厚底シューズが促した日本男子マラソン界の大転換

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厚底シューズが日本陸上長距離界を席巻している。日本男子マラソンの最高記録はこの4年間で3回更新され、2021年の箱根駅伝では、参加20校、200人の選手の90%が厚底シューズで走り、大学の勢力地図が塗り替えられる一因ともなっている。なぜ、これほど劇的な変動が日本男子マラソン界に起こったのか。関係者に話を聞いた。

国民の熱い視線を浴びて育った日本のマラソン

マラソンは長い距離の制覇を目指す競技だ。1908年の第4回ロンドン五輪でマラソンを見学した「大阪毎日新聞」の特派員、相馬勘次郎はこう報告している。

「欧米人の中には日露戦争に於ける日本の強行軍の記事等に見て千二百メートルか八百メートルでは足の長い西洋人が勝つだろうが、二十哩(り=マイル、1マイルは約1609m)以上となれば日本人が勝つであろうと信ずるものがある位である」

「大阪毎日新聞」は翌年に神戸-大阪間で最初のマラソン大会を開き、やがて金栗四三(かなくり・しぞう)が12年のストックホルム五輪、20年のアントワープ五輪、24年のパリ五輪に出場。その後、日本人選手が51年、53年、55年のボストンマラソンで優勝するなどして戦後復興への勇気を与えた。スピードではかなわない、しかし持久力なら負けない――そんな国民の熱い視線を浴びながら日本のマラソンは育った。

2021年2月末に行われたびわ湖毎日マラソンで、25歳の鈴木健吾が2時間4分56秒の日本新記録で優勝した。それまでの記録は大迫傑(おおさこ・すぐる)が20年の東京マラソンで出した2時間5分29秒。アフリカ系ランナーを除き、2時間5分を切ったのは鈴木が初めてだったが、驚いたのは記録ではない。エリートランナーの目安とされる“サブテン”、2時間10分を切った選手が42人も出た(うち日本選手40人)。その一人、18年のボストンマラソン勝者でもある33歳の川内優輝(かわうち・ゆうき)は109回目のマラソン挑戦で、念願の2時間7分台を達成した。
「初めて厚底シューズを試した効果は間違いないと思います」

鈴木健吾は16年にオランダ・ナイメーヘンの「7ヒルズ15k(15km走のロードレース)」で8位に入って注目され、神奈川大学のエースとして活躍した。その素質をギア改革が“底上げ”したわけだが、関係者は冷静だ。20年、新型コロナウイルスで大幅に参加制限された東京マラソン、福岡国際マラソンが平常通りだったなら、びわ湖毎日マラソンにあれほど選手が集中することはなく、各大会に分散しながら、同じような結果が出たというのだ。

びわ湖毎日マラソンで、日本新記録で優勝した鈴木健吾(富士通)が履いていた米ナイキ社製の厚底ランニングシューズ(滋賀・皇子山陸上競技場)2021年02月28日 時事
びわ湖毎日マラソンで、日本新記録で優勝した鈴木健吾(富士通)が履いていた米ナイキ社製の厚底ランニングシューズ(滋賀・皇子山陸上競技場)2021年02月28日 時事

世界トップ100パフォーマンスで日本選手が急増

今世紀に入ってからの年度別の世界トップ100パフォーマンスを見ると、日本選手は2018年の7人のランクインを最高に、19年は0。それが20年はエチオピア(44)、ケニア(20)に次ぎ、日本が17人に増え、コロナの影響で大会が激減した今年の100傑表には、21年3月の時点で、84の日の丸がひしめいている。

厚底シューズは現在、各メーカーが製造しているが、もともとは米国のナイキ社が長距離用に開発した「ヴェーパーフライ(Vaporfly)」が発端だ。軽量化された靴底にカーボン製プレートを組み込んで、反発力を付加している。日本では、大迫傑が実業団から米国オレゴン州を拠点とした「ナイキ・オレゴン・プロジェクト」に移籍し、アルベルト・サラザールの指導の下で、いち早くこの“新兵器”に取組んだ。

18年の東京マラソンで設楽悠太(したら・ゆうた)がこのシューズで日本記録を更新(2時間6分11秒)すると、大迫は同年10月のシカゴマラソンでそれを塗り替え(2時間5分50秒)、19年9月の東京五輪代表最終選考会では代表選出から漏れたが、20年の東京マラソンで自身の持つ日本記録を更新(2時間5分29秒)、最後の3番手で2020年東京オリンピック・男子マラソン日本代表に決定した。この大迫の活躍も厚底シューズが脚光を浴びる要因の一つとなった。

これに拍車をかけたのが、いま圧倒的な人気の箱根駅伝だ。2019年の箱根駅伝でアディダスのサポート契約を受けていた青山学院大がナイキの厚底シューズを履いていた東海大に敗れ2位。翌年、青学大がナイキの厚底シューズを履いて王座を奪還し、さらに注目を集めた。21年の箱根駅伝では参加20校、200人の選手中、90%が厚底シューズで走り、新興チーム台頭の原動力にもなった。

アキレス腱故障回避からベタ足走法に

“スピードマラソン”という言葉は昔からあった。1952年のヘルシンキ五輪で、”人間機関車”こと、当時のチェコスロバキアのエミール・ザトペックが5000m、10,000mのトラック2種目で金メダルを獲得し、マラソンにも出場して3冠を達成して以来、日本でもしきりにスピードマラソンが唱えられたが、記録は伸びなかった。

マラソンはトラック種目と異なり、コースや気象条件がまちまちで、国際陸連は2004年まで記録を公認せず、世界記録(world-record)ではなく、世界最高(world-best)と規定されていた。ランニングシューズは「速く」より「耐える」という競技目的に沿って、身体に負担をかけないよう出来るだけ軽く、紙のように薄い靴底が求められたのだ。

1964年の東京オリンピックの長距離候補選手で、箱根駅伝の解説で知られる碓井哲雄(うすい・てつお)さんはこう話す。

「10,000mまでのスピード種目ではキックを使います。スパイクシューズを履き、当時は土の走路だったため、どうしても負担がかかり、大概の選手がアキレス腱を痛めました。私も円谷さんもアキレス腱をやられた。アキレス腱は髪の毛のような繊維の束で、手術ではまず治りませんでした」

東京大会のマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(つぶらや・こうきち)はトラック上がりで10,000mでも入賞した。再起を賭けたアキレス腱の手術は実らず、自死を遂げた悲劇はいまも語り継がれる。マラソンなどの長距離ロードレースでは、キックではなく、踵(かかと)から着地するベタ足走法が有効になる。

「トラックのスピードをそのままマラソンに」と言うのは簡単だが、現実は二律背反の、危険と背中合わせの難題なのである。この課題に答えを出したのが、80年代半ばに彗星のように現れた中山竹通(たけゆき)だった。

「打倒瀬古」の思いが生んだ中山竹通の爪先走法

ソウル、バルセロナの2度の五輪でいずれも4位。不敗神話を誇った瀬古利彦のマラソンの日本記録を85年に、10,000mの日本記録を87年に更新した衝撃はいまも神話として残っている。

「自分にはスピードがありませんでしたから、同じように走っても、瀬古さんや宗兄弟(茂と猛の一卵性双生児)に勝てるはずがない。そこでケニア選手のように、キックを活かす爪先走法を取り入れた。走法は難しくありませんでしたが、どうすれば故障せずにマラソンを走り続けられるかが難しかった」

爪先走法、すなわち“フォアフット走法”は、右小指の側面で着地して跳ね上げていく。中山はキックでの負荷を抑えるために、側面の“点”ではなく、“線”で着地する技術を追究したという。

「マラソンには野球やテニスのように、人に見せるほどのワザはありません。ぼくは人が見て美しい走りをしたかった。速く美しく、しかも職業として走り続ける技術を得るため、ガムシャラに練習しました」

1987年12月に行われた福岡国際マラソンで優勝した中山竹通。1987年12月6日(福岡)時事
1987年12月に行われた福岡国際マラソンで優勝した中山竹通。1987年12月6日(福岡)時事

トラック練習では1周400mを10分の1秒まで計りながら25周……スピード不足を技術でカバーした中山は、大迫が日本記録を更新した映像を見ながら「自分のフォームとそっくりだ」と思ったという。素材の軽量化とカーボンプレートがベタ足走法からの脱却を可能にした。30年以上も前、中山が黙々と挑んだ壁をメーカーが取り払ったということだ。

厚底シューズ使用のリスク

ランニング雑誌の草分けである「ランナーズ」の黒崎悠(くろさき ゆう)編集長はこう話す。

「厚底シューズは従来のものより値段は倍近くしますが、市民ランナーでも特に若い層には引っ張りだこです。ただ、市民ランナーにはそれぞれの目標がありますから、記録が4~5時間のランナーはあまりこだわっていないように思う。シューズを変えることで故障もありえますから。厚底の恩恵は世界共通ですが、特に日本での効果が大きい印象ですね」

良いことばかりではない。碓井さんは「シューズに見合う鍛錬をしないと、故障者が増えるだろう。前に負荷がかかる分、膝を痛める可能性がある」と警鐘を鳴らし、青山学院大の原晋監督は厚底シューズはレースだけの使用にと使い分けているという。

日本は世界に例を見ないマラソン大国だ。だからこそ、シューズの改造が記録向上にも直結したのだ。五輪や世界選手権以外で、エリートマラソン、女子マラソンが行われてきたのは日本だけで、フルマラソンをテレビ地上波で完全中継する国も他にはなく、しかもどんなレースも視聴率は2桁を切ることがない。外国の友人に真顔で聞かれたことがある。「Not boring?(退屈じゃないのか)」

まだ世界への門戸が開かれていなかった1951年、ボストンマラソンで20歳の田中茂樹が優勝し、以来、山田敬蔵(けいぞう)、浜村秀雄、重松森雄(もりお)、君原健二、釆谷義秋(うねたに・よしあき)、瀬古(3年前には川内)と、90年代にケニアが台頭してくるまで、日本は世界で最も伝統あるマラソンの舞台で、最も多くのチャンピオンを生み出した。

その誇りの上に、国内のマラソン熱は定着した。苦しくても頑張る、最後まで諦めない、我慢を重ねて備える……寺沢徹と君原健二、宗兄弟と瀬古、瀬古と中山、中山と森下広一。2時間余の戦いは、退屈どころか、老若男女の心を一つにした。マラソンは野球とともに敗戦後の国民の支えだった。

記録はさらに向上し、世界との差は縮まるだろう。ただ、目下のところ、ライバルは時計であり、主役はテクノロジーなのである。沿道にいたカメラマンがふと気付いたという。横からの眺めが変わり、音も変わった――。
開催回数が最多と最も伝統のあるびわ湖毎日マラソンは鈴木の記録で幕を降ろし、最も権威ある大会を自負してきた福岡国際マラソンも21年限りと発表された。マラソンという日本人のドラマは、新たな足音とともに転換期を迎えている。

バナー写真:びわ湖毎日マラソンで、2時間4分56秒の日本新記録で優勝し、笑顔を見せる鈴木健吾(富士通)2021年2月28日、滋賀・皇子山陸上競技場[代表撮影] 時事

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