NY在住琴奏者 石榑雅代:映画『SAYURI』での巨匠ジョン・ウィリアムズとの出会い

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1992年の渡米以来、琴・三味線奏者としてニューヨーク(以下、NY)を拠点に全米で活動する石榑(いしぐれ)雅代さん。2005年公開のハリウッド映画『SAYURI』(スティーブン・スピルバーグ製作、ロブ・マーシャル監督)の音楽制作に参加するなど、輝かしい経歴を持ち、最近では映画やテレビCMのみならず、実験音楽への参加といった新たな分野にも挑戦している。活動拠点を移してから四半世紀が経った米国での活動、そして米国における邦楽の受容の変遷について語る。

石槫 雅代 ISHIGURE Masayo

NY在住の琴・三味線奏者。5歳から琴を弾き始め、当時の高崎芸術短期大学(2004年、創造学園大学に統合)の邦楽科を卒業後、沢井流創始者の故・沢井忠夫氏と妻の一恵(かずえ)氏の内弟子として、住み込みで修行。 1992年に米国コネチカット州にあるウェスリアン大学に琴・三味線講師として派遣され、 96年より活動拠点をNYに移す。現在は演奏活動をしながら、コロンビア大学などで教鞭を執っている。

石榑雅代さんは2021年2月、在NY日本国総領事館の招待で琴を演奏し、その日本独特の美しい音色をオンラインで世界中に披露した。着物姿で現れた石榑さんは、しなやかで華麗な指さばきから堂々たる演奏を繰り広げ、邦楽や日本文化を愛する人々を魅了した。このイベントは、同領事館がコロナ下の音楽家を支援するために大使公邸で月に1度開催している「フライデー・ナイト・ライブ」の一環だ。

「実はあのライブでは、人生で初と言っていいほど緊張しました。演奏後は(その反動で)3日も寝込んだほどです。でも(当日は)マスクをしていたので、緊張に気付かれなくてよかったです」

普段メディアで目にするのは着物姿が多いが、この日は洋服姿で筆者を自宅に招いてくれた石榑さん。これまで何千・何万人の観客を前にしたコンサートからハリウッド映画に至るまで、さまざまな大舞台を経験してきた音楽家の口から出たのは意外な感想だった。

ある日突然ハリウッドからオファー

ハリウッド映画『SAYURI』で大役を得たのは、突然のことだった。

「ある日、ソニーミュージックから『ジョン・ウィリアムズが映画のために琴奏者を探しているから、ハリウッドに来てくれ』と、突然連絡がありました。私は失礼ながら『どこのジョン?』と思ったのですが、調べてみると、すごい作曲家の方だということが分かりました」

ジョン・ウィリアムズは映画ファンにはおなじみの名前。『スター・ウォーズ』や『E.T.』など、数々のハリウッド映画の音楽を手がけた巨匠だ。そのような人物から突然オファーが舞い込んだのは、なんとも米国らしいエピソードだ。

「琴を持って、彼のロサンゼルスのオフィスまで会いに行きました。ジョンは琴の生の音色を聴くのは初めてのようでしたが、とても気に入った様子でした」

映画音楽の録音には、チェロ奏者のヨーヨー・マやバイオリニストのイツァーク・パールマンら超一流の演奏家に加え、100人規模のオーケストラが参加した。

「収録は出来上がっている映像に合わせて、シーンごとに録音していくのですが、ジョンさんだけが映像を見ながらタイミングを合わせて指揮をし、それがちゃんと映像に収まるんです。多くの作品を手がけた、映画音楽制作の大御所ぶりを感じた瞬間でした」

収録中は、ヨーヨー・マがずっと場の雰囲気を和ませてくれたり、気軽に声をかけてくれたりしてくれて、石槫さんは彼の大ファンになったという。

この時、全体の録音終了後、ハープ奏者と共に残ってほしいと突然言われた。

「一体何事? と思ったのですが、スタッフから、事前に渡されていた楽譜のパートを琴とハープの二人だけで演奏してほしいということでした。現場にはスタッフが50人ぐらいいたと思いますが、皆が静まり返り、プレッシャーで気が遠くなる中、必死で演奏しました。そのパートは、琴では演奏不可能だと事前に伝えていたのに、なぜか弾かされることになったのです。具体的にどうしたのか覚えていないけど、なんとかやりきりました」

