寛政の改革で混浴禁止に? お江戸銭湯よもやま話 : 『 守貞漫稿』(その10)

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江戸時代の銭湯について『守貞漫稿』の筆者・喜田川守貞は、「京坂ニテ風呂屋ト云イ、江戸ニテ銭湯アルヒハ湯屋ト云フ」と書いている。京都・大坂・江戸の三都とも、呼び方は違うが銭湯があったが、京坂は浴室のある家が多く、小さな借家の住人が風呂屋を利用する程度だった。一方、江戸は人口が急増し、長屋住まいの庶民が頻繁に利用したため、天保〜嘉永から幕末に至る時期には約600軒を数えた。

開国が銭湯に及ぼした影響

『守貞漫稿』によると、江戸の銭湯が文献に登場するのは天正19(1591)年。『そぞろ物語』に、「卯年ノ夏ノ比(ころ)、伊勢与一ト云フ者、銭瓶橋ノ辺ニ銭湯風呂ヲ一ツ立ツル」と載っているのが初見だという。

伊勢出身の商人・与一が、銭瓶橋(ぜにかめばし / 東京都千代田区大手町)に開店したのが、江戸の銭湯第1号だった。東京を代表するオフィス街に、銭湯があったわけだ。

だが、「息ガツマリテ物モ云ハレズ、烟(けむり)ニテ目モ明カレヌ」——熱で息が詰まり、風呂を沸かす釜の煙で目も開けていられない有様だった。湯の温度が、かなりの高温だったのだろう。そこで、適温に調整すると、次第に庶民に浸透していく。

店の前に「弓と矢」を掲げて目印(看板)としたことも、評判を呼んだ。弓で「矢射る」のが、「湯入る」の音に似通っていたからという駄じゃれである。

もっとも駄じゃれ看板はやがて姿を消し、天保以降(1830〜)は紺地に「男女」「湯」の布を掲げるのが定番となる。

湯銭(入浴料)は大人10文くらいだったが、天保12(1841)年の天保府命(老中・水野忠邦 / みずの・ただくにが行った天保の改革)によって大人8文、子供6文、小児4文に定められた(看板と湯銭はバナー写真参照)。

また、文久2〜3年(1862〜1863)には、薪(まき)の高騰によって大人12文に値上がりしたと、守貞は記す。

文久2年は開国の影響で諸物価が高騰し、桜田門外の変や、薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した生麦事件など、血生臭い出来事が頻発した時期である。

さらに慶応元(1865)年には16文、翌2年8月には24文と、値上げは相次いだ。
政情不安は、銭湯の経営にも影響を及ぼしていた。『守貞漫稿』は、そうした時代の銭湯を記録している。

浴槽は現代の銭湯とは趣がかなり違う

守貞が描いた江戸の銭湯の見取り図が残っている。

守貞が描いた江戸銭湯の見取り図。(イ)土間(ロ)高坐(番台)(ハ)脱衣所(ニ)流し板(洗い場)(ホ)石榴口(ヘ)浴槽/『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵
守貞が描いた江戸銭湯の見取り図。(イ)土間(ロ)高坐(番台)(ハ)脱衣所(ニ)流し板(洗い場)(ホ)石榴口(ヘ)浴槽/『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

入り口に土間と高坐(番台)があり、左が男湯、右が女湯に仕切られている。脱衣所、洗い場、浴槽の配置はほぼ現在の銭湯と同じである。

異なるのは、見取り図の浴槽の手前にある「石榴口」(ざくろぐち)である。広辞苑で「石榴口」を引くと、「江戸時代の銭湯の湯ぶねの入口。湯ぶねの前部を板戸で深く覆ったもの。体を屈(かが)めて中に入る」と記されている。つまり、洗い場からそのまま浴槽へと広い空間が続くわけではなく、浴槽は仕切られた小部屋のようになっていた。

なぜこれを石榴口というか、守貞は「謎ナリ(=不明)」としているが、元和元(1615)年刊行の『骨董集』に「立テアキノ戸ナキヲ石榴風呂ト云フ」という記録があるそうだ。

守貞は石榴口の東西でのデザインの違いを記録している。左が大坂、右が江戸である。

大坂(左)と江戸(右)の石榴口の衣装の違い 『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵
大坂(左)と江戸(右)の石榴口の衣装の違い 『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

「風呂屋」はそもそも上方発祥で江戸に伝わったから、本来の石榴口の姿は左である。朱塗りの破風(はふ)造りで、花の彫り物まであつらえて豪華である。対して江戸は「華表ニ似タリ」。華表(かひょう)は、「とりい」と読む例が散見される。確かに鳥居に見える。

