パーカッショニスト小川慶太:2度目のグラミー賞を受賞するまで

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2005年に渡米し、現在はニューヨーク(以下、NY)を拠点に世界中で活動するパーカッショニストの小川慶太さん。彼が参加するバンド、スナーキー・パピーは21年、米音楽業界の最高の栄誉とされる「グラミー賞」を受賞した。小川さんは新型コロナの影響で授賞式には行けなかったものの、参加している別のバンド、ボカンテのメンバーとして、20年グラミー賞の授賞式を経験済みだ。これまで、世界的チェロ奏者のヨーヨー・マとも共演するなど、輝かしいキャリアの持ち主でもある。打楽器との出会いから渡米、グラミー賞獲得までの道のりを振り返ってもらった。

小川 慶太 OGAWA Keita

NY在住の打楽器(パーカッション、ドラム)奏者。米グラミー賞を受賞したバンド、スナーキー・パピー、ボカンテなどの正式メンバー。長崎県佐世保市出身。15歳の時にドラムを始め、高校卒業後に甲陽音楽学院(神戸市)で音楽を専攻。さらに2年間、東京で下積み生活を送り、2005年に渡米。バークリー音楽大学でハンドパーカッションを専攻、ジェイミー・ハダッド氏に師事。ヨーヨー・マをはじめとする世界のトップアーティストたちとも共演歴を持つ。参加したアルバムで2度のグラミー賞を受賞

グラミー賞授賞式の印象は「ザ・アメリカ!」

2021年3月14日に発表された第63回グラミー賞。米音楽業界の最高の栄誉とされる大舞台で、ある日本人ミュージシャンが参加するバンドが同賞を受賞した。そのバンドは、パーカッショニストの小川慶太さんが参加するスナーキー・パピー(Snarky Puppy)で、「最優秀コンテンポラリー・インストゥルメンタル・アルバム賞」に輝いた。しかも同バンドにとって同賞受賞は4度目の快挙だ。

狭き門である「グラミー」で栄えある賞を受賞し、華やかにレッドカーペットを歩く経験ができるアーティストは、ほんの一握りであろう。

21年の式典は新型コロナウイルスの影響で、メンバーと共にそれぞれの自宅から、Zoom(ウェブ会議システム)で見守ったが、小川さんが参加する別のバンド、ボカンテ(Bokante)も20年、同賞にノミネート。初めて同賞の授賞式を体験している。授賞式典でノミネートされたミュージシャンは、受賞の発表とライブ演奏の後、レッドカーペットを歩いて隣接するアリーナ級の大会場に移るという。

20年は、式典日の朝に元バスケットボール選手のコービー・ブライアント氏がヘリコプターの墜落事故で亡くなったため、例年とは趣の異なった式典となった。コービーの追悼企画が急きょ加わり、会場の周囲にはファンが押し寄せた。そんな様子を小川さんは振り返る。

「過去に受賞したアーティストや関係者も参列するため、人で埋め尽くされ、さすがエンタメの国『ザ・アメリカ!』という感じで、非常に華やかな場でした。普段自分が身を置く音楽シーンとはまた違う、ドカンとしたエネルギーが渦巻いていました」

テレビで見た衝撃的なドラムソロ

15歳でドラムを始めた小川さんは長崎県佐世保市出身。そもそもドラムへの興味は、小学生の時に見たテレビのジャズライブにさかのぼる。映像に映し出されたドラムソロに衝撃を受けた。小川さんは当時、そのドラマーが誰かは知らなかったが、後に驚くべき出来事に遭遇する。

「高校に入って地元のライブ喫茶で演奏するようになり、そこのマスターがドラマーだったことから、授業の後にドラムを教えてもらうようになりました。テレビにはいつもジャズ演奏の映像が流れていたのですが、ある時びっくりしました。僕が小学生の時に見た『あの映像』が流れ、よく見たらそのドラマーはマスターだったのです」

そんな奇遇の出会いを経て、小川さんは高校卒業後、神戸の甲陽音楽学院(現・神戸・甲陽音楽&ダンス専門学校)へ進学した。同学院は後に留学することになる米バークリー音楽大学との提携校だ。その流れで渡米したのかと思いきや、笑みをこぼしながら小川さんはこう振り返った。

「あまりにも多くの同級生がバークリーに進学するので、あまのじゃくな自分が出て、僕は上京することにしました」

小川さんは東京でパーカッショニストの仙道さおり氏の下、ローディー(楽器の手配や運搬、移動などを担当するスタッフ)の仕事を始めた。そこで働いた2年間、第一線で活躍している日本人ミュージシャンや来日アーティストの演奏を間近で観る機会に恵まれ、徐々に気持ちが海外へ傾くようになった。

「(仙道)さおりさんが(米国人女性ジャズシンガーの)マリーナ・ショウとレコーディングをするというので、付いて行ったら、演奏のレベルの高さに衝撃を受けました。これは米国に行って学ぶしかないと、その時、心を決めました」

ボストンにあるバークリー音楽大学に留学したのは2005年のこと。ドラムから心機一転、専攻をハンドパーカッションに変え、パーカッションの奥深さを知れば知るほどのめり込んでいった。その一方で、「感覚的には何となく分かっていたものの、自分で演奏しても最後のピースがはまらないまま、しっくりきていなかった」。

そこで07年、3カ月の夏休みを利用し、ブラジルで音楽を学ぶことに。

「自分のその後の音楽人生を大きく変えました。アカデミックな(机上の)場では学べないものが現地では音楽の洪水のように入ってきて、バークリーで学んだ2年以上の濃さが3カ月間に凝縮していました」

