和猫学事始め―全国各地の猫伝承をひもとく旅

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猫を愛し、日本全国の猫にまつわる言い伝えを調べている獣医学博士・岩﨑永治さん。猫伝承にゆかりある都内の社寺を紹介した『和猫のあしあと』を刊行した岩﨑さんに、各地の伝承から読み取れる日本人と猫の深い関係について聞いた。

岩﨑 永治 IWAZAKI Eiji

博士(獣医学)。1983年群馬県生まれ。(株)日本ペットフード・開発企画部所属。同社に就職後、イリノイ大学アニマルサイエンス学科への2度にわたる留学、日本獣医生命科学大学大学院研究生を経て博士号を取得。専門は猫の栄養学。ツイッターアカウント<和猫研究所>を通じて、各地の猫にまつわる情報を発信している。著書に『和猫のあしあと』(2020年、緑書房)。

天皇に愛された「和猫」の歴史

実家で猫を飼っていたので、生まれた時から猫がそばにいるのは当たり前だったという岩﨑永治さん。大学では猫の栄養学を学び、個人的な興味で猫の家畜化の歴史を調べ始めた。猫を神聖視していた4000年前ごろの古代エジプト時代に、飼い猫の起源があるというのが当時の通説だった。

「ところが、2004年、キプロス島で約9500年前の幼猫の骨が見つかったことが報告されました。シロウロカンボス遺跡にある墓穴に、人骨と一緒に埋葬されていたのです。今ではイエネコの起源は、古代エジプトより前にさかのぼると考えられています」と岩﨑さんは解説する。

「日本では、奈良から平安時代にかけて、シルクロード経由で大陸から渡来した猫がイエネコの祖先と考えられていました。仏教の経典をネズミの害から守るために、船に一緒に乗せられたのです。でも、2011年、長崎県壱岐島の弥生時代のカラカミ遺跡から、日本最古のイエネコと特定できる骨が発掘されました。約2000年前から家畜化されていたらしい。また、黒やぶち、三毛で、耳が小さく尾が短い、あるいは尾曲がりなどの外見的特徴を持つ日本の猫は、遺伝子的に洋猫と少し違うのではと考えています。洋猫との遺伝子的差異を調べて、特徴を明らかにしたうえで、『和猫』を品種として確立したいなと思っています」

平安時代、猫はまだ数も少なく、天皇をはじめとする貴族たちが溺愛する貴重なペットだった。

「日本の皇室は王室としての歴史が世界最長ですが、同時に猫と紡いだ歴史も最も長いと言えます。天皇と猫の関わりがとても深い。公式記録としては、宇多(うだ)天皇(在位887~931)が猫について詳しくつづった日記があります。17歳の時に父の光孝(こうこう)天皇から譲り受けた黒猫についての描写で、とても大事にしていた様子がうかがえます。また、一条天皇(在位980~1011)も猫好きで知られ、『枕草子』では愛猫に官位まで与えた溺愛ぶりを紹介しています」

公式記録が少ない和猫の歴史を掘り起こし、さらに猫伝承を調べ始めるうちに、民俗学的な探究にのめり込んだ。 

猫の恩返しと化け猫伝説

猫にゆかりがある史跡を最初に訪ね歩いたのは、獣医学の博士号を取得してからだ。ネットやガイド本で知った猫伝承が伝わる社寺を1週間かけて巡った。それから現在まで、全国100カ所を訪ね歩いた。

「実際に古い文献を調べてみて、伝承地が多いことに驚きました。ネット上には、かいつまんだ情報や誤りが多い。正しい情報を後世に残したいと思い、各地を巡り始めたんです」

「特に全国で一番神社の数が多い新潟県では、猫にまつわる伝承がたくさんあります。日本一の米どころでは、ネズミの天敵だったということもあるでしょう。例えば長岡市の南部神社は『猫又権現』として知られています。猫の石像が迎えてくれるこの神社は、養蚕が盛んだったころ、ネズミの被害から蚕や米を守る神をまつるとして、信仰を集めました」

南部神社(新潟県長岡市)
南部神社(新潟県長岡市)

全国で似通った猫伝承が見つかるが、特定の地域で多く見つかる話もある。

「東北地方に多い伝承の一つに『猫檀家』があります。貧乏寺の和尚さんに飼われている猫が、ある日姿を消す。そして和尚の夢に現れて、こう告げます―近くの富豪の家で葬式があるから、そこでちょっとした悪さをする。呪文を教えるから、それを唱えればいたずらをやめる。そうすればたっぷりお礼をもらえるので、寺が潤うでしょうと。その言葉通りに、やがて和尚の神通力が評判になり、寺は栄えます」

