台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「技術と経営の両輪で駒を前に進める」美容師、サロンオーナー ・鵜林理恵

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鵜林理恵が台北で営む美容室「REDCHESS」の名付け親は、元・ラグビー日本代表の大畑大介。友人を介して知り合い、出店時の出資者の一人となってくれたのが縁だ。店名の由来は、大畑の好きな色が赤だったこと、またチェスには熱血ラガーマンからの「前に進め」とのエールが込められている。鵜林の台湾との縁を紹介する。

鵜林 理恵 UBAYASHI Rie

大阪府寝屋川市出身。高津美容専門学校、龍谷大学経営学部卒。美容師として現場で研さんを積む一方、経営コンサルタントとして美容室経営や多店舗展開を支援。2006年に台湾へ移住。08年、台北に美容室「REDCHESS」を開店。台湾人美容師の育成、講師を務め、数々の著名人のヘアメイクも担当。15年に「ステップボーンカット(小顔補正立体カット)」スタイルの講師資格を取得。技術と経営、双方の観点から、日台美容文化の交流や質の向上に尽力するカリスマ美容師。愛犬の名は「星」。

ヘアメイクのことで頭がいっぱいだった駆け出しの頃

鵜林理恵が美容の世界に触れたのは、高校1年の冬休みのことだった。アルバイトで床掃除を手伝った美容室の店主から筋を見込まれると、ほどなくシャンプーを任された。やがて、地元の美容組合理事長の付き人として、組合主催のファッションショーやコンサートにも同行するようになった。

「美容室では髪型も服装も自由。ファッションショーの楽屋ではプロのモデルさんばかり。美容に関わることで垣間見られた華やかな世界に憧れました」

それからは寝ても覚めても髪のことばかり考えていた。両親を説得し、高校を中退して、美容専門学校の門をたたいた。卒業後は、インターンとして地元の美容室に勤めた。すぐに頭角を現し、ヘアデザインのコンクールでは度々入賞した。その3年後、東京の人気美容室が神戸に出店するとの情報を得ると、即座に求人に応募した。採用試験会場では雇用条件も聞かずに面接官に懇願した。

「給料は要りません。ずっとシャンプーの担当でも結構です。ぜひとも貴店で学ばせてください」

その思いは通じた。新しい店で鵜林は徹底的に仕事に打ち込んだ。毎日が楽しかった。

阪神淡路大震災で自分の未来を見失う

ところが、その数年後、それまでの価値観が覆るほどの出来事が起こった。阪神・淡路大震災(1995年)だった。同僚たちと泊まりがけで神鍋高原(兵庫県豊岡市)にスキーに来ていた鵜林は、突然の激しい揺れに襲われた。皆自宅は大阪にあった。車で元来た道を戻ろうとするが、道路は寸断され、地図は役に立たない。迂回(うかい)を繰り返しては、ひたすら明かりのともる方向へ車を走らせた。

市街地に入ると、ガスの臭いと誰かが泣き叫ぶ声がした。携帯電話がなかった当時は、家族との連絡も取れなかった。十数時間走り続け、ようやく対岸に大阪市街が見える場所までたどり着いた。ところが、目の前の橋は波打って今にも崩れ落ちそうだった。しかし、運転していた同僚は意を決してアクセルを踏み込んだ。向こう岸の灯りだけを見据え、車は猛スピードで橋を駆け抜けた。

美容室は3カ月間休みとなった。この間の給与も保証された。東京に本社のある企業の体力がものを言った。一方、震災の影響で少なからぬ個人経営の店がつぶれていった。経営母体の体力差を目の当たりにした。

「それまでは睡眠時間を削るほど仕事にのめり込んでいました。でも、夢を持って頑張っても、それが一瞬で無くなることもあるのだと思い知らされました」

自分の未来が見出せなくなった。悶々(もんもん)としたまま鵜林は美容室を辞めた。生活のためにと求職したカラオケ店では不採用となった。高校中退という学歴の壁が立ちはだかった。ショックだった。だが、悔しさをバネに一念発起すると、大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)に合格した。龍谷大学の社会人コースに進学し、経営学を専攻した。震災時に経営の大切さを痛感したからだ。23歳の時だった。

大学卒業後は、コンサルタントの立場で美容室の経営に関わった。すると、偶然コンサルタントに入ったところから請われ、再び美容師として現場に立つこととなった。そこでは地域統括マネージャーも任され、後進スタッフを教育しながら店舗を7店まで拡大した。これまで培った美容師の技術と経営コンサルタントの知見が融合し、花開いた瞬間だった。その店のオーナーの上野清信が鵜林の恩師だ。

