NHK武田真一アナウンサーに聞く(後編):ゴールは「ひとりの命も落とさない」こと

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武田アナウンサーにとって、大きな転機となったのが2011年の東日本大震災だった。当日、被災地から飛びこんでくる映像を伝えつつ感じた無力感。その後は幾度も現地に足を運び、取材を続けてきた。いま考える、災害報道のあるべき姿とは?

武田 真一 TAKETA Shin’ichi

1967年熊本県生まれ。90年NHK入局。熊本放送局や松山放送局、沖縄放送局の勤務を経験。2008年から9年間『NHKニュース7』キャスター、その後21年春まで『クローズアップ現代+』キャスターを務めたほか、東日本大震災や改元、選挙など多くの特別番組を担当。21年4月から大阪拠点放送局に異動し、『ニュースきん5時』『列島ニュース』などのキャスターを担当している

―武田さんにとって、2011年の東日本大震災の放送に携わった経験が、その後のキャスターとしての在り方に大きな影響を及ぼしているように感じます。

そうですね。震災当日の放送も担当しましたし、その後も何度も被災地に足を運んできました。3月11日、震災発生から1時間ほど経った頃に東京のスタジオに入ると、その直後に、仙台市や名取市の海岸を巨大な津波が襲うヘリコプターの映像が入ってきました。何が起きているのか必死に描写し、言葉はたくさん発したものの、実際に“そこ”にいる方々に何を言えばいいのかわからず、無力感を感じていました。

震災発生後初めて現地に入ったのは、大型連休に入った頃でした。岩手県大船渡市の被災地を歩いていると、壊れた公園の時計がありました。時計の針が指していたのは3時25分、地震発生からおよそ40分ほどです。その間に命を救えるのは何か?やはり情報ではないか……。無力感に打ちのめされていた私は、この時計を見て、もう一度なにができるか考えてみようと思ったのです。

2011年5月ごろに被災地を訪れた際に遭遇した大船渡の公園、時計の針は3時25分を指していた。撮影:武田真一アナ
2011年5月ごろに被災地を訪れた際に遭遇した大船渡の公園、時計の針は3時25分を指していた。撮影:武田真一アナ

もちろん、言葉だけで人の命が救えるわけではありません。住んでいらっしゃる方の日々の備え、行動に移すための情報や呼びかけがあってはじめて、命を守れる報道につながります。それでも3・11を契機として災害報道について考え直さなければならないと、アナウンサーが話す言葉の改定や、原稿を読むプロンプターの改善に取り組んできました。例えば3・11の後は、震度や警報の情報を元に、「今すぐ逃げて下さい」とか「命を守る行動を取って下さい」、「お互いに助け合いましょう」と、メッセージを伝えるコミュニケーションを増やしました。

それでも日本各地で地震や災害は発生し、命は失われ続けています。この状況が続いている限り、放送する側として絶え間なく考えていくべき課題です。

ひとりも命を失うことがない放送

―3月2日に放送された「クローズアップ現代+」のなかで、武田さんは「放送で人の命が救えるのか」と葛藤されてきた気持ちを話されていました。震災から10年が経ちますが、改めて災害報道について、どう考えていらっしゃいますか。

自分が3・11で感じたことや、災害報道に携わってきた経験を生かして、次に起きるかもしれない災害で、“ひとりも命を失うことがない”放送を実現したいと思っています。「一人でも多くの命を救う」のではなく、「一人も命を落とさない」。そのために、自分たちに何ができるのか。自分が大阪に来た意味は、そこにもあると感じています。

首都直下地震が起きて首都圏が大きな災害に襲われた場合、大阪はバックアップとして放送を担当する役割を担います。その時にどういう放送をすべきなのか、大阪や西日本にいるアナウンサーやスタッフと一緒に考え、スキルアップしていきたい。

それから南海トラフ地震が来た場合、大阪は大きな被害を受けると予想されています。その時にどれほどの放送ができるのかは分かりませんが、阪神淡路大震災があったこともあり、関西には防災の専門家も大勢いらっしゃいます。大阪でしっかりネットワークを作り、来るべき大災害にどう備え、何を伝えればいいのか見つめ直すためにも、自分は大阪にいるのだと思っています。