「また長野県には『唐猫』(中国渡来の猫)伝説が多い。長野市の軻良根古(からねこ)神社周辺に残る言い伝えが代表的です。化けネズミを退治するために、隣から唐猫を借りてくる。巨大なネズミと死闘を繰り広げる猫も大きかったといいます」

弥三郎婆と猫又伝説の謎

新潟県の代表的な妖怪に「弥三郎婆(ばあ)」がいる。人を食う化け猫のような老女だ。「昔から東北では子どもをしつけるために、『夜騒いでいると雪女が来て連れていかれるよ』と言い聞かせる習わしがありましたが、新潟では雪女の代わりに、『騒いでると、弥三郎婆にさらわれるぞ』と脅かしたこともあったようです」

弥三郎婆は、新潟北部にある弥彦神社の鍛冶(かじ)の棟梁(とうりょう)の母だったが、息子が上棟式(じょうとうしき)での大工との争いに敗れ、悔しさのあまり鬼になったと伝えられている。この鬼婆(おにばば)を化け猫と結び付ける別系統の物語が、神社の近くにある宝光院がまつる「妙多羅天」の伝承だ。「佐渡島で猫好きのばあさんが、砂の上で転がり遊ぶ猫と一緒に転がっているうちに化け猫に変わり、弥彦山の方に飛んで行った。その際に自分を殺そうとした村人に災害をもたらした。やがて、人々は老婆を猫多羅天(みょうたらてん)=妙多羅天としてまつることにした、という伝承です。しかし、公式な伝承ではなく、宝光院ではおまつりしている妙多羅天は猫とは関係がないと教えていただきました」

「公式記録」が残る伝承もある。「新潟県の中ノ俣集落には、妖怪・猫又を屈強な村人の牛木吉十郎が退治したという有名な話があります。天和3年(1683年)に起きた退治の様子や、子牛ほどの大きさの死骸を計測したという内容の古文書が残っていて、退治に使った刀は博物館に保管されています」

2012年5月、中ノ俣集落の春祭りで江戸時代の猫又退治を再現。その後も何回か実施されている(提供:NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部)
2012年5月、新潟県上越市・中ノ俣集落の春祭りで江戸時代の猫又退治を再現。その後も何回か実施されている(提供:NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部)

この話が、富士山の辺りに出現した猫又の話とつながるらしいと、岩﨑さんは言う。

「富山県・黒部峡谷にある猫又山にまつわる伝説です。富士権現の怒りにふれて、富士山から追い出された猫又が、この山に住み着いて、人を食らうなどの悪さを繰り返した。狩人たちが猫又山を取り囲んで退治しようとしたが、いつの間にかいなくなっていたという話です。この猫又が新潟に逃げて、中ノ俣でも人を食らい、ついに吉十郎に退治されたのではないか。調べていくうちに、それぞれの地域で確立された物語がつながっていく再発見がありました。まだ調査の途中ですが、リアルな謎解きのスリルを楽しんでいます」

江戸時代の化け猫と招き猫

かつて養蚕が盛んであった頃、福島県の磐梯神社で配布されていた猫札。現在、磐梯山慧日寺(えにちじ)資料館に版木と刷り紙が保存されている
かつて養蚕が盛んであった頃、福島県の磐梯神社で配布されていた猫札。現在、磐梯山慧日寺(えにちじ)資料館に版木と刷り紙が保存されている

「猫檀家」のように、飼い主に恩返しする猫がいるかと思えば、「猫又」のように人を襲う化け猫がいる。特に江戸時代には化け猫のイメージが流布した。「栄養学的な根拠で推察できることがあります。猫が1日に必要とするカロリーはネズミ10匹分。大量のタンパク質を必要とし、絶食には非常に弱い。飢えが極限に達すると、どんな肉でも食べてしまいます。近世以前、タンパク質不足に陥った猫が遺体をむさぼる姿を目撃して恐れられ、化け猫のイメージと結びついた可能性もあります。また、猫は本来肉食でご飯など炭水化物は苦手です。江戸時代、カロリー不足を補うため、夜な夜な後ろ足で立ち行灯(あんどん)の魚油をなめていた。そんな姿を見て、恐怖を感じた人たちもいたかもしれません」

