徒や王族の女性が主人公の、維摩経(ゆいまきょう)と勝鬘経である。大陸の文化の中からとりわけ仏教を選択し、それを奨励することで、豪族間の争いが絶えない国をまとめ、社会を文明化しようと、太子は考えたのだろう。残された史料を検討しても、太子が政治の前面に出て活躍したとは言いにくいが、推古天皇や蘇我馬子の背後にあって、こうした政策の実現に腐心した知識人としての姿が見える。

最後に太子はどんな風貌の人物だったのか。中高年の日本人にとってなじみ深いお札の肖像の原画も、奈良時代の貴族の姿で、実像ではない。注目されるのは、さきの法隆寺金堂釈迦三尊の中尊、釈迦如来である。この像は太子と等身に作られた。もちろん仏像として様式化されてはいるが、その顔つきに太子の面影をうかがうことは許されていいかもしれない。ちなみに座高から割り出した太子の身長は165cm弱となり、当時としては長身であった。

バナー写真:かつては聖徳太子像と言われ、紙幣の原画にも採用された肖像画だが、今では奈良時代の貴族の姿で、太子の実像ではないという説が有力となっている 時事

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