災害が起きた時、アナウンサーに何ができるのかと問われると、とても難しい。それでも、ひとりも命を失わないための放送をいつか実現したいですし、そのゴールを目指す気持ちは変わりません。

今年は東日本大震災から10年、そして熊本地震から5年の節目の年だとよく言われます。私も「NHKスペシャル」や「クローズアップ現代+」、「ニュースきん5時」など、様々な番組でお伝えしてきました。でも、この5年や10年が短かかったのか長かったのか、感じ方は人それぞれです。まだまだ道半ばとか、ようやく一歩を踏み出したばかりという方も、たくさんいらっしゃいます。熊本地震の取材で知り合ったレストランのオーナーは、家を再建し、レストランも再開されましたが、まだまだ復興は道半ばだと話されていました。どこが節目なのかは人によって違います。5年だから、10年だからと、伝える側がひとくくりにすることは慎まなければいけないと自戒しています。

―アナウンサーとして、何かを伝えるとはどういうことなのでしょうか。

日本各地の人が発する血の通った声や思いを受け止め、自分の心に浸して感じる波紋を言葉にして届けることでしょうか。この1年間、コロナウイルスにより苦境にあえぐ言葉を多く聞いてきました。その言葉はどれも重く、すぐに解決できる魔法を私たちが提示できるわけでもありません。

たとえば今、大阪の医療は危機的状況にあります。医療現場で看護師さんや重症者用の病床が足りないのでケアが必要な患者さんを受け入れることができず、救急搬送すらままなりません。でもこの危機感は、身近に患者さんがいない方たちにはなかなか伝わりづらい。コロナウイルスに立ち向かう時に、この感覚のギャップが大きな課題になっています。ギャップを埋めるためには、「ああ、そうなんだ」と受け止められる単なる情報ではなく、視聴者の心を動かすものとして伝える必要があると思うのです。

「大阪コロナ重症センター」で行われた医療研修(共同)
「大阪コロナ重症センター」で行われた医療研修(共同)

そのためにはまず、伝え手である私自身が我がこととして誰かの声にしっかり耳を傾け、感じなければいけません。ぼーっと聞いているわけにはいかない。そして感じたことを、一生懸命自分の具体的な言葉にしてお伝えする。その言葉に共感をいただければ、たとえ立場が違っても、ひとつの目標に向かってお互いを尊重しながらそれぞれの歩幅で歩むことができるのではないでしょうか。

世の中の現実を前に、報道機関として、アナウンサーとして、そして武田真一というひとりの人間としてどう受け止め、感じ、生きていくのか。伝えるとはすなわち、自分自身の生き方が問われることだと感じています。

共感の輪を広げていけるキャスターとして

―武田さんの5年後、10年後の夢を教えてください。

まず、「ニュースきん5時」が10年続いてくれたら嬉しいです(笑)。「のど自慢」のように、日本各地に住む多くの人たちに、この番組は自分たちのことを伝え、味方になってくれる身近な存在だと認識していただきたいし、そこに向かってみなさんと共に進んでいきたいと考えています。

2013年冬に取材で訪れた福島県二本松市にて。浪江町から避難してきた人たちが開いた店でなみえ焼きそばを食べる。撮影:NHK
2013年冬に取材で訪れた福島県二本松市にて。浪江町から避難してきた人たちが開いた店でなみえ焼きそばを食べる。撮影:NHK

そして今年は自分にとっても、大きな変化の1年になります。大阪への異動を告げられた時は、正直、東京を去りがたい思いもありました。でもそれは自分で描いたひとつの生き方に固執していることにほかなりません。いまは逆に、コロナウイルスによって変化せざるを得ない新しい社会のなかで自分がどうやって生きていくのかをもう一度考えるためにも、とてもいい機会をいただいたと感謝しています。そして、自分が感じたことを真摯に表現することで、世の中が少しでもよくなり、社会に共感の輪を広げていけるキャスターとして成長していきたいですね。

バナー写真:2018年冬に取材で訪れた南三陸町の高台から望む、撮影:武田真一アナ

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