石榴口の板戸には絵が描かれている。詳細は不明だが、風景や人物のようだ。銭湯絵といえば富士山がおなじみだが、富士は大正時代に入ってから流行したので、江戸時代にはなかったとする説が一般的だ。守貞も富士の絵については一切触れていない。

なお、守貞より50年ほど前に生まれた山東京伝(さんとう・きょうでん)が享和2(1802)年に著した『賢愚湊銭湯新話』(けんぐいりこみせんとうしんわ)にも、江戸の銭湯の様子が描かれている。

山東京伝著『賢愚湊銭湯新話』(1802年)の銭湯の男湯。国立国会図書館所蔵 上の絵は洗い場側から石榴口を詳細に描いたもの。下の絵は浴槽の側から俯瞰(ふかん)して、低い出入り口の向こう側に洗い場の桶が見えている
山東京伝著『賢愚湊銭湯新話』(1802年)の銭湯の男湯。国立国会図書館所蔵 上の絵は洗い場側から石榴口を詳細に描いたもの。下の絵は浴槽の側から俯瞰(ふかん)して、低い出入り口の向こう側に洗い場の桶が見えている
山東京伝著『賢愚湊銭湯新話』(1802年)の銭湯の男湯。国立国会図書館所蔵 上の絵は洗い場側から石榴口を詳細に描いたもの。下の絵は浴槽の側から俯瞰(ふかん)して、低い出入り口の向こう側に洗い場の桶が見えている

注目すべきは、石榴口が上方風の破風であることだ。つまり、享和の時代までは江戸にも破風の石榴口があったが、何らかの理由で廃れ、50年後には鳥居の形が主流となっていたと考えられる。

いずれにせよ、浴槽は天井が低く、狭く、暗かった。現在のように外から光が射し込む、開放的な銭湯ではない。それでも庶民にとっては憩いの場だった。

寛政の改革で禁じられた男女混浴

守貞はこう書く。

「アル書に云フ。江戸モ先年ハ男女混浴ニテ槽ヲ別ケズ。松平越中守老職ノ時ヨリ別槽ノ官命アリ。シカラバ寛政以来、混浴禁トナル」

実は、銭湯は江戸初期〜中期までは混浴だったのだ。松平越中守(松平定信 / まつだいら・さだのぶ)が老中に就任すると寛政の改革(1787〜1793)が断行され、混浴禁止の町触(まちぶれ)が出た。

禁欲と娯楽の抑制を標ぼうした定信にとって、混浴は風紀の乱れにつながり、看過できるものではなかった。

定信が失脚し老中の座を追われると、独自の判断で混浴を復活させる銭湯もあったようだが、今度は水野忠邦が天保の改革で再度取り締まり、男湯と女湯は完全に分離された。このように、当初は混浴だったが、時代が下るにつれ、男女の別が定着していった。

『肌競花の勝婦湯』1868(明治元)年、豊原国周画、国立国会図書館所蔵 : 江戸末期の銭湯を描いた女湯の錦絵。すでに混浴は廃止されている。右上にいる男性は三助(別料金の「流し代」を払った客の背中を流す奉公人)である
『肌競花の勝婦湯』1868(明治元)年、豊原国周画、国立国会図書館所蔵 : 江戸末期の銭湯を描いた女湯の錦絵。すでに混浴は廃止されている。右上にいる男性は三助(別料金の「流し代」を払った客の背中を流す奉公人)である

立地面積の狭い銭湯の中には浴槽を分離できず、「稀ニ女湯ノミニテ男湯ナキモアリ」と、女性専用も現れた。これでは女性の裸体を拝めないと、江戸の男たちは憤慨したらしい。

古典落語『湯屋番』には、銭湯に奉公に出た商家の放蕩(ほうとう)息子が、店じまいの後にこっそりと女湯専門に改装し、自ら番台に座ることを夢想する場面がある。滑稽噺(ばなし)だが、案外と当時の男の心情を表わしている。

ただし、この混浴禁止令、地方に限っては怪しい。

静岡県の下田了仙寺が所蔵する絵に、幕末の下田の混浴風呂が登場する。上方の破風を持つ浴槽と、男女共同の洗い場が描かれている。了仙寺は開国を決した幕府が日米和親条約を締結した場所であり、その縁で下田の風俗を異人が描いた絵だという。

江戸の男たちの憤りをよそに、地方の一部には混浴の伝統が存続し、現在に至っている。

バナー : 『守貞漫稿』国立国会図書館所蔵

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