その際みんなで撮った記念撮影は、大切に自宅に飾られている。15年以上前のことだが、今でも忘れられない良き思い出だ。

ハリウッド映画『SAYURI』の音楽収録に参加した時の写真。(左から)ジョン・ウイリアムズ、石榑さん、一人おいてイツァーク・パールマン、ヨー・ヨー・マ(本人提供)2005年
ハリウッド映画『SAYURI』の音楽収録に参加した時の写真。(左から)ジョン・ウィリアムズ、石榑さん、一人おいてイツァーク・パールマン、ヨーヨー・マ(石槫さん提供)2005年

渡米した理由は「道を切り開くため」

石榑さんが琴を弾き始めたのは5歳のころ。母親がもともと趣味で琴を弾いており、自宅に琴があったことから、「自分でもちょろちょろ弾き始めました」。

地元・岐阜のとある先生の下でしばらく琴を習っていたが、その時は漫然と続けていた状態だった。

大学は地元を離れ、尊敬する沢井忠夫氏(故人)の教えを受けられるというので、当時の高崎芸術短期大学(現・創造学園大学)に新たに創設された邦楽科を選んだ。

沢井忠夫氏とは、沢井箏曲院(沢井流)の創始者で、日本を代表する箏曲家・作曲家。1980年代に一世を風靡(ふうび)した「ダバダ~」や「違いのわかる男」でおなじみのネスカフェのテレビCMにも出演した人物と聞けば、ピンとくる人も多いだろう。

石榑さんは大学卒業後、沢井氏に弟子入りし、2年間住み込みで修行をした。その後は地元で琴奏者として活動することも考えたが、地元でやっていくべきか否か、進路について思い悩んでいた。そんなある日、沢井氏の妻、一恵氏にこう助言された。

「日本にいても活躍の場は限られている。どこか(国内の)遠方の地に行くか、お嫁に行くか。それなら海外に行って琴を広めながら、自分の道を切り開いてみてはどうか」

沢井氏の紹介で 92年、琴・三味線講師として米国コネチカット州のウェスリアン大学に派遣された。ビザの関係で95年にいったん帰国したものの、現地の生活が性に合ったので、再度ビザを取得して翌96年に今度はNYへ行くことになった。

「NYには琴の先生がいたのですが、ご家族の事情でその方が帰国することになり、ほかに琴奏者がいなかったので私が行くことに。偶然の巡り合わせとなりました」

師匠のネームバリューも助けとなり、NYでも早い時期から生徒がついた。

「最初は2年のつもりでしたが、本格的に米国でやっていこう、ここからは師匠を頼らず、自分の力だけで勝負して生きていこうと心に誓いました」

米国人が寄せる日本の伝統芸能へのリスペクト

石榑さんが米国に渡り、早くも四半世紀以上が過ぎた。「渡米した90年代は良い時代でした」と、石榑さんは振り返る。

当時NYでは琴自体が珍しく、演奏の機会も多かったが、今は珍しい楽器ではなくなったという。

「NYにないものはない、と言われるほど何でもあり、人々の目も肥えていますから、琴を演奏したところで、そんなにありがたがられない。けれども、私の下で学んだ琴奏者は増えています」

教会でコンサートを行った後、観客から琴について質問を受ける石榑さん。時間が許す限り直接楽器に触れてもらう機会も作っている(本人提供)2018年頃
教会でコンサートを行った後、観客から琴について質問を受ける石榑さん。時間が許す限り直接楽器に触れてもらう機会も作っている(石槫さん提供)2018年頃

米国人は日本の伝統芸能に対してリスペクトを持っていて、直接伝えてくれると言う。

「この国での演奏の仕事は主に二つ。一つは、誰でもいいから着物姿で座っていればよいピクチャー(シンボル)的な仕事、二つ目はライブをしたり、自分の演奏を映画や映像音楽、体感的実験音楽などのプロジェクトに使ってもらう、いわばプロの奏者としての仕事。後者において、米国人はきちんと琴の演奏を芸術(アート)として扱ってくれます」

NYでの演奏の機会が減った分、他の都市での仕事は増え、コロナ前はネブラスカ州やケンタッキー州など、地方に呼ばれる機会が多くなった。地方に住む人々の反応はいかばかりか?

「琴の音色を聴くのが人生初の方もいますし、日本在住歴があって聴きに来てくれるケースもあります。中には、日本で尺八を習っていたとか、『春の海』を一緒に演奏したいと懇願される方もいます。現在、東京藝術大学で尺八を学んでいる学生の多くが外国人であるように、私の琴演奏に関心を寄せてくれる人は20代の方が多いですね」

中には、戦争花嫁の日系人がたくさん住む地域もある。

「演奏を聴きながら涙を浮かべて喜んでくださると、やりがいも違います。つい先日は、急死された日本人の大学教授のお葬式後の会食で演奏してほしいというご依頼もありました。日本ではあり得ない経験もたくさんさせてもらっています」

コロナ禍で演奏の仕事は減っているが、「教える」仕事は今も堅調。こちらも生徒は若い世代の米国人が圧倒的に多い。

例えば、NYのコロンビア大学の琴クラスで週に1度、琴を教えて10年になる。故・ドナルド・キーン博士の弟子にあたる女性教授が同大学に中世日本研究所を設けており、邦楽では雅楽、琴、尺八のクラスを設けている。クラブではなく、単位を取得できる本格的なクラスだ。

私立図書館で行ったコンサートの演奏後、琴でも使用する西洋の五線譜と琴専用の楽譜を見てもらいながら読み方を説明しているところ(本人提供)2016年頃
私立図書館で行ったコンサートの演奏後、琴でも使用する西洋の五線譜と琴専用の楽譜を見てもらいながら、読み方を説明しているところ(石槫さん提供)2016年頃

また、石榑さんは個人教授も渡米以来続けている。20年以降、オンライン授業に移行したことで、サンフランシスコ、バージニア、サンホセなど全米各地から「習いたい」と依頼が寄せられている。生徒は1800ドル(日本円で約19万円)ほどする琴を購入し、熱心に学んでいるそうだ。

「生徒さんは日本滞在歴があって、日本語を話せる方やハーフの方などで、20代前半~30歳手前ぐらいの層が多いです」

「順風満帆」だけではなかった四半世紀

石榑さんの在米生活の話を聞くと順風満帆のようにも聞こえるが、実は幾多の荒波にもまれてきた。日本でも多くの人々が抱える「女性としての人生とキャリア」の問題だ。

「渡米以来、自分なりにギリギリまで走り続け、37歳で結婚し、40歳で出産したのですが、子育てをしながら第二子の不妊治療もしていました。しかし、2人目を授かることができず、ノイローゼ状態に。4年ほど演奏活動から離れていると、別の琴奏者が台頭してきたり、私という奏者が社会から忘れ去られるのではないかと、世の中から置いていかれる思いが強くなった。琴なんてどうでもいいという気持ちにもなっていたのですが、ある日生徒さんに『こんなに先生に教えてもらいたい人がたくさんいるのだから、いいかげん前を向いて』と言われ、やっと目が覚め、そこから抜け出しました」

25周年の時に記念リサイタルを開き、2022年は早くも在米30周年を迎える。次の記念企画は何にしようかと考えていたら、コロナ禍になった。今は来たるべきポストコロナに向け、エネルギーを充電しながら、時機をうかがって次の活動へ思いを馳せている。

海外から日本の伝統芸能について思うこと

日本では、若い世代を中心に伝統芸能離れが目立ち、継承の難しさや衰退が叫ばれている。石槫さんは米国でも人気の歌舞伎を引き合いに出して、邦楽の存続の難しさを語る。

「漫画の『ワンピース』を演目に取り入れたり、NYのリンカーンセンターで公演をしたりと歌舞伎界は努力しています。これができる理由の一つは、動くお金が違うからです。一方、邦楽界はそこまでの地位と予算がありません。若い世代が津軽三味線や和楽器バンドでNYでも公演をしてきましたが、動員数も規模も、歌舞伎とは雲泥の差があります。生活も大変だから、私も息子に継承してもらおうとは思っていません。このまま廃れていくのは仕方がなかろうと諦めている人が多いのは、こんな理由からです」

石榑さんは文化遺産としての邦楽の未来を危惧するが、それでも邦楽が生き残る道があるとしたら?

「米国ではプロとして琴や尺八を演奏している若い世代の人が多いので、最近は逆輸入でもいいのかなと思っています。ここには伝統という名の鎧(よろい)を着ていない新世代が時に奇想天外な発想でイベントの新企画を練るなど、柔軟で新しい風が吹いていますから。彼らがいずれ日本にも邦楽の魅力を広めてくれ、日本でもそれについてきてくれる人が出てくれたらいいなと思います」

バナー写真:石槫雅代さん。尊敬する師匠の故・沢井忠夫さんの写真の前で 撮影:安部かすみ

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