「上野さんからは顧客との一期一会の大切さや奉仕の心、そして誰のために、何のためにカットするのかを教わりました」

台北で美容室を開業する

鵜林と台湾との関わりは2004年に訪れる。2泊3日の旅行だった。「華流」と呼ばれた台湾ドラマの全盛期。当時の台北は建設ラッシュでほこりだらけだったが、街全体に勢いがあった。ふと台北で一番おしゃれな美容室をのぞいてみた。だが、そこで感じたのは、日本の流行の最先端からの距離だった。台湾の女性はもっと素敵になれるはずとの思いが残った。その後も台湾に通い続け、06年に鵜林は台北へ拠点を移す決断をする。

「後悔のない人生とは何だろうと考え抜きました。中国語で仕事もしたかった。以前の取引先から、美容品の使い方を台湾で指導してほしいと頼まれたタイミングとも重なりました」

最初は別の日本人が経営する美容室を手伝った。初めての海外生活に四苦八苦する毎日だった。言葉の壁や文化風習の違いに疲弊し、一時期は8キロも体重を落とした。07年秋に最初の店との契約が切れると、居留ビザも更新されなかった。しかし、まだ中国語も自由に操れなかった。このまま帰るわけにはいかない。鵜林の心に火が点いた。

台湾に残るには自分で会社を設立するしかない。幸い07年の暮れに台湾の法律が改正され、外資単独でも新規で会社を興せる状況となっていた。しかし、今度は前例が無い申請に、書類が役所の窓口でたらい回しとなった。ビザもなかなか下りずに胃の痛い思いをした。その土地の守り神である「土地公」にも神頼みした。紆余(うよ)曲折を経て、08年5月に念願の美容室「REDCHESS」を地下鉄大安駅近くの繁華街に開業した。その出資者の一人が、共通の友人を介して紹介された店の名付け親の大畑大介だった。

大畑大介さん(右)と鵜林理恵さん(左)
店名の「REDCHESS」の名付け親である大畑大介さんと

店のスタッフたちには美容師としての技術や接客マナー、掃除の仕方から経営の基本に至るまで、自らが先頭に立って伝えた。また、給与や休日等の待遇や福利厚生、プライベートの将来設計まで、スタッフと一緒に考える姿勢を貫いた。店の売り上げや利益も透明化し、スタッフと分かち合った。時には悔し泣きする姿も含め、人間「鵜林理恵」の全てをスタッフには見せた。

「スタッフは実の家族よりも多くの時間を共有するファミリーです。美容師の暮らしを豊かにして、美容師が報われるようにしたかったのです。物は壊れても人は残ります」

阪神・淡路大震災を経験し、恩師上野の薫陶を受け、「人材」の大切さを身に染みて感じてきた鵜林だからこそ、生まれた経営哲学なのだろう。スタッフたちもその姿勢に応えるように、「REDCHESS」への愛社精神を隠さない。人の入れ替わりが激しい台湾において、開店から13年経った今でも2人のスタッフが留まっている。

台湾の美容界で評価を得る

鵜林の技術を信頼し、温かな店の雰囲気を愛するファンも次第に増えていった。開店の半年後には、1カ月先まで予約が取れない人気店となった。1年後にはアシスタントとしてスタートしたスタッフも十分に育っていた。しかし、5席しかない店舗では、満席になるとスタッフの居場所を探すのにも苦労するようになった。明らかに手狭となっていた。

2年後の2010年に新たな出資を受け入れると、現在の場所に店舗を移転する決断をした。家賃は4倍になったが、若いスタッフに存分に活躍する場を与え続けたかった。駆け出しの頃の自分と、夢を持って仕事に取り組むスタッフたちの姿が重なった。

美容室「RED CHESS」
美容室「REDCHESS」

やがて、それぞれのスタッフが自分の顧客を持つようになった。台湾や日本から撮影に訪れた芸能人からのヘアメイクの依頼や、メディアからの取材申し込みも頻繁に来るようになった。またアジア人の顔の骨格の研究から日本で考案された「ステップボーンカット(小顔補正立体カット)」スタイルの講師資格を15年に取得すると、台湾の美容師向けの技術研修も積極的に行った。

RED CHESSの店内研修で現地の美容師を指導する鵜林理恵さん
REDCHESSの店内研修で現地の美容師を指導する鵜林理恵さん

16年、横浜コンベンションセンターで開催された美容業界の一大イベントTWBC(タカラ・ワールド・ビジネス・コングレス)では、日本の美容界の大御所に混じり、鵜林は台湾代表として登壇した。自身の持つ技術、知識、経験を台湾の美容界に惜しげもなく伝え続けた姿勢が評価されてのことだった。勲章が一つ増えた。今後の鵜林はどこに向かうのだろう。鵜林は満面の笑みでこう答えてくれた。

「将来のことはあまり考えません。この土地と人々とのご縁に感謝しながら、今を生きるだけです」

鵜林理恵さん(前列中央)とRED CHESSのスタッフら
鵜林理恵さん(前列中央)とREDCHESSのスタッフら

写真は全て鵜林理恵さん提供
バナー写真=美容師向けの講習会で技術を披露する鵜林理恵さん

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