江戸時代は猫の価値が高まった時期でもあった。「養蚕が盛んな地域では、蚕をネズミから守るための益獣として売買されました。馬1頭1両に対して、5両で取引されたという記録もあります」

江戸時代に、前足を上げて人を招き商売繁盛を導くとされる「招き猫」の置物が人気となったが、その発祥に関しては諸説ある。

著書の表紙は豪徳寺の招き猫たち
著書の表紙は豪徳寺の招き猫たち

招き猫伝承でよく知られるのは、東京・世田谷区にある豪徳寺だ。もともとは弘徳院という名の貧しい寺だった。和尚の飼い猫が、タカ狩りの帰路にある江戸時代前期の幕府重臣・井伊直孝一行を手招きして寺に導いた直後、激しい雷雨となった。難を逃れ、和尚の法話を聞く機会を得た直孝は大層喜び、それがきっかけとなって寺は井伊家の菩提(ぼだい)寺として栄えたという。現在は、招福殿というお堂の脇に招き猫の奉納所があり、おびただしい数の招き猫が並んでいる。

縁結びのご利益が得られる神社として人気の今戸神社(台東区)も招き猫神社として知られている。拝殿の前には、巨大な招き猫が鎮座している。神社が招き猫発祥の地というわけではないが、地元の特産品だった「今戸焼」発祥の地だ。江戸末期に流行した今戸焼の「丸〆猫(まるしめねこ)」は、招き猫の原型として有力視されている。

今戸神社の巨大な招き猫(左)と「丸〆猫」
今戸神社の巨大な招き猫(左)と「丸〆猫」

身をていして飼い主を大ヘビから守った吉原の花魁(おいらん)・薄雲太夫の愛猫が、招き猫の発祥に関係するという説もある。「遊女と猫の結びつきは強く、美女に魅入られた猫と、その恩返しにまつわる話がいくつか伝わっています」

招き猫の多くは、赤い首輪をつけている。「『枕草子』に赤い首綱に白い札がなまめかしいという表現があります。また、江戸の美人画では、『源氏物語』の女三宮と見立てて赤い首ひもの白黒猫を添える構図が流行しました。ですから、今でも赤い首輪の招き猫が多い。平安時代、猫は宮中の偉い人しか飼えない貴重な動物で、逃がさないようにひもでつないでいた。江戸時代でも、猫好きは愛猫をつないで飼っていました」

失われつつある伝承

猫をつないで飼う習慣は、16世紀ごろまで根付いていたようだ。1602年に京都所司代が「猫放し飼い令」を発布したことからも分かる。都市化に伴いネズミの害が深刻になり、その対策として出された法令だったが、それ以後も猫は人気のある高額なペットとして愛好され、盗まれることを危惧した飼い主は相変わらずひもにつないで飼っていたらしい。徳川五代将軍綱吉公が1685年に出した「生類憐れみの令」が犬猫のつなぎ飼いを禁止したことから、猫は放し飼いされるようになった。

翻って、現代の猫は室内飼いが主流になっている。「感染症、交通事故のリスクはないので寿命は延びます。だから幸せかといえばそうでもない。尿路結石や特発性ぼうこう炎は猫がなりやすい病気ですが、最近の研究によれば、ストレスがその一因のようです。肥満猫も増えています。猫版のBMI(肥満指数)作成に携わった際に行った調査では、日本の猫の約半分が過体重でした。今はコロナ禍でペットに癒やされたいという人が増え、猫の価格が江戸時代のように高騰しています。ちょっと複雑な心境です」

現代に生きる猫たちの幸せを願う一方で、和猫伝承の保存に努めたいと意欲的だ。「戦火や災害で失われた文献は多く、伝承の語り手は減る一方です。海外にも和猫の情報を発信したいので、いずれ、東京の猫伝説をたどった『和猫のあしあと』の英語版を刊行したいと思っています。また、東京だけではなく、47都道府県に伝わる猫伝承を全てまとめたい。コロナ禍で社寺もダメージを受けていますが、地元に残る猫の伝承を活用して、復興に努めてほしいと願っています」

バナー写真:「猫又権現」とも呼ばれた新潟県長岡市の南部神社では、社殿の前で猫の石像が出迎えてくれる/バナー・本文中写真提供=岩﨑永治(かみえちご山里ファン倶楽部提供写真、書影を除く)

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