グラミー常連バンド、スナーキー・パピーへの参加

現在、小川さんはさまざまなバンドのメンバーとして活動中だ。2021年のグラミー賞を受賞したスナーキー・パピーの一員となったのは10年頃だという。

リーダーのマイケル(マイク)・リーグが始めたバンドだが、そのマイクと出会い、ツアーに参加し、レコーディングを共にするようになり、「気付いたら正式メンバーになっていた」と説明する。

そもそも小川さんがマイクに出会うに当たり、その縁を作った重要な人物が存在する。「米国でのキャリアは彼なしでは築けなかった」と言う人物こそが、ジェイミー・ハダッドだ。小川さんにとってバークリー時代の恩師であり、ポール・サイモンのバンドでも演奏歴のあるパーカッショニストだ。

小川さんはジェイミーにバークリーの「先生」として出会ったものの、卒業後はバンド仲間となり、演奏を共にするように。そのジェイミーが小川さんに紹介したのがマイクだった。

「マイクがスナーキー(パピー)の当時の本拠地テキサスからNYに引っ越すということで、ジェイミーに紹介され意気投合。少しずつレストランや結婚式で一緒に演奏したり、アルバム制作やツアーに誘われたりするようになり、自然な流れでメンバーにカウントされるようになったのです」

その後も3人の絆は深まっていった。マイクが後に結成したバンド、ボカンテのパーカッショニストとしても、ジェイミー同様に小川さんにも声が掛かるようになった。

「出会いや経験を与えてくれたジェイミーに僕はいつも言っているんです、『めちゃくちゃ感謝しているよ』って。彼は非常に人をつなぐのが得意。僕より30歳も年上なのにジョークを言い合うような性格で、今では親友のような存在です」

小川慶太さん(自宅のスタジオにて)撮影:Albert Cheung
小川慶太さん(自宅のスタジオにて)撮影:Albert Cheung

親友でもあり、メンター(良き指導者)でもあるジェイミーとマイクだが、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)以来、直接会えなくなった。しかし再始動に当たり、6月からボカンテの3作目のアルバムをスペインで制作し、その後は欧州ツアーも行うため、もうすぐスペインで彼らと再会できる予定だ。

長かった経済的に苦しい時代

米国においても、グラミーどころか、音楽1本で生計を立てることができるミュージシャンは、それほど多くはない。特にニューヨークは物価や家賃が高く、才能ある人々が夢を追いかけ、世界中から集まってくるので競争も激しい。

「音楽から離れた人やパンデミック以降にニューヨークを離れた人は多い」と小川さんも言うように、現実はなかなか厳しい。彼自身も「コンスタントに安定してきたのはこの6、7年のこと」と言う。初期のチェリストのヨーヨー・マ氏との共演(ボストンのシンフォニーホール)もあり、「『頑張ってる風』な見られ方をしていたけれど、実際には貯金もなく、経済的にはギリギリの時代が長かった」と本音を漏らす。

さらに2020年以降は、パンデミックが音楽業界にも大きく影を落とした。夏には落ち着くだろうから、しばらくゆっくりしようと楽観的に考えていたものの、スケジュールが次々にキャンセルになり、「これはまずい」と真剣に考え始めた。

「落ち込んでもいられないので、積極的にオンラインで発信できるようにシフトしていきました」

コラボ映像をSNS(インターネット交流サイト)などで発信したり、自身のパーカッション演奏を録音した「サンプルパック」(演奏フレーズのダウンロード用サウンド素材集)の制作・配信にも着手したりするようになった。

「演奏やツアーがゼロになった分、自宅でのレコーディング作業やレッスンが増えたので、まだ救われています」

スナーキー・パピーは、メンバーやスタッフなど、関わっている人が困難な時も、チームとしてサポートし合い、小川さんいわく「バンドだが、会社みたいな存在」。SNSのフォロワーが多く、ネームバリューもあるため、バンドメンバーとしてオンラインクラスや個人レッスンを開くのにも有利に働き、世界中からオファーがあるという。

「コロナにより活動内容が一転しましたが、新たな分野が広がりつつあります」

大切なのは、自分の個性やカラー

「この街にはすごいレベルの人がうじゃうじゃいる」

これは小川さんがNYに来て痛感してきたことだ。そんな中でも、自分を見失ったり迷ったりすることなく、わが道をまい進してきた。

「テクニックがうまい人ならたくさんいますが、誰にも響かなかったら意味がなく、やはり大切なのは自分の個性やカラーです。自分を分かって表現しているアーティストが一つ飛び抜けてくるんです。僕は自分の出す音について誰かを真似している意識がないので、同じことをやって対抗しようという気持ちにはならないし、自分はこれがやれるっていうのを知っていたのが良かったのかな」と自己分析する。

最後に若い世代へのメッセージとして、こんな言葉が返ってきた。

「自分に嘘をつかずに、自分のやっていることに純粋に向き合ってみてください。そして自分のことを思ってくれる周りの人を大切にしてください」

彼のサクセスストーリーにはいつも「大切な人」が要となってきた。

「その時その時に出会った人に助けられて、今の自分がいるのを身にしみて感じます。成功している上の世代から自分がしてもらったことと同じように、今度は自分が若い世代や何かを目指している人に引き継いでいけたらと思います。そしてこれからも自分のペースで良い音楽を作っていけたらいいですね」

バナー写真:小川慶太さん(自宅のスタジオにて) 撮影:Albert